第4話

 男に連れて行かれた先は、市場からかなり遠く離れた場所にあった。何度も路地を曲がり、特に目印になるような建物もなかったので、男の子は着いて行く間、道を見失わないよう頭の中で地図を描いた。それでも、市場と自分が来た大体の方角を把握するだで精一杯だった。日が暮れてきたこともあり、辺りは薄暗く、何のための建物なのかわからない寂れた石造りの建物が所狭しと立っている。辺りには人気もなく、煙突から出る煙がないことから、ほとんどの家が空き家であることだけがわかった。

 男は、ある建物の前で止まると、男の子にここで少し待つように言い、中へと入って行った。扉横にある窓には木の格子が嵌め込んであり、中の様子は伺えない。

 不安げに辺りを見回す男の子の耳をアンソニーがぺろりと舐めた。くすぐったさに身を捩り、すぐに顔を背ける。今度は、アンソニーが男の子の髪の毛を食み始めた。こら、と口では言うものの、男の子はしばらくアンソニーの好きにさせてやった。


「中で商談の話をしようとさ。ロバは俺が一旦預かっておこう。

 坊主は、中で座って待ってな」


 家から出てきた男が手を差し出して言った。男の子は、アンソニーを他人に預けることに不安を感じたが、男が促すので、アンソニーの引き綱を手渡した。

 家の中に入ると、冷たく湿気たカビの臭いが鼻についた。木のテーブルが中央にあり、その上で蝋燭の灯りだけが揺らめいている。中の様子を伺いながら、声をかけるが返事はない。とりあえず、言われたとおり椅子に座って待つことにした。


「よお、さっきぶりだな」


 奥の部屋から一人の男が現れた。蝋燭の灯りが、男の顔にある真新しい傷を照らす。どこかで聞き覚えのある声だと思った時には、顔を殴られて床に倒れていた。更に男は、男の子の腹部を蹴り、顔を踏みつけた。


「さっきはよくも俺に恥をかかせてくれたな。

 大人を舐めてると、こういう痛い目に遭うってこと、しっかり覚えておけよっ」


 それは、市場で女の子を路地へと連れ込み、アンソニーが蹴り倒した男だった。

 男の子が抵抗する間もなく、矢継ぎ早に男は暴行を加えていく。あばらが嫌な音を立てたが、次第に痛みで頭が朦朧としていった。男が最後にツバを吐くと、男の子の脳裏にアンソニーのことが浮かんだ。


「アンソニーは……」


 男は怪訝な顔つきで男の子を見下ろし、その名前がロバのことを指していると気付くと、下卑た笑みを浮かべた。


「ああ、あの糞ロバな。今頃、俺のダチが頭かち割って、薪にでもしてるとこだろうよ」


 うそだ、と男の子は掠れた声で叫んだ。しかし、男の嬉しそうな顔を見て、目の前が真っ暗になる。這い上がって出口へと向かうが、首の後ろを掴まれ、部屋の奥に投げ飛ばされた。再び顔を殴られ、男の子は気を失った。



 鼠色の空からゴミのような雪が降っている。頬に当る冷たい感触に、男の子がうっすらと目を開けた。人気のない道端で仰向けになって倒れている。身体中がギシギシと悲鳴を上げて力が入らない。


「アンソニー……」


 乾いた唇から絞り出された声に返す者はいない。不規則に吐き出された白い息と空の色が相俟って、男の子は、自分が今どこにいるのか一瞬わからなくなった。ついさっきまでアンソニーは自分のすぐ傍にいたのに、現実を受け止められるだけの覚悟が男の子にはまだなかった。今起きたことは全て悪い夢で、目を覚ませば、いつも寝ている納屋にいて、隣接した畜舎からアンソニーの嘶きが聞こえる。畜舎へ行くと、アンソニーが前足で地面を叩いて餌を催促するのだ。男の子は、いつも通りアンソニーの世話をしながら今日見た夢の話をする。餌を食みながら聞いていないように見えるアンソニーだが、話の終わりには相槌を打つように必ず鼻を鳴らす。ばかだなぁ、全部ただの悪い夢さ、と。

 男の子は、何度も何度もアンソニーの名前を呼んだ。その度に、アンソニーとの思い出が頭に浮かんでは、白い息と共に消えていく。それは、雪が積もるように、男の子の奥深いところに蓄積されていった。

 ちゃんとした別れすらできなかった。胸を掻き毟るように掴んだ。身体よりも心が痛かった。このまま帰ったら、きっと自分はカルグに殺されるだろう。でも、何より大事な親友を奪われた失意の方が痛かった。


「何やってるの?」


 空から降ってきた声に目を開けると、青い瞳が男の子を覗き込んでいた。答える気力もなく、再び目を閉じると、仕方ないなぁ、と溜め息をつく声が聞こえた。女の子が男の子の腕を引っ張ってどこかへ連れて行こうとするので、痛みに呻いた。


「放っておいてくれ」


 女の子が手を放す。


「死ぬの?」


 まるで今日の天気を聞くかのような口調だった。


「死んだって別にいいけどね。誰も困るわけじゃあない。

 でも、あたしを助けておいて、あたしの目の前で自分だけ死ぬなんて、神様が許したってあたしは絶対に許さない」


 女の子を助けたのは自分ではない、賢くて優しい灰色のロバだ、と男の子は心の中で答えた。男の子の閉じた瞼に雪が落ち、雫となって頬を伝った。




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