第6話 風邪っぴきお見舞いイベント
実りの季節がやって来た。男たちは狩りに勤しみ、子供たちは森へどんぐり集めに駆り出され、女たちは冬支度に頭を悩ませる。
村には商人が訪れ市を開く。冬支度の必需品から物珍しい菓子まで雑多な商品が並び、村人たちは非日常に浮足立つ。
この季節をして詩人は歌う。子を持たぬ女神、敗走した勝利の女神の神威によって大地は黄金色に満ち満ち千年王国の顕在を知る、と。
にぎにぎしい雰囲気をよそに、私は病でぶっ倒れていた。物置のベッドからこんにちは私である。
実りの季節とはそれすなわち納税の季節。村人たちは保有する田畑の地代として農作物を領主と教会に納める決まりになっていた。
さて、我が小屋の裏にある庭兼墓場も畑として登録されている。そして我が小屋の世帯主であった老婆は亡くなり、私が新たな世帯主となった。砂利だらけの墓場に農作物などあるはずもなく。
私は農作物で納税する代わりに領主及び教会の直営畑で働いた。十日間。社畜諸兄に至りましては「いやヌル過ぎるやろワロス」と私を嘲笑っておられることは重々承知の助なのだが、こちとら虚弱もやしっ子である。最後の数日間はやぶれかぶれのやけっぱちになって働いた。
熱出して寝込むのも当然の帰結と言える。
喉が渇いた。吐き気がする。お腹すいた。トイレに行きたいが体を動かすのも物憂い。気持ち悪い。顔は熱いが、体の芯が冷えて震えが止まらない。頭痛い。
枕元に置いておいた水は全部飲み干してしまった。寝ているのも辛いのである、起き上がって料理は作れない。
今までぶっ倒れてもどうにかなっていたのは、老婆がなんやかんや世話を焼いてくれたからである。体調を崩して有難さを思い知る。カムバック老婆。いややっぱいいや墓にいてくれ。
朦朧とする意識の中で私は思う。
このままひとりで死んでいくんじゃないだろうか。不安が腹を抉る抉る。
私は世界で一番孤独な存在なんだ。誰も私を助けてくれない。誇大妄想で心までもが風邪っぴき。
今何時だろう。物置じゃ昼夜が掴めない。
老婆の部屋で寝ればよかった。ベッドは物置よりマシだ。でもあの部屋のにおい。悪くなった脂みたいな臭いが染み付いて、部屋の前に立っただけで嫌な気分になる。
足音がする。視界の端にドゥを捉えた。
「ご飯だよね。ごめん、木の実あるから適当に食べて。火は危ないから使っちゃダメだよ。本当にごめんね」
話しながら何度も咳き込んでしまう。上手く声が出ているか分からない。
ドゥを幸せにすると誓った矢先にこの体たらく。無能でごめん。あなたの役に立てなくてごめん。
私は何もできずに眠りに落ちた。
*
夢を見た。
老婆の夢だ。彼女は砂浜に立ち尽くしていた。潮の音がしない。それでも波は寄せて返す。暗雲が垂れ込め、陰鬱な夢をさらに重苦しいものにしていた。
モノクロの夢だった。
老婆は何かを腕に抱いていた。愛しげに眉を下げ、時折それに向かって囁いている。
強風に煽られ、老婆の長いスカートの裾がひるがえる。彼女は煩わし気に裾を正す。その拍子に腕の中の存在が晒された。
赤黒い肉塊だった。肉塊は老婆の腕に収まりながら、熟れた柘榴のように光を放つ。骨がないせいで形が定まらず、ヘドロのように蠢いていた。
遠くから音が聞こえる。理解するまでに時間がかかった。赤児の泣き声だ。波の音と聞き間違えるほどの小さな声は、次第に頭を割れんばかりの騒音へと変貌していく。
水平線に口付けする雨雲、髪を振り乱す老婆、老婆の足元から砂をさらっていく波。
白黒の世界で肉塊だけが色鮮やかだった。
*
自分の悲鳴で目が覚める。冷や汗が止まらない。心臓が激しく動き回っている。
腐りかけの天井を見て物置にいたことを思い出す。こんにちは見慣れた天井さん。横になったまま額の汗を拭い、ひと心地つく。
ん? 汗をかいている?
服が汗でちべたい。
鼻が詰まっていてわかりにくかったが、ラベンダーのにおいがする。体を起こすと雑多に置かれた荷物の上に器が置かれていた。
器にはすり潰したラベンダーとぬるいお湯。お湯の蒸気と一緒に香りをこの小屋にまいてくれたのだろう。原始的な加湿器である。
当然の疑問がわき起こる。
誰がやってくれたんだ?
老婆が墓場から復活した? いやいやいや。老婆は数日前も元気に白骨化していた。
村人がやってくれた? あり得ない。懇意の村人はいない。
じゃあ誰だ?
応えるように扉が開かれる。ドゥだった。彼は口を引き結び、身長の倍ありそうなほうきをひしと握りしめていた。
「……ドゥがやってくれたの?」
ドゥは険しい顔つきになる。物置に分け入り、ほうきの穂で私を打ち始めた。まるで老婆のように。
「痛い! やめて!」
彼はそれでもやめようとしない。言葉を発せない口をぱくぱくさせて、必死に何かを叫んでいる。
ふと思い至る。
ほうきで打っているのではない。左へ右へ、ほうきを払っている。払う? 何を?
「病を祓う」と「ほうきを払う」をかけているのか?
目を固く閉じ、痛みに耐える。彼は重いほうきをふるい続ける。穂が皮膚に突き刺さる。腕にミミズ腫れが走る。何度か声を上げそうになる。
ほうきの動きが鈍くなっていく。あらぬ方向に穂が向けられる。ほうきを取り落とす音までする。
あらゆる音が止んで、私は目を開く。
ドゥはほうきに寄りかかるようにしてへたり込んでいた。ぜいぜい呼吸する彼の額からは玉のような汗が流れている。
彼の姿に胸が締めつけられる。見開かれた緑の瞳は涙で潤んでいた。
ドゥのそばに座り、額の汗を手で拭ってやる。ほうきごと私は彼を抱きしめた。
「ドゥ」
ドゥが私にしがみついてきた。ドゥの抱擁は力任せで、皮膚や髪を引っ張られ痛いことこの上ない。
服が湿り気を帯びる。ドゥが泣いていた。彼は口から熱い息を吐く。彼は泣き声を上げることもできない。
前世の記憶が蘇る。
私が小さい時にお母さんが熱を出して倒れた。気丈で快活だったお母さんが真っ赤な顔をしてこんこんと眠っていた。
もう二度と目覚めないんじゃないか。
子供の妄想は加速する。
このままお母さんは死んでしまうんじゃないか。
加速したまま止まる術を知らない私は静かに泣いた。死の恐怖を初めて感じた。
数日後お母さんはケロッとしていたが、恐怖心はしばらく私にこびりついて離れなかった。
「心細かったよね。怖かったよね。ごめん。ドゥが良くしてくれたから大丈夫。心配しないで」
ドゥは涙を流しながら何度も頷く。
前世を覚えていたおかげでドゥの感情に寄り添えた。初めて記憶を引き継いでいてよかったと思えた。
「ドゥ、ありがとう」
私の胸にあった壮大な不安が消えている。代わりに穏やかな親愛の情が湧いていた。
ドゥはひとしきり泣くと立ち上がり、私をベッドに押し戻した。
彼は物置から出て行き、ハーブたっぷりの麦粥を持ってきてくれた。香りだけで健康に効きそうである。
「ドゥ、ひとりで作ったの?」
ちゃんとハーブも一口大に刻んである。彼の成長に目を見張る。
味は、はい。
健康に効き過ぎてぶっ倒れそうな味です。
甲斐甲斐しく世話を焼くドゥを見て思う。
ドゥは唖者であり、それゆえに庇護すべきか弱い存在だと思い込んでいた。ひとりで病に対する正しい処置ができる。ひとりでご飯も作れる。なんでもやってあげないといけない存在じゃない。
いつの間に覚えたんだろう?
心当たりがあった。ドゥはいつだって私のそばにくっついて、大きな瞳で料理の様子を観察していた。看病も老婆の姿を見て覚えたのだろう。
私は外の空気を吸いたくて、ドゥの手を借り庭へ出る。夜も更けた。雲の切れ目からのぞく星が私の気分を高揚させる。
私は大きく深呼吸する。ドゥの手があたたかい。
「今日はありがとう。もう遅いから、ここにお泊まり。ドゥのお父さんには明日、私から説明するから」
私の言葉に彼は素直に頷く。
居間で寝るよう伝えるとドゥがなんともいえない顔をしていた。物置でひとり横になり目を閉じる。
ほうきで叩かれたから体中痛かったが、心は軽い。これがほうきのおまじない効果か。
ドゥと同じく、風邪っぴきの私にほうきを向けてきた老婆を想う。
『自業自得だ! 呪いの子!』
老婆は文句を言いながらも看病してくれた。ほうきで私を打つのも、おまじないの一環だったとしたら?
老婆はどうして嬰児であった私を引き取ったのだろう。今更ながらの疑問が沸いて出る。
腹が空くと喚き、クソを垂れ、病に伏せる。面倒ごとの方が多い。
召使いが欲しくて私を引き取った? やり方が迂遠過ぎないか?
老婆に問うたことはない。私は彼女との対話に消極的だった。他人を害する言葉しか吐かない人だったから。
思考の回路が少しずつ閉じていく。眠りの時間だ。
老婆と言葉を交わしていたのなら、何か変わったのだろうか。
その思考を最後に脳のブレーカーが落ちる。暗がりにたゆたい、目を覚ます頃には太陽が昇っていた。
節々の痛みが消え、肩が軽い。私を支配していた気怠さがなくなっていた。
体を起こしてのび上がる。健康は失って初めて尊さを知る。
空咳が聞こえる。思わず目を向ける。
「……なんでいるの……?」
ドゥが夜のうちに潜り込んでいたらしい。渡した毛布を頭までかぶっている。妙に狭いと思ったら。慣れない場所にひとりぽっちで寝かされて、寂しくなったのかしらん。
申し訳ないことをしたかもと思いつつ、静かに毛布をめくる。
ドゥは真っ赤な顔しガタガタと震えていた。鼻水を流し、つらそうに咳をする。
「……やだごめん、風邪うつしちゃった!」
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