彼女の罪と彼の過ち

たみ 

千種1

 どうしてこんな事になったのか?


 何度繰り返したかわからない疑問。答えを返してくれる者も、正解を知る者もいない。虚しい問いかけを何度も繰り返す自身の滑稽さを千種はどこかで諦めていた。


 人もまばらな放課後の廊下。死角になる位置に居たとしてもいつ誰かに気付かれるとも知れない場所で千種を緩やかに拘束してくる男は優し気に微笑んでいる。


「ねえ、千種?僕から逃げるなと言ったよね?」


 掴まれた腕に力が籠められる。痛いと抗議する程でもない、けれど決して逃れる事が出来ない絶妙な力加減だった。

 

 千種を見下ろす男の双眸は明るい水色だ。艶のある髪は藍色がかった黒で、瞳の色をより美しく見せている。左右対称に配置された完璧なパーツを持つ端正な顔立ちや手足の長い恵まれた体形は日本人離れしていた。


 夏空のようだと評された瞳には顔色を蒼白にして怯えきった千種が映し出されていた。千種の心臓が激しく鼓動を刻んでいる。極度の緊張で手足の感覚が鈍くなって行く。


 耐え切れず千種の反らした顔に男の手が触れた。頬を辿る熱い指先に身が竦む。震えた手から握りしめていた杖が滑り落ちて虚しい音をたてた。杖に支えられていた体がバランスを失い崩れ落ちそうなる。千種がダメだと思う間もなく力強い腕に軽々と抱え上げられた。


 息を飲む千種が我に返る前に彼は歩き出していた。



「っや、降ろしてっ、一人で歩けるからっ」


 拒絶を口にして、腕を伸ばして相手の肩を押し逃れようともがく。小柄で、碌な運動もした事のない千種は非力だった。千種の抵抗を嘲笑うように身体を引き寄せられて相手により一層身体を密着させられる。


「暴れないで。それに無理に歩く事はないよ。こんな雨の日は足が酷く痛むだろう?僕がいつでも千種の足になってあげると言った筈だ。あんまり聞きわけがないと、僕にも考えがあるよ?」


 優しい口調で嫣然と微笑む男を前に完全に血の気が失せる。くらくらと眩暈がする。一か月前の出来事が千種の脳裏を掠めた。息を止めた唇に男の手が優しく触れる。感触を確かめるように何度も往復する。


 囚われた視線が外せない。我が物顔で千種を堪能する指先は少しも容赦がない。


「………い、や」


 ようやく絞り出した拒絶は情けない程震えていた。彼の笑みが深くなる。


「千種のそれはわざと?時々千種は僕の限界を試しているのかと思うよ」

「ちがっ」

「口先だけなら誰でも言える」

「本当にっ」

「千種は本当に迂闊だよね。もう一度聞く。こんなに強張った足で一人歩けるの?それとも僕以外の誰かに助けを求めるつもりかな?」


 瞳に宿ったのは悋気だった。その瞳に射抜かれて千種は言葉を失う。彼の悋気が炎のように揺れて徐々に強まるのがわかる。

 

 わからなかった。千種には心底理解出来ない。千種の何が彼の興味を惹いたのだろう。


 彼は、斎賀樹は家柄、学歴、美貌どれをとっても申し分なく、圧倒的な存在感で常に人の中心にいる。対して、千種はあまりに平凡だ。目立つ言動も、人から好かれる要素もなく教室の片隅にひっそりと存在して、彼のような人間とは関わる事もない筈だった。千種には何もない。敢えてあげるとすれば、壊れた足を引き摺っている事だ。


 同情ならば良かった。同情なら昔からされてきていて千種には直にわかる。


「ほら、千種も協力して。僕の首に腕をまわして」


 楽しそうに樹が笑う。笑いながら千種のどんな些細な反応も見逃すまいと見つめている。


 その執拗な視線から逃れたかった。のろのろと腕を上げて触れる寸前にぎゅっと固く目をつむる。


 恐ろしかった。樹の執着が、樹が千種の恐怖そのものだった。




 澄んだ空のように鮮やかな水色の瞳を千種は樹に出会う前から知っていた。何より美しく冷徹で残酷なその色は千種の魂に深く焼き付いている。かつて“彼女”を見つめる瞳には憎悪と研ぎ澄まされた殺意だけが込められていた。間違っても愛執ともとれる執着などなかった。


 今の状況が因果というならば千種の背負った業は余程罪深く許されない。その罪は重過ぎて、絶望と諦観が千種の人生を飲み込んだ。


 椎名千種の人生は生まれる前から決まっていた。たった18年の中で千種の人生が順風満帆だったのは五歳までだった。裕福な資産家の家に生まれ、遅くに出来た一人娘である千種は両親の愛情を一身に受けて何不自由なく育ち、何処にでもいる無邪気な子供だった。


 千種の人生を変えたのは五歳になったばかりの彼女を襲った交通事故だ。千種は意識不明の重体で一年間昏睡状態に陥った。


 目覚めるまでの長い間、千種は残酷な夢を見ていた。

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