ダンクシュートはできないけれど

アンギラス

第0話 プロローグ

 ボールの音だけが響いている。

 体育館の観客席は埋め尽くされているのに驚くほど静かだった。全ての視線がコートの中で相対する選手たちに向けられる。

 試合終了まで十秒を切った。一秒がとてつもなく短いものに思え、タイマーに細工をしているのではないかと疑ってしまう。時間が減るたびに緊張感が張り詰めていく。

 点差は僅か一点だが負けている方は遥かに遠く感じるだろう。ましてやボールをキープしているのは相手チーム。どちらが有利かは問うまでもない。


 だがその男は諦めていなかった。

 流れる汗は止まることを知らず、吐く息が荒い。汗を吸ったユニフォームは重石のように見えた。かなりの疲労が溜まっているのは傍からもわかるが目だけは活きている。


 勝利はほぼ確定しているが、相手には油断している様子など微塵も見られない。張り詰めた表情を浮かべながらもボールを命のように守っていた。

 だがその命を奪わなければ、自らのチームに勝利は訪れない。隙がないなら強引に作り出すしかないのだ。


 相手のドリブルに合わせ、一気に仕掛けた。真っ直ぐに腕を伸ばし、果敢にボールを狙う。肉体と肉体がぶつかり合い、意地と意地が交錯する。お互いの勝利への意志が激しい火花を散らし合わせる。

 残された全ての力を絞り出し、プレッシャーを掛けるが相手を崩すことができない。先に乱れたのは男の方だった。必死のディフェンスを嘲笑うかのように振り切られた。

 敵の背中が離れようとしていく。それでも男は希望を捨てることはない。


 普通に追いかけては獲れないと判断したのか、ありったけの力を込めてコートを蹴っていた。ヘッドスライディングのような形になりながら、背後から必死に手を伸ばす。肉体に残された全ての力を指先に入れ、前に押し出した。

 男の爪がボールに掠り、相手のドリブルが乱れる。零れ落ちたボールがコートを転がる。肉体を床に強打しながらもすぐに起き上がった。仲間がボールをキープした姿を見たからだ。


 オフェンスとディフェンスが入れ替わる。最後のチャンスに全てを賭け、リングを目指してただ走る。

 背後から飛んで来たボールをキャッチし、即座にドリブルを始める。ハーフラインを越えたが、リングまでが遠い。刻一刻と過ぎていく時間。タイマーなど目にしている余裕はない。

 スピードを一切殺さず、スリーポイントラインの後方から跳躍する。着地のことを考えない無茶な姿勢。構えている余裕や狙いを付けている暇はない。刻みこまれている感覚に従うようにボールを放り投げた。


 手から離れるのとブザーが鳴り響くのは同時だった。選手達が動きを止めるなか、ボールだけは止まらずに天高く舞い上がる。

 やがて大きな弧を描きながら、静かに落下していく。全ての視線がボールに集中する。あまりにもゆっくりと過ぎる時間。世界が停止したかのような錯覚を起こした。


 着地に失敗してコートに倒れるなかで男は確かに見た。リングを通り抜ける瞬間を。

 上半身を起して、審判を見つめる。上がった手は勢いよく振り下りた。点数がカウントされる。

 今日一番の大歓声が体育館を揺らした。何十本ものダイナマイトが一斉に爆発したように思える。

 男は握り拳を天に掲げ、声にならない声を出していた。

 チームメイトが物凄い勢いで駆け寄っていく。受け止めることができず、皆でコートに倒れ込んだ。涙を流している者もいれば、男と同じように声をあげている者もいる。



 眩いライトに照らされる熱気溢れるコート。騒々しくも華やかな舞台に訪れた歓喜の瞬間を彼は遠くから見ていた。歓声に包まれる体育館の中でここだけはとても静かだった。


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