雨雲を飼う

中村ゆい

雨雲を飼う

 梅雨の季節真っ只中のある日、捨てられた雨雲を拾った。

 家の近くの公園で、段ボール箱に入れられているのを偶然見つけたのだ。箱の外側には「どなたか拾ってやってください。餌は水分です。おとなしくて人によく懐きます。」と書かれた紙が貼られている。

 箱の中を覗くと、鼠色のもやもやとした拳サイズの綿のようなものが入っていた。

 私はその箱を家に持って帰り、雨雲を飼ってみることにした。


「えーと、餌は水分か」


 といっても、どういうふうに水をあげればいいのかな。とりあえず猫にお水をあげるみたいに平たい皿に水を入れてみたら、雨雲は嬉しそうに皿の上でびちゃびちゃ跳ねて、私の部屋に水をまき散らした。こりゃいかん。

 考えた結果、お母さんが観葉植物の水やりに使っている霧吹きを借りて、雨雲に直接吹きかけた。


 ぐるごろぐる。


 小さな雷のような鳴き声とともに、雨雲は気持ちよさそうに霧吹きのそばを飛び回り、水浴びを始めた。なんか……可愛い。

 私はそのまま雨雲を飼うことに決めた。



 それからしばらくして、雨雲は紙に書かれていた通り私によく懐いた。

 私が朝、学校に行こうとすると寂しそうに鳴き、夕方に帰ると嬉しそうにふわふわと部屋の中を飛ぶ。

 実はちょっぴりグルメで、水道水よりもペットボトルのミネラルウォーターを好むということもわかった。

 それからなんと最近は「お手」と手を差し出せば手のひらの上にぽすんと乗ってくれる。なんとも芸達者な雨雲だ。飼い主としても誇らしい。

 でも、なんというか。


「きみ、なかなか大きくなったねえ」

「ぐる?」


 拾ったときには握りこぶし程度のサイズだった雨雲は、水を吸ってサッカーボールと同じくらい大きくなっていた。

 このままどんどん大きくなっていくと、いったいどうなるのだろうか。

 というかこの子、雨雲というわりには一度も雨を降らせていない。


「ねえねえ、雨を降らすことってできるの?」

「ぐる!」


 できるらしい。私は少し考えた。せっかくだから私に都合の良いタイミングで雨が降れば……。いいことを思いついたぞ、いひひひひ。


「よーし、明日は一緒に学校に行こう」

「ぐるぐる!」



 というわけで翌日。私はバッグの中に雨雲を入れて、中学校へ登校した。

 今日の時間割は、五時間目に体育がある。私の大嫌いな水泳の予定だ。プールなんて、着替えは面倒だし髪も濡れるし全然泳げないし、いいことなんてなーんにもない。

 昼休み、バッグを抱えてこそこそと教室を出る。校舎の裏で、バッグのファスナーを開けた。


「ぐるごろぅ」


 中から出てきた雨雲に両手を合わせてお願いする。


「放課後迎えに来るから、よろしくね」

「ぐるう!」


 雨雲は元気に返事をして、校舎の上の青空に飛んで行った。そして周囲の雲を飲み込みながら増殖し、上空を覆った。

 薄暗くなった地面にぽつりと雨粒が落ちる。ぽつぽつと立て続けに降ってくる雫の感触を頭や鼻に感じながら、私は教室に戻った。


「みんなぁ~、今日の体育、プールは中止で体育館でバスケだって~」


 昼休みの終わり掛けに体育委員の女の子の声が教室内に響く。クラスメイトから残念がる声が上がる一方で数人は喜びの歓声を上げた。正直私はバスケもそんなに好きじゃないから喜ぶ気持ちは理解できない。でも水泳よりは断然ましだ。

 ありがとう、雨雲!

 放課後、校舎裏へ行くと雨雲は私の元へ静かに降りてきた。拾った頃と同じ拳サイズに戻った雨雲は、大人しくバッグの中に納まった。


「ありがとね」

「ぐるっ」


 家に帰ってからミネラルウォーターをたくさんあげよう。



 それから私は雨雲を利用して、水泳の授業をことごとく潰してやった。

 体育の授業がある日に限って悪くなる天気にみんな不思議そうだったけれど、私は何も知らないふりをして過ごした。

 このままタイミングよく雨を降らせることができれば、そのうち夏休みになり水泳の授業もなくなる。

 雨雲を拾って本当に良かった!

 今日も朝から雨雲に天気を雨模様にしてもらい、私は上機嫌で教室の窓から空を見上げていた。


香坂こうさかさんって、雨好きなの?」


 話しかけられて振り向くと、隣の席の和田わださんと目が合った。


「好きっていうか……うーん、まあ、好きかなあ」


 水泳の授業から逃れられて機嫌が良いだけ、とは言えず、好きということにしておく。


「へ~、じゃあ香坂さんにとっては最近は雨の日多くて良い日なんだね」


 和田さんはそう言って微笑んだ。優しそうな眉毛や目元が悲しそうに八の字に下がる。


「和田さんは雨、嫌い?」

「雨が嫌いというか、晴れが好き。気分が明るくなるし、部活も思いっきりできるから」


 テニス部の和田さん。最近天気が悪い日が多く、学校のテニスコートが使えなくてなかなか練習もできないらしい。


「朝練中止になったし、せめて午後には雨やむといいな……」


 愁いを帯びた表情で雨空を眺める和田さんに目を奪われる。胸のあたりがきゅっと痛くなる感じがして、私は思わず立ち上がった。


「どうしたの?」

「ちょ、ちょっと用事思い出した!」

「え!? でももう予鈴鳴るけど……」


 和田さんに返事をせずに私は教室を出た。

 なんだかとても申し訳ないことをしている気がした。午後じゃなくて、今すぐ彼女を笑顔にしたいと思ってしまった。

 校舎裏で、おーいと雨雲を呼ぶ。すっと雨脚が弱まり小さな雨雲が私の元に降りてきた。


「ぐる?」

「あのね、お天気を元に戻してほしくて! ……あっ」


 いつも雨雲を入れているバッグを忘れてきてしまった。どうしよう、教室に戻って取ってこようか。迷っていると、心配そうに雨雲が私の周りを飛ぶ。


「私のわがままで都合よく雨にしてもらったり戻ってきてもらったり、ごめんね。私はすごく助かったけど、晴れると嬉しい人もいるから……」


 もう、雨じゃなくても大丈夫。

 そう思ったのが伝わったのか、雨雲は少し寂しそうに鳴いた。それから再び空へと昇っていく。

 ぽかんとその様子を眺めていると、雨がやんで曇り空になった。少しずつ雲が風で流れて空の色が明るくなっていった。

 そのまま雨雲は私のところへは帰ってこなかった。



 チャイムが鳴る直前に教室に戻る。和田さんにまた話しかけられた。


「急にどっか行くからびっくりした」

「あはは、それより和田さん。雨やんだね」

「ほんとだ! なんか嬉しいなあ」


 良かった。和田さんが嬉しそうで良かった。なのに涙の膜で視界がぼやける。


「……香坂さん? 大丈夫? そんなに雨じゃなくなって残念だった……?」

「ううん……一時間目プールだから、ダルいなあって。それだけ……」


 私はそのまま机の上に突っ伏した。

 水泳の授業はダルい。せっかく雨で中止になると思っていたのに。

 だけど今泣きそうなのは水泳のせいじゃない。ただ寂しいだけだ。雨雲がいなくなってしまったのが。


「あ、虹だ」


 和田さんがつぶやく。机の上に頭をくっつけたままちらりと視線を向けると、薄青色の空に綺麗な半円形の虹がかかっていた。

 ありがとう、雨雲。元気でね。

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雨雲を飼う 中村ゆい @omurice-suki

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