第7話
昨日の休み時間に珍しく一人で廊下を歩いていたコリンヌの目に、教室の開いた戸口から信じられない光景が目に飛び込んできた。
「おらっ!ちょっとはやり返してみろよ」
「やめろ、やめろよ!」
それはバスチアンがヘラヘラと笑いながらジュリアンにゴミを投げつけるシーンだった。コリンヌは弟が虐められている場面に遭遇してしまったのだ。
(うそ……ジュリアンが殴られている?)
王女の異名を持つ(というより生徒たちから影でその綽名を付けられた。女帝というにはあまりにも可憐な容姿をしていたからだ)コリンヌの威光も、彼女の目の届かないところでは物を言わなかったのだ。最愛の存在であるジュリアンが虐められているというショッキングな光景にコリンヌは今にも泣き出しそうになった。怒りに震えた彼女はすぐに助けようと思ったが、取り巻きもいなかったし、一瞬とはいえ体の大きなバスチアンに怯んでしまった。
(助けなきゃ……)
コリンヌが怖気づいてしまうのも無理からぬことだった。上背だけはあるものの色白で痩せっぽちのジュリアンに対し、バスチアンは赤味のかかった健康的な肌色で、子供とは思えない逞しい体つきをしていた。二人の体格の差は歴然としていた。
(助けなきゃ、助けなきゃ、助けなきゃ……)
コリンヌが足をがくがくと震わせている間に、バスチアンは怯えて両手で顔を隠すジュリアンを蹴り、おもむろに黒ずんだ雑巾を汚水で満たされたバケツに突っ込んだ。今から何をするのかは一目瞭然だった。コリンヌの中で何かがプツリと切れた。
(こいつ、殺してやる!)
目を血走らせた彼女が教室に入ろうとした瞬間、バスチアンが派手に後ろに飛んで机に突っ込む光景が目に入った。あまりに急で一瞬のことだったので、何が起きたのかを理解するのに数秒のタイムラグがあったほどだ。そしてその後に目に映し出された光景は、手を払った後に腰に手を当てて満足げな表情をしたおさげの少女と、その少女を羨望の目で見つめるジュリアンの姿だった。その後、ジュリアンはコリンヌが教室前の廊下にいることも気付かずに夢見心地の表情を浮かべて教室を出て行った。
(私が、私が助けるはずだったのに……ジュリアンのあの表情ってもしかして……)
俯きながら呆けた顔で呆然と立ち尽くすコリンヌ。姉だから分かる、ジュリアンが大好きだから分かる。ジュリアンは、あの瞬間にポレットに心を奪われたのだ。
その日の夜、引っ込み思案のジュリアンが珍しく自分からコリンヌの部屋に入ってきて興奮気味にポレットの話をした。花柄刺繍が施されたルームウェアドレス姿のコリンヌは、大きな熊のぬいぐるみを抱きながら辛抱強く弟の話を聞いてやった。
「凄かったよ!クラスでバスチアンに逆らう奴なんていないのに、女の子がパンチ一発で黙らせちゃったんだもん!」
「女の子が暴力だなんてはしたないわね」
「その子凄いんだ。女の子なのに足はクラスで一番速いし、木なんか猿みたいにするする登れちゃうんだ。この前の体育の時間なんて体操選手みたいに連続でバク宙を決めちゃうしさ!」
「猿?あははは」
「いつも明るくて元気いっぱいで、彼女を見ているだけで悩みなんて吹っ飛んじゃうというか……」
「何も考えてないバカって感じ」
「実はさ、その子とずっと前から友達になりたかったんだ」
コリンヌの眉がピクリと動いた。
「小学校に入学した時からずっと彼女のことが気になってたんだ。あの子はエネルギーそのものだよ。同じクラスになってからずっと話し掛けようと思っていたけど、僕なんか相手にされないと思って……でもさ、すごい偶然が重なったんだ!」
休み時間にジュリアンが見せた羨望の眼差しがコリンヌの脳裏で再生される。彼女は無意識のうちにぬいぐるみをぎりぎりと強く抱きしめた。
「なんとポレットの父親はシモン・アルカンなんだぜ!」
「ああ、ママが寝る前によく読んでくださった……まあ悪くない物語だったわね。でも知らなかったわ、小説家の娘がうちの学校に在籍していたなんて」
何とか平静を装おうとするコリンヌ。ジュリアンはもちろんぬいぐるみの体に深く食い込む10本の指には気付いていない。
「さっきママに休み時間の件を話したら、アルカン、アルカン?ってぶつぶつ言った後にクラスの名簿を引っ張り出して……住所を確認したらなんと、ポレットの家はシモン・アルカンの住所と同じだったんだ!」
「……」
(なにかしら、この胸がつっかえる感じは。なんだかものすごーく、ものすごーーーーく気に入らないわ!)
「ポレットに話したいことがあるって言ったらさ、ママも是非お礼をしたいから明日一緒に会いに行きましょうって言ってくれたんだ。ママも興奮しちゃってさ、アルカン先生に会える口実ができたわ~って。あんなママを見るのは初めてだよ」
体を小刻みに震わせ始めたコリンヌの目には知らずの内に涙が浮かんでいた。彼女は怒気と悲しみの籠った目で息をつく暇なく喋るジュリアンを睨み続けていたが、彼は話に夢中で全く気付かず、見回りの家政婦に叱られるまで夜通しで話し続けた。
◆◆◆
(随分話が進んだみたいじゃない……)
コリンヌは嫉妬で我を失いそうになるのをすんでのところで抑え込み、表面上はクールに振舞った。
「今日、勇気を出して彼女に会いに行ったんだ」
「へえ、勇気ねえ。聞かせて貰おうじゃないの」
コリンヌは好むと好まざるとに関わらず、昨日の夜から頭の中がポレットという名前で占められていた。顔はうっすらと思い出せるけれど、話したこともない、取るに足らないはずの同級生。それなのに最愛のジュリアンを奪おうとする憎き女。おまけに父親はジュリアンのヒーロー、シモン・アルカンなのだ。コリンヌはジュリアンを夢中にさせる彼女についてのどんな些細な情報も把握しようと心に決めた。
「ママの商談が終わるのを待ちきれなくて、朝からマチアスと一緒にポレットの家を見張ってたんだ。家から出る彼女は背の高い女性と小さな女の子と一緒でさ、マチアスにせっつかれたけど3人もいたから顔を合わせる勇気が出なくて……」
(なによ、ストーカーじゃない)
コリンヌは情けなくて涙が出そうになった。あの引っ込み思案のジュリアンをここまで大胆かつ哀れな行為に駆り立てた女とは何者なのか。
「そしたらポレットは一人図書館に入っていったんだ!チャンスはこの時しかないと思ったよ」
ジュリアンにスイッチが入ったようだ。もはや誰かが止めない限り壁に向かってでも一人で話し続けるだろう。
「何て言ったらいいか分からなくて、ボディガードをお願いしたら叱られてさ……それでね……そしたらもう友達だって……それでアルカン先生にお会いして……それで……それでさ……」
コリンヌはジュリアンのマシンガントークにうんざりしながらも、ポレットという女についての情報を仔細までインプットして人物像を組み立て始めた。このとびきり性能の良い脳みそは、片方でジュリアンの話を聞きながら、もう片方ではポレットという人物にどのように対応をすればいいか何遍もシミュレーションを重ねていた。
「そういう訳で、明日の試練をポレットと一緒に潜り抜けることになったんだ。友達と一緒ならきっとうまくいくさ!もう二度とシルヴァンにだって馬鹿にされるもんか」
「なーるほど、シルヴァンの鼻を明かしたかったのね。あんたが試練にこだわる理由がようやく分かったわ」
「え?いや、理由はそれだけじゃないけど……」
このチャンスを逃すものか。コリンヌは一転して攻勢に出始めた。
「あんた、勇気だ何だと言っておきながら、ポレットさんに一人で会いにいく度胸もなかったんでしょ?ママ同伴だなんて一度でも恥ずかしいとは思わなかったの?」
「そ、それは……」
この点において、まだ相見えていない二人の少女の意見はぴったりと一致した。古今東西、マザコン男は女の最も嫌悪する存在なのである。
「だいたいポレットさんの家で待ち伏せだなんて、まるでストーカーじゃない」
ジュリアンはじりじりと後ずさったが、コリンヌは獲物を狩る目つきでゆっくりと間合いを詰めた。
「アポリネール家の男子たるもの、そんな真似は二度と許さないわ」
「わ、わかってるよ。言われてみればストーカーそのものだ。ねえ、シルヴァンには絶対に言わないでよ」
「もちろん言うつもりよ、シルヴァンだけではなく当家の使用人全員に周知するわ。家名に泥を塗ろうとしたあなたには厳しい罰を与えます」
「や、やめてくれよコリンヌ」
ジュリアンは半泣きになり、許しを請うようにコリンヌの両手を握りしめた。
「いーえ、やめない。やめるものですか」
コリンヌはジュリアンの手を振り払い、腕組みをしながら鼻先がつくまでその整った顔をジュリアンに近づけた。
「頼むよ……なんでも言う事を聞くからさ」
「本当?」
「もちろん本当さ、僕がコリンヌに嘘を言ったことが一度でもある?」
「ふうん、明日は何時に出発するの?」
「え?ポレットを迎えに行くのは朝の6時って言っていたけど……」
「私も行く」
「ええっ?」
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