千の夜に砂の一粒を探す。

灰汁須玉響 健午

第1話

僕は一人ぼっちのハリネズミです。

小心者の獣です。

誰か僕を好きになってください。

誰か僕を必要としてください。

でも僕は誰かを必要とはしません。

でも僕は誰かを好きにはなりません。

だから、僕は一人ぼっちです。

小さく小さく立ち回り、小さく小さく生きています。

少しでも危険を感じると、丸くなって身を守ります。

小さな音にも、気配にも、僕は身を固めて守ります。

僕は要らない存在です。

あってもなくてもよいのです。

僕は生きたくありません。

けれど死にたくもありません。

死にたくないことが、生きたいことと同義であったなら、どれほど救われたでしょう。

僕は生きるのも死ぬのもいやです。

寂しいのも、痛いのも、苦しいのもいやです。

誰か僕に触れてください。

誰か僕を抱きしめてください。

優しく撫でて、大丈夫だといってください。

慈愛に満ちた目で、必要だといってください。

でも僕の背中には針があります。

鋭い鋭い針があります。

触れようものなら、怪我をします。

だから、誰も僕を抱きしめてはくれません。

だから、誰も僕を必要とはしてくれません。

僕は一人ぼっちのハリネズミです。


■その一粒を探した後に。


面会室のガラス越しのその人は、厄が落ちたような、妙に清々しく穏やかで優しい目をしていた。

 ただその瞳はどこか空虚で、目の前の僕に向けられた視線も、おそらく僕を見てはいなかった。

 僕は面会を望んだものの、何から話をしてよいかわからないまま、じっとその人と手元の小さなテーブル部分を交互に見つめながら言葉を言いあぐねていた。

「どうして、きたの?」

 彼女からそう問いかけられて、僕はようやく、声を出す決心がついた。

「無視し続けることも、関係ないと言い切ることも、出来なかったからです」

「もういいと言ったはずよ」

 かつて言われたその言葉を、もう一度耳にする。

「僕は浅はかでした。あの時の言葉が、こういう意味だとまでは、考えが及びませんでした」

「やめてちょうだい。あなたを傷つけたり、これ以上罪の意識を背負わせるために、言ったわけではないのよ」

 わかっている。

 この人が、そういう人ではないのは、理解している。

 それでも、僕はやはりそれをネガティブに捉えずにはいられない。

「私はね、自分が間違っていることも、世の中で言えば悪であることも、十分に分かっているの。わかっていてやったのよ。何も解決されないことも、何もかも、全部わかっていて、納得した上のことなの」

 強い意思が伝わってくる眼差しだった。相変わらず、瞳には虚空が映し出されていたが、それでも、彼女がどれほどの覚悟をした結果、今この場所にいるのかが分かる。

「そう、ですか。僕なんかが、こんなことを言うのはおこがましいのですが、少しくらいは……、あなたの心中を察することはできると思います。十分の一や、あるいは百分の一くらいは、お気持ちが分かるつもりです」

 僕は言った。やっと、思考が滑らかになり、言葉として口から出すことが可能になってきた。

 僕の言葉に嘘はなかった。

 なぜならその『痛み』は、色や形を変えて、確かに僕の中にもあったのだから。

 また、沈黙が広がった。

 一分ほど、彼女は黙ったまま、うん、うんと小さく頷いた。

 そして、ふと、顔を上げてこちらを見つめた。

「千夜君。あなたは、前に進んだのね。自分の人生を生き始めた。今のあなたの目は、そういう目だわ」

「あなたから言われて、そうするべきだと思い、それなりに、努力もしました。僕なりに、踏ん切りというか、覚悟というか、『答え』のようなものが、見つかったのです。それで、僕は救われました」

 そう語っている途中で、不意にあの感情がこみ上げてきた。

 割り切り、言い聞かせ、なんとか納得して、救われたはずの心なのに、それを口にだして報告した途端に、あっけなく、一瞬にして胸を埋め尽くしたのだ。

「そう……救われて、しまったんです。僕は……だから……それが……」

 『申し訳なくて』。

 そう言おうとしたところで、

「それでいいのよ。申し訳ないなんて、思ってはいけない。せめて、あなたは救われなくては、あまりに悲しすぎるでしょう」

 僕は涙しそうになるのを、なんとか歯を食いしばって止める。

 震えるように息を吸って、怯えるように吐いた。

「あなたには、良い答えが見つかって良かった。幸福になれるかもしれない答えが、ね」

 その人は言うと、視線を反らして、横を向いた。

 とても寂しい眼差しに見えた。

「私の答えは、これしかなかったの。考えて、考えて、許しや救いを乞うて、その結果これしか見当たらなかった。もうね、私は……私たちは、幸せになんて生きられないのだから」

 その言葉が、とても深く僕に突き刺さった。

 少し前まで、同じ痛みを抱えていたはずなのに、その実は、全く別ものだったのではないだろうかと思えるほどに、切実な思いが乗せられていた。

 『幸せになんて生きられない』

 そうだ。

 失った時間は戻らず、失った命も戻らない。

 痛みは決して消えることはなく、心の内で膿み続ける。

 落とし前を付けないことには、平凡に生きることさえままならない

 この人はきっと、そういうところまで行ってしまったのだろう。

 僕は改めて、何も出来ないことを悟った。

 その圧倒的な覚悟を見せられて、それでも僕に出来ることなど何もないのだ。

 法律としては、あるいは道徳的には、過ちに違いない。だけど、一人の母親として、大切な人を失った人間として、彼女は決して間違ってなどいないと僕には思えた。

 僕は立ち上がり、深々と頭を下げた。これ以上ないほどの敬意を込めて。

「元気でね」

 その人は、最後にそう言った。





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