回想:ある恋の始まり

羊ヶ丘鈴音

プロローグ

 シユとはいつの間にか同棲していた。

 高校を出た後の進路に、周囲の反対を押し切って就職を決めた俺。そんな俺を追いかけるように近くの大学へ進んだのがシユだった。

「私だけは絶対、リョウの味方でいたいから」

 緊張で真っ青になった顔で言ったシユは、にへらと笑って付け加えた。

「たとえリョウが人を殺してもね」

 それは笑って言うことじゃないだろう。

 ただまぁ、その時の俺には馬鹿げたようなシユの言葉が有り難かった。そうかよ、なんて素っ気なく応じながら、ほとんど毎晩、二人分の夕食を作っていたのだからバレバレだったのかもしれない。

 そうやって毎晩うちに来ていたシユが泊まっていくことが増え、一日中うちに居座ることが増え、なんだか買った覚えのないものが増えたな、と思った頃には無自覚のまま同棲が始まっていた。

 シユが自分の部屋を引き払ったと知ったのは、同棲が半年になる頃のことだ。

「……そういやシユ、お前いつ帰んの?」

「え? 今日は夕方には帰って、夜から――」

「じゃなくて、自分の部屋に」

「へっ?」

「は?」

 あれには笑った。

 え、じゃあなんで俺が一人で家賃払ってんの、と思わず口を滑らせてしまったほど、自分たちが同棲しているという自覚がなかったのだ。

 シユとは昔から一緒だった。

 いつから一緒だったかなんて覚えていない。

 最初の記憶は、シユのことをまだ『しゆきくん』と呼んでいた頃のこと。背景は幼稚園。けれど登場人物は俺とシユの二人だけ。

「ウチなぁ、ウチなぁ」

 シユは頻りにそう言って、自分のことを話した。

 今にして思えば、テレビで見た芸能人の真似をしていたのだろう。ただ子供で、関西弁というものを知らなかったから『ウチ』ではなく『ウチなぁ』まで真似してしまっただけだ。

 しかし当時の俺にはそれが妙に可笑しくて、その日ずっとシユの『ウチなぁ』を聞いていた。

 シユは珍しく雪が降った日に生まれたから志雪という名になったらしい。

 俺が生まれたのは夏で、幼稚園や小学校ではこの半年の差がかなり大きかった。あの『ウチなぁ』の日から俺にとってシユは弟みたいなもので、守ってらやなくちゃいけない存在だった。

 シユは要領が悪かった。

 障害というほどではないにせよ、発達が少し遅れていたのかもしれない。

 同級生が二度言われて覚えることを、シユは四度目でようやく覚えた。俺は一度目で覚える側だった。だからシユは弟で、俺は兄貴で、だったら守ってやるのが当然のことだった。

 シユとはずっと一緒だった。

 目を離せばすぐにからかわれて、泣いて、その度に俺が呼び出されるのだから、最初から一緒にいた方が何かと楽だ。

 けれど趣味は違った。

 俺が週刊の少年漫画を読んでいる間、シユはなんだか分からないアニメ調の絵が描かれた料理本を読んでいた。なのに料理は俺の方が上手かったのだから、才能の差とは残酷である。

 それが余計、俺にシユの世話を焼かせることになったのだろうが。

 他にも休み時間、俺が他の男子に誘われてグラウンドに飛び出していくと、シユも後にくっついてきた。でも一緒に野球やサッカーをしたことはなくて、シユは毎回、木陰からしつこいほど「リョウ! リョウ!」と呼んできていた。

 あれで楽しかったんだろうか。

 あるいは教室に一人残されるのが嫌で、木陰とはいえ暑いそこを我慢していたのだろうか。

 真実を知るのが少し怖くて、未だに聞けていない話だ。

 まぁそんなこんなで、俺とシユはいつも一緒にいた。同棲に気付かなくても無理はない。

 というか、俺は仕事で手一杯になっていたのだ。

 猛反対する周囲に耳も貸さず、俺の人生、俺のやりたいようにやるんだと故郷を飛び出し、そして俺は何をやっていたんだろう。

 言われたことを言われた通りにやっていた。

 先輩に「これ」と言われたら「はい」と受け取り、大急ぎで提出したら「遅えよ」と舌打ちされて。それで俺はなんと答えたんだったか。「はい」と「すみません」を交互に繰り返していた気がする。

 家に帰るのも遅かった。

 日に日に、遅くなった。

 シユが下手な手料理を振る舞うことも増えて「俺が作った方が美味いな」「じゃあ明日はリョウの番ね」と言葉を交わす。シユとの約束は絶対だった。次の日は何がなんでも定時で帰り、二人分の夕食を作った。

 そうした、ある日のことだ。

 人員削減。

 テレビで聞いていた不況、営業から聞かされる不況、不況不況不況。糞食らえだ。

 分かっている。

 そんなことは関係なかった。

 はい、はい、と頷きながらも変なところで我を通す俺は目障りだったのだろう。

 会社や上司、先輩の立場なんか考えなくても、やはり俺にとってあの会社は良くなかった。クビになって正解だ。シユも後に笑って言うようになる。

「リョウがクビになって嬉しかった」

 そりゃそうだ。

 俺も今ならそう思える。

 だけど、その頃の俺には無理だった。入社から四年が経っていたのだ。

 何をするにも金がいる。再就職先を探す? 探せはするだろう。見つかりもするだろう。不況不況と言われ続け、そろそろ売り手市場だとも言われ始めていた。

 しかし、競う相手は誰だ?

 大卒の肩書を得た、かつての同級生たちだ。

 限界だった。

 親に頼めば家賃くらい払ってくれるだろう。次の仕事が見つかるまでの数ヶ月か数年、働くのが馬鹿らしくなるほど小遣いを送ってくれるかもしれない。地元でよければ働き口も用意してくれるはずだ。

 けど、そんなの我慢できるか?

 朝、家を出る。

 どこへ行くでもなく、ただ家を出るだけだった。

 夜遅くになって帰る。シユがいた。同棲という現実を何度目かの再確認。シユが笑って言う。

「ね、リョウのご飯食べたいんだけど」

 そうかよ、と零したつもりの言葉は、きっと声になっていなかった。

 次の日は朝に飯を作り、温めれば食べられる昼飯も作り置き、夕方には帰った。いつの間にかシユが持ち込んでいた小さく四角いテーブルの向かい側で、そのシユが楽しそうに笑っている。

「ね、明日も――」

 その笑顔に、答えを見た。

 分かっていたことだ。

 気付かれないはずがない。

 気付かない、はずがない。

 それから口に運んだ料理は味がしなかった。もそもそ食べる。食感も曖昧だ。食べ終え、ごちそうさまと手を合わせる。

 シユも手を合わせていた。そして膝立ちになり、俺の分の食器も重ねる。俺が作った時はシユが洗う、それが不文律となっていた。居心地が悪くて手伝うこともあるけど、そもそも二人で立つには狭い台所だ。

 台所に向かうシユの背中を見送ろうとして、心が揺れた。

 決意も覚悟も決まっちゃいない。

 なのに手を伸ばしてしまった。遠ざかろうとしたシャツの裾を掴む。シユが驚く声を上げた。

「あっ、いやっ、すまん……」

 我に返った。

 俺は何をやっていたんだろう。

 手を離すと、シユは首を傾げながら台所に向かった。足取りがぎこちない。シンクに食器を置くだけでガチャガチャと音を立てている。

 でもまぁ、無理もないか。

 理由はどうあれ俺が失業中なのは勘付いているだろう。

 それで何かと理由を付けては無駄な散策を早く切り上げさせ、まだしも暖かい家の中で過ごさせようしていたのだ。

 そういえば、もう冬だった。

 シユの誕生日も近い。

 何をプレゼントしよう。そう考えるのが楽しかった。

 幸い、まだ貯金はある。少しくらい奮発しても大丈夫だ。そんなことを考える自分を見つけ、馬鹿だなと笑ってしまう。

 少年漫画と違って気配なんて感じ取れるはずがないのに、必死に探りを入れようとしているシユの背中に近付いた。

 いや、立ち上がって近付くのは音やら何やらで気付くか。

 シユが身を強張らせる。

 悩みも迷いも、なかったと言えば嘘になるだろう。

 だけど、意地も見栄も張るのはやめた。

 ずっと気付いていたのだ。俺がどんなに弟のように思おうと、シユは俺を兄とは思わない。幼馴染で、同級生で、今では同居人で、そして――。

 台所に立つシユに、後ろから手を伸ばす。

 これで拒絶されたら笑えるな。笑えないか。

 でも、限界だった。

 目を背け続けるのは、もう無理だ。

 そっと伸ばした手を回し、そっと抱き締めるつもりだった。それなのに腕に力が入ってしまい、ぎゅっと抱き締めてしまう。シユが声を押し殺すのが分かった。喉が震える音まで聞こえる。

「……っ」

 吐息が近い。

 言葉は何も見つからず、ただ抱き締め続けることしかできなかった。

「りょ……リョウ?」

「すまん」

「いや、えっと、いいんだけどさ、うん」

 上ずった声。

 何かを期待する声音。

 腕に伝わる、微かな鼓動。

 勘違いだったらどうしよう。そんなことを考える余裕もなくなっていた。

 手を伸ばす。指を這わせる。シユが押し殺した声を上げた。強張っていた吐息が熱く溶ける。それが合図だった。

 明確な言葉はなく。

 まるでいつの間にか始まっていた同棲のように。

 けれども確かな意思を、明らかな意図をもって俺たちは――――

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