ララエ1
夢の中で千種はある地方領主の一人娘だった。千種―――ララエは世間から隔絶されるように育てられていた。ララエには領主である父親がいたが、本邸ではなく別邸で使用人に囲まれて育った。父親に疎まれていたのではない。父親は宝物を宝箱に仕舞う様にララエを大事に世間の汚濁から遠ざけていたのだ。
ララエが触れる物は高級で美しい物を厳選され、決められた者のみがララエと接する事が出来た。箱庭の中で何も疑問に思わず蝶よ花よと育てられたララエはとても愚かな娘だった。
ララエはお姫様だった。父親はいつもララエの事を「お姫様」と呼んだ。周りは皆ララエの言う事を叶えてくれてララエを優先してくれる。ララエは幸せだった。何故ならララエは「お姫様」がどんな存在なのか絵本を見て知っていたから。優しく美しく皆から愛さる存在だ。
口を開けば皆ララエを褒め称える。
『ララエ様はとても可愛らしく美しくいらっしゃいます』
『ララエ様はとても賢くていらっしゃいます』
『ララエ様はとても優しくていらっしゃいます』
『ララエ様はとても素晴らしいお方でございます』
その言葉の裏に潜む思いを知らず、額面通りに受け取って浮かれていたララエ。優しく美しく平和な完璧な世界。そのララエの世界にある日一人の男の子が紛れ込んだ。
その日、ララエの胸は嬉しさで弾んでいた。初めてララエが植えた花が咲いたのだ。その花はローズピンクの可愛らしい花だ。毎日毎日欠かさず世話をして沢山話かけたのだ。父親にその花を見て欲しくて堪らなかった。
父親の手を引いて小さな体を精一杯動かして庭を歩いていた。だからララエはその男の子の存在に気が付いていなかった。
ララエには何が起きているかわからなった。気が付いたら綺麗な水色の瞳にララエの目が釘付けになった。
ララエは状況を理解してない。突然現れた男の子がボロボロの服を着て酷く汚れていた事や、父親の護衛に押さえつけられながら手には短剣を握りしめている事、その瞳が怒りと憎悪に煌めいていた事。ただ、男の子の本物の空のような瞳に見惚れていた。
「ねえ、とうさま。わたし、アレが欲しい」
惨めに地面に這いつくばるしかない男の子に向かって、無邪気で残酷な願いを躊躇なく口にする。それがどれ程傲慢であるかを、屈辱に身を震わせるしかない者の惨めさをララエはわからない。
父親は多少困った顔をしていたが結局はララエの願いを叶えてくれた。
その日から男の子はララエのものになった。
男の子の名はロウと言った。緩く波打つ淡い金髪は光のようだった。瞳は今までで一番美しい空の色。白く滑らか頬は高級な陶器で絵画に描かれる天使のよう。
ララエは美しいものが大好きだった。ロウほど美しいものはない。ロウはララエを虜にした。どこへ行くのもロウを伴い傍に置いた。
ロウはララエの傍を離れはしなかったが少しも思い通りにならなかった。
彼は少しも表情を変えない。喋りかけても口を開かず、感情のない人形のようだった。ララエが何をしても関心を示さない。最初はそれでも構わなかった。彼が美しい事に違いはなかったからだ。
ララエは美しいロウの絵を沢山スケッチした。その美しさを絵の中に残したいと熱心に描いていたけれど、色を入れる事が出来ずにいた。ロウの光のような髪や空の瞳、滑らかな肌の色、すべて感じる事が出来るのにいつまでも白と黒でしか表現出来なかった。
ある時、ロウが笑っているのをララエは目撃した。ララエの前では決して笑わないロウが笑って話をしていた。驚いたララエが急いで近づくとロウの顔から感情が抜け落ち口も貝のように閉ざしてしまった。
無表情でも美しいが、笑った顔はなお美しいロウをララエは知ったのだ。
「ロウ、わらって」
何度も懇願してもロウの顔は無表情のまま。瞳は感情を映さないガラスのようだった。
鈍いララエにもようやくわかった。ロウはララエ以外の相手になら表情を変え喋りもする。ララエにだけ頑なに反応しないのだ。
ララエを襲った悲しみは直ぐに大きな憤りに変わった。何事も思い通りになったララエには強い怒りを感じるは初めてで、怒りの鎮め方がわからない。どうにかしたいのにどうにもならない現実が苦しい。ロウをどうにかしなければララエがどうにかなりそうだった。
父が馬を調教していた姿を思い出して父の革のベルトを持ち出した。
「言うことを聞かないならムチで打ってもいいのよ、とうさまがおしえてくれた」
幼い手に革のベルトを持ってロウの前に立つ。彼は顔色一つ変えない。感情を露わにする事がない。顔を真っ赤にしたララエは感情のままにベルトを振り上げたが、ロウに当たる瞬間には目を閉じてしまった。
身体を打つ音がして目を開ける。ロウの手がベルトを捉えていた。それでも避けきれなかった先端がロウの綺麗な顔を打ったのか頬が赤くなっていた。初めて人を傷つけた事実に青褪め震えてベルトから手を離した。
「ああ、ごめっ」
目に一杯の涙を浮かべて震えながら伸ばした手がロウによって振り払われる。
「さわるな」
初めてかけられた声は冷たく強い拒絶を孕んでいた。払われた手はじんじんと痛み、ララエの胸も同じように痛んだ。痛んでどうする事も出来ず叫んだ。
「わたしはわたしのすきな時にふれるの!ロウはわたしのものだもの!さからうならまたムチよ!!」
これまでララエがロウにしてきた事と言えば、ロウと連れまわして傍に置く事だけだった。それがロウに意図的に触れるようになった。ララエが触れる度にロウの無表情が崩れて嫌悪を顔に浮かべた。それが腹立たしく憎らしく悲しいのにやめられなかった。
ララエに無関心なロウを見たくなかった。それしかロウの感情を動かす術を知らないララエはロウに執拗に触れた。美しい顔に、髪に。腕や足やその胸に。ロウが嫌がれば嫌がる程ララエの行動もエスカレートしていったのだ。
そうやって2年も過ぎた頃ララエは偶然侍女達の会話を盗み聞いた。
「アレはホントおぞましい光景だわ」
「ロウ一人なら眼福だけど、お嬢様がべったり傍に張り付いていちゃねぇ」
「憐れを通り越して醜悪よ。よくロウの隣に並べるわ」
「お嬢様はご自分の容姿に頓着なさらないからねぇ」
「私がロウなら同じ空気を吸うのも耐えられないわ。まして体に触られるなんて悍ましいわ」
「アレは人形を可愛がる感覚でしょ。十分気持ち悪いけど」
「それなら私が可愛がってあげるわよ。それこそ全身をね」
「何を言っているのよ、あんた変態なの?ロウはまだ子供じゃないの」
「アレだけの美形よ?将来いい男になるのは目に見えているわ。わたし好みの良い男に調教するのよ」
「あんたじゃ相手にされないわ」
「あのお嬢様よりマシでしょう?お嬢様に比べれば誰だって美人だわ」
「それはそうだけど」
侍女達がくすくすと嗤うのを背にララエはどうやって自室に帰ったのか覚えていない。
――――私はみにくいの?
『ララエ様はとても可愛らしく美しくいらっしゃいます』
『ララエ様はとても賢くいらっしゃいます』
『ララエ様はとても優しくていらっしゃいます』
『ララエ様はとても素晴らしいお方でございます』
―――いつも聞かされていた言葉は全て嘘だったの?ロウの隣に相応しくない程醜いの?
自室の普段は布を被せられている鏡の前に立った。振るえる手で布を取り去った。そこには顔色を青白くさせた少女が立っている。侍女達が毎日繰り返し褒めたたえてくれた姿のまま。
艶のない灰色の髪はサイドを結われ背の半ばまである。丸く太った身体にはレースをたっぷりとあしらったピンク色のワンピースを。丸い顔には目立ち過ぎる口と低い鼻と円らな小さな瞳が絶望の光を湛えていた。ロウと同じ人間とは思えない容姿。
恐る恐る自分の顔に触れる。鏡の中の少女が歪みぼやけて行く。
―――私はなんてみにくいの。
ララエは美しいものを愛していた。その中でとりわけ美しいロウ。ロウの周りにも美しいものを置きたかった。上質な服や装飾品。豪華な部屋に美味しい食事。どれもロウが喜んだ事はなかったけれど、ララエは満足していた。
美しいロウには美しいものだけを。なのに、一番傍にいたララエは?
ララエは初めて死にたい程の恥辱と屈辱を知った。沢山泣いた。泣いただけララエは惨めで醜かった。とても醜かった。
「お前はもう要らないわ。飽きたの」
その一言でララエはロウを簡単に捨てられた。ロウは相変わらず無表情で、ララエが最初から存在しないように反応をみせず、その日の内に消えた。
ララエは良かったと思った。最後までロウはララエに無関心だった。醜いララエに無関心だったから良かったのだ。
ララエの中に生まれた苦しい気持ちはララエから無邪気な笑顔を奪った。メイド達を全員解雇しても知ってしまった現実が覆る筈もない。
父親だけはそんなララエに優しかった。ララエの美しくもない灰色の髪を撫でながら憂いを取り除く優しい声で囁いた。
「お前を悲しませた者達に罰を与えようか?」
優しく微笑んでいる瞳に残酷な光が宿る。
ララエの胸がじんと痛んだ。それは初めてロウ傷つけた時に感じた痛みだった。ロウを傷つけたのはララエなのにララエも痛かった。他者を傷つける事は痛くて怖い事だった。
ララエは夢中で首を横に振った。
「ばつはいらないの。いらないから―――」
ロウを捨てたのはララエだったが完全に遠くにやる事は出来なかった。庭師の弟子として雇うように父親にお願いをしていた。
新たに雇い入れた侍女達は年配か醜い者達ばかりにして、外の世界を遮断してララエは箱庭の中で育った。
ララエは時折訪れるロウを遠くから見ていた。ロウの手足がすんなりと伸び、誰よりも美しい青年になるのをただ見つめていた。
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