樹6
樹が取った行動は非常識と言われても仕方のないものだった。千種はまだまともに話せる状態ではない。そんな中で樹は千種の父親である善造と話しがしたいと申し出たのだ。
椎名家の応接室で善造を前にして樹は何も繕わず率直だった。
「お嬢さんと結婚を前提にお付き合いさせて下さい」
いきなりの事に善造は面喰っている。それも当然だ。娘の同級生から話がしたいと言われ、子供にはまったく相応しくない、考えた事もない事を聞かされたのだから。
真っ先に頭に浮かんだのは「妊娠」という二文字だ。しかし、それは直ぐ様打ち消す。千種に限ってという思いもあるが、何より目の前の樹が落ち着き払っていて、後ろ暗い事などなにもないような目をしていたからだ。目の前の子供は怖いくらい真剣だった。
善造は動揺を鎮めながら口を開いた。
「君は、千種のクラスメイトだったね?」
深みのある落ち着いた声だった。顔に刻まれた深い皺は樹では到底かなわない年月の重みがあった。樹が姿勢を正す。
「君は15か16か。君はまだ子供だ。結婚を意識するのは早過ぎるのではないかな?」
「そう仰るだろうとは思っていました。僕が若過ぎる事に対する不安やこれが一過性の感情から来る錯覚だと思われるもの当然だと思っています」
「それなら」
「この胸を切り開いて見て頂くわけにはいきません。貴方に比べれば僕の人生は5分の1程度でしかないですが、それでも何が必要かを僕は知っています」
樹は臆する事なく落ち着いて真っ直ぐに善造を見据える。
善造の目が細められる。水色の瞳の美しさよりも強靭な輝きに目を見張る。凡人には見られないその強い輝きを善造は幾度か目にして来た。こんな子供に同じ輝きを見るとは思いもよらなかったが。
頑是ない子供を諭すような態度を止めて、ビジネスの相手を見据えるように眼光を鋭くして樹を観察する。そうして、古い話を思い出した。
「君は、斎賀と言ったか………、確か斎賀の三男か四男かがラフマーニーの末娘と結婚したと聞いた事がある」
「三男です」
答える樹の顔には苦笑が滲む。樹の父が実家を出奔したのは20歳を超えて直ぐだった。その後母と知り合って結婚した事は限られた極一部の人間しか知らない事実だった。目の前の人物は中々侮れない。
「君がSAIGAを継ぐのかね?」
少し前までSAIGAは業績不振に陥っていたがここ2年の内に改善を見せて力を取り戻しつつあった。また、ラフマーニーは日本に拠点を持っていない。
「いいえ。高校卒業まで日本で経営を学べと言われています」
「成程。君には時間がないわけだ」
流石に話が早い。樹は頷いた。
ラフマーニー家が経営する会社はアメリカにある世界的な巨大企業だ。日本にこそ支社はないが、その名は広く知られている。樹の祖父が会長を務め、その下には実子である3姉妹とその夫達が祖父を支えている。
樹の存在が公に知られていないのは、成人前のラフマーニーの子供達の情報は徹底的に隠され守られているからだ。高校までの猶予は言わば、両親からの樹へのプレゼントだった。アメリカに帰国すれば樹には自由がない。忙殺される事は目に見えていた。
樹にはこの3年間しかなかった。だからこそ樹は焦っている。
「君の気持ちは兎も角、結婚は家と家との結びつきだ。ラフマーニーが許すとは思えないが」
家格が違いすぎるのだ。椎名家がいくら裕福でもラフマーニーとは比べものにならない。ましてや、千種の体の事もある。
「御心配には及びません。ラフマーニーに政略結婚はありません。何事も己で勝ち取れというのが一族の習わしです。母もそうやって父を連れて来た。家柄や経済基盤は問題ではなく、どのような人物を伴侶に選ぶのか当人の力量を問われるのみです」
今知られているラフマーニーの3姉妹と配偶者達は優秀だと聞き及んでいる。途方もない話のように善造には感じられた。そのような立場に自分の娘が相応しいとは思えないのだ。だから、少し意地の悪い質問をする。
「君に千種が相応しいと?」
「彼女は得難い人です」
そこで安易に千種を愛していると告げない事がかえって本気の決意の程が伺われた。千種の美徳を樹は理解しているように思える。
善造の視線が幾分和らぐ。
「あの子の、千種の気持ちは君にあるのかね?」
樹の瞳がはじめて揺れた。そっと吐息を吐き出す。
千種を愛している人の前で嘘は付けなかった。偽りでは信頼を築けない。
「いいえ」
「………成程。私の娘ながら難しい処のある子だ。君も苦労しているというわけか」
人と関わることを極端にさける娘だった。恋人どころか友人と呼べる人も善造達は知らなかった。それがいつも善造達の心配の種だが。
「私は一度あの子を失い掛けた事がある」
千種が5歳の時の交通事故だ。その事故で千種は右足に障害を負った。樹が黙って頷く。
「助かったのは奇跡だったよ。足が不自由になったのは本当に、本当に些細な事だった。事故後、千種がそれまでと変わってしまっても、生きて居てくれるだけでいいと思った。ただ幸せになってくれるだけでいいと。あの子には何も強要はしたくない。結婚もあの子が望む相手であれば誰でもいいと思っていた。君にあの子の気持ちが変えられるか?」
「必ず」
力強い答えだった。樹との会話は小気味いい。彼の背景を別にして善造は樹を気に入りつつあった。
「私はこの通りの老いぼれだ。あの子には話してないが、心臓の調子が思わしくない、医者には無理をするなと言われている。親戚連中を信用していないとは言わないが、残されるあの子の事が何よりも心配だ」
会社は既に甥夫婦に任せてある。後継者も甥の長男に決まっているので千種が継ぐ必要はない。千種が継ぐのは善造の個人資産だ。人を狂わすには十分なものとなるだろう。善造や善造の兄弟達が存命な内はかまわないだろう。だが千種の従兄弟となると殆どが千種自身との交流がない。足が不自由で世間知らずな千種が一人になればどんな目に合うか想像に難くない。
善造はじっと樹を見つめた。樹の視線は決してぶれない。
「ずっとあの子を守ってくれる絶対的な盾を探していた。君がその盾になれるか?」
「そのつもりです」
「ならば、わたしも一つ君にお膳立てをしよう。千種と君の婚約だ。だだし、最終的に千種が納得しなければ解消する非公式なものになる。期限は君が卒業するまで」
「それで構いません」
満足げに静かに微笑む端正な顔は子供には見えなかった。善造の胸中は複雑だ。
もっと平凡な相手で良かった。千種の望む静かで穏やかな人生を共に歩んでくれる相手を望んでいた。樹では到底無理だろう。あるいは樹に巻き込まれて千種も変わるだろうか。いつも何かを諦めている千種が。
樹がその腕の中で宝物のように千種を抱いてこの家にやって来た時、何か抗い難いものを感じた。そういう時は必ず導かれるように状況が動き出す。善造のこれまでの長い人生で幾度か経験して知っている。何をしても無駄なのだ。導かれるまま、人はそれを運命と呼ぶのかもしれない。
「俺、もう行くわ」
コーヒーもとっくに飲み終えて、樹達を暫く観察していたが、樹の意識は千種からぶれる事はなく甚だ虚しくなって来た。部屋に入って来た時よりも気持ちげっそりして清十郎が立ち上がった。
樹が顔を上げた。笑みを浮かべて大変機嫌が麗しい。手は休みなく千種の身体をマッサージし続けている。余程気に入ったのだろう。
「ん。セイ、ありがとう」
清十郎は仕方なさそうに笑って手を振って出て行った。
清十郎の気持ちは樹にもわかっている。友人として有難いとも思う。しかし千種に関しては自制が難しい。傍に居れば触れずにはいられない。天気の悪い日は嬉しくなる。足の事すら千種を抱き上げる口実でしかない。この腕に抱き上げて逃げ出せずにいる千種は樹の独占欲をこの上なく満たしてくれる。
千種の右足を撫でていた手を左胸の少し上置いた。掌の下で彼女の小さな心臓が凄い速さで鼓動を刻むのを感じる。強張る千種の耳元で艶っぽく囁く。
「邪魔者はいなくなったよ。もっと凄い事、する?」
瞼が勢いよく上がる。黒い瞳に麗しく微笑んだ顔が写しだされる。
「おはよう、気分はよくなった?」
近すぎる距離を離そうとして千種の手が樹の肩を押した。その手を握り込まれ指同士を強く絡められる。震えそうになる指先を誤魔化そうとして千種から思わず握り返してしまった。
「だ、大丈夫だから」
動揺で上擦った声が滑り出て千種が眉を顰めた。
「千種は、毎回それを言うよね」
「本当に、大丈夫だから。放してほしいの」
半ば諦めつつの懇願だったが、何が樹の琴線に触れたのかわからないが樹があっさり頷いた。
「いいよ」
樹が丁寧にソファに千種を座らせた。樹の顔は楽しそうで機嫌がとても良さそうだった。跪いて千種を見上げる。
「足の痛みはどう?」
「うん、大丈夫………」
戸惑いながら千種が混乱している。気を失う前に樹にあった狂気が消えていた。喜んでいいのか、警戒した方がいいのかわからない。
「顔色も大分良くなってる。そろそろ帰ろうか」
乱れた千種の髪を整えながら、ただひたすら甘やかすように言う。
再び抱き寄せようとする樹に千種が慌てて声を上げた。
「待ってっ、本当に大丈夫だから。大分足が軽くなったから………一人で歩きたいの」
怯えながらも自分の意思を主張する。いつもなら強引に抱き上げられる場面だ。樹は千種の不調に敏感で過保護なのだ。
「いいよ。ちょっとでもふらついたら抱き上げるけど」
自分からお願いしておいて千種が吃驚した顔をしている。それを見て樹が笑った。今は気分がいいのだ。千種の安らいだ顔も戸惑った顔も吃驚した顔も見られたから。その証拠に多少の千種の怯えや拒絶にも樹の獣は大人しくしている。
「ただし、条件がある」
千種はさっと警戒を滲ませる。樹が顔を近づけて目を覗き込む。千種は簡単には目を逸らせない。逸らせば逸らすほど、拒絶すればするほど、樹の執着が強まるのがわかっている。
樹の瞳は、今は明るい水色で澄んでいた。
「僕の名前を呼んで」
千種が目を見張る。この至近距離ではお互いどんな感情も隠せない。千種の瞳には苦しみがある。
「………どうして」
「千種は、僕の名前を知っている?一度も呼んだ事がない」
「そんなの」
「樹だよ、言ってみて」
「さい」
樹の手が千種の口を覆う。震える千種を安心させるように微笑んで頬を撫でて手を離した。額同士をくっつけて囁く。
「樹だよ」
「………」
「千種」
「い…つき………」
千種が呆然と口を開く。
「うん。もう一度」
「い、つき」
「もっと」
「樹」
千種が泣き出す寸前のように顔を歪ませて繰り返す。それでも樹は心底嬉しそうに綺麗に笑った。
「うん、良く出来ました。愛しているよ、千種」
愛していると告げた時、千種は絶望的な顔をした。今も変わらない。千種が何を抱えているのか樹にはわからない。それを暴く時が来るのだとしても、樹が千種を手放す事はないだろう。
苦痛しか千種に与えないのだとしても何度でも樹は愛を囁くだろう。千種もいつか慣らされて、樹の言葉は千種の中に降り積もる、樹の存在も同じように。
最終的に千種が拒めない事を樹は知っていた。彼女の心は私欲を満たそうとはしないから、樹の欲に勝てない。
願わくは、彼女が上手に樹に堕ちてくれることを。
「愛してる」
苦痛に歪むその顔が喜びに綻ぶ事を強く願っている。
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