海に行く

傘立て

 

 中里なかざとは、ときどき海に行きたがる。頻度でいえば、年に二回。冬の終わりと、秋のなかばだ。ある日突然「明日は海に行く」と告げられ、秦野はたのの予定や意向にかまわず連行される。今回は秋のほうである。一応、仕事のない土日に限られているのが、せめてもの気遣いではあるらしい。同居を始めた三年前から繰り返されてきたので、秦野としてもある程度予測はついていた。ただ、屋根を叩く滴の音が室内に響くほどの雨の夜に言われたのは初めてだったので、今回ばかりは少し面食らった。

「明日?」

 思わず返した言葉に、扉の隙間から顔を出した中里は今さら何を、という表情で頷いた。頷いた拍子に、洗ったままの濡れた長い髪が重たげに揺れる。

「今言っただろ。明日の八時に出発するから、ちゃんと起きてくれ」

「雨なのに?」

「明日は晴れるよ」

 妙に確信を持った様子で言うので、手にしていた携帯電話で天気予報を確認してみた。降水確率百パーセント。見事な傘マークが近隣の県一帯に連なっている。秋の長雨と呼ばれる時期を過ぎても、今年はなかなか雨雲がひかない。

「……降るみたいだけど」

「秦野は俺よりもそんなどこの誰かも知らないやつの言うことを信じるのか」

 いやそりゃ信じるだろう無茶を言うな相手はプロの気象予報士と最先端のテクノロジーだぞ、と反論する前に、「じゃあ明日、八時な」という言葉とともにドアを閉められた。

 

 夜が更けるにつれて雨は強まり、窓を打つ音がうるさいほどだったが、どういうわけか翌朝にはすっきりとやんだ。日が昇れば青空までが眩しい。唖然として窓越しに空を見上げた秦野に、中里は「だから、言っただろ」と、特になんの感慨もなさそうに声をかけた。

 晴れてしまったなら、出かけないという選択肢はない。狭い台所にふたり並んで立ったまま朝食をとり、宣言どおりに午前八時に家を出た。雨上がりの地面が日に照らされて、湿気を吐いている。陽炎が立つ季節でもないのに、遠景が揺らぐ気がした。

 

 海までは私鉄とバスを乗り継いで二時間ほどかかる。本当はもう少し近い海岸もあるのだが、中里が「海へ行く」と言ったときに向かう場所は、いつも決まっていた。車窓の風景は古びた住宅地から少しずつ建物の背が伸びて街らしくなり、そこからまた住宅地を経てのどかな田畑に変わっていく。乗り換えた支線の列車は、いつにもまして閑散としていた。中里は車内を見渡してから、秦野を引っ張るようにして、車両のいちばんうしろの二人掛けの席につく。座ってしまえばほかの乗客が見えなくなるほどに空いている。それでも、窮屈さを嫌った秦野が通路を挟んだ席に行こうとするのを、中里が無言で手を掴んで引き留め、なかば強引に隣りに座らせた。こういうときの中里には逆らわないほうがいい。多少の狭さは我慢するしかなさそうだ。中里は秦野の右手をつかまえたまま、掌を指で辿って人差し指に嵌まった指輪に触れた。とりたてて目立つ意匠ではないが、金属同士が複雑に噛み合う部分があり、知らぬ間に服の糸を引っかけてしまうことがあるので、普段は掌の側に合わせ目がくるようにしている。中里はその金属の境界部分をしばらく指先でなぞっていたが、やがて飽きたのか放り出すように手を離した。

 海に向かう道中、中里はほとんど喋らない。ぼんやりと車窓を眺めているか、手元の荷物に目を落としているかのどちらかだ。今は、俯いているほうだった。膝の上には、濃藍色の風呂敷包みが置かれている。年齢にあまりそぐわない渋い見た目の持ちものを、中里は海に行くときに必ず提げていく。

 無言で盗み見た横顔は、肩の下まで伸びた髪に隠れている。寝ているわけではなさそうだった。中里が喋りたくないのであれば、秦野も敢えて話しかけるようなことはしない。ただ、今日はなんだか無性に顔が見たくなった。見える範囲に誰もいないのを良いことに、多少戯れても構わないだろうと踏んで、緩やかに流れる髪に手を伸ばした。

 髪を持ち上げてみて、すぐに後悔した。露わになったのは、秦野の知らない表情だった。見たことのない眼差しを、中里は膝にのせた荷物に注いでいる。慌てて手を離そうとしたが、凍りついたように肘から先が動かず、戸惑っている間に中里の瞳だけがゆっくり持ち上がった。髪と同じ深い黒をした目がこちらを向き、視線がぶつかる。動けないまま息を呑んだ秦野の目の前で、中里の口元がふっと綻んだ。

「どうした? 変な顔して」

 こちらを向いて笑いかける顔は、もう秦野が知るいつもの中里で、余計に何も訊けなくなってしまった。口ごもっている間に列車は軋んだ音をたてながら止まる。目的の駅に着いていた。中里に肘を叩かれ、慌てて降りた。さびれた駅前のロータリーからバスに乗り換えると、十五分ほどで海に出る。バスを降りた瞬間に、重い磯の香りが鼻をついた。

 

 砂浜に降りながら、中里は持っていた包みを腕の中で器用に開く。引き抜くように外した風呂敷と覆袋を、何も言わずに手渡してきた。いつものことなので、秦野も黙って受け取った。中から出てきたのは片手で掴める大きさの骨壷だ。灰色がかったように沈んだ色合いの白色のそれを、中里はいかにも大事そうに手で包み込んだ。一応慎重に扱ってはいるが、中に入っているのは遺骨ではない。骨が入っていたことはないという。中身は、中里がここに来るたびに少しずつ集めてきた貝殻である。

 正午までには時間があるが、日はすでに高い。砂浜は、昨夜までの雨が嘘のように乾いていた。波打ち際に向かってだんだんと色が濃くなる砂の上に、打ち上げられた白い貝殻が無数に散らばっている。それを踏み割りながら歩いた。避けようとして足をずらした先にも、別の貝殻が落ちている。砂に足が沈む感覚に混ざって、薄い殻が砕ける軽い感触がある。音も鳴っている筈だが、波の音に紛れて耳までは届かない。

 海風が時折り強く吹き、中里の長い髪を捲き上げた。髪は風に煽られて水煙のように広がり、おさまってはまた舞い上がる。炎のようでもある。煙も炎も同じ「えん」の音であると気づいて、秦野は少しだけ愉快になった。塩、燕、遠、と同じ音を持つ漢字を頭に並べて共通項がないかを考える。前を歩く中里は骨壷を持ったのとは反対の手で髪をおさえていたが、風が意外に強く、髪は片手ではどうにもならないほどに暴れまわった。たまりかねたのか、中里はポケットを探ってゴムを取り出し、そこで初めて片手が塞がっていることを思い出したとでも言うようにそのまま秦野に手渡してきた。かわりに結べ、ということらしい。目の前をちらつく黒いゴムは輪の形をしている。円、と声には出さず呟いた。ここにも「えん」があった。

「俺も手が塞がってるから、今だけ持って」

 そう言って、ゴムを受け取ったかわりに、たたんだ風呂敷と袋を中里に押しつける。髪を結んでやったことなどない。やり方もよく知らなかった。秦野自身は髪を伸ばしたことがないし、女きょうだいはいても、三つ歳上の姉の髪に触れた経験は、幼い頃の喧嘩のはずみで横髪を掴んでしまったぐらいしかない。普段の中里やかつて付き合っていた彼女の手の動きを思い出し、風に散らばる髪をつかまえて不器用にまとめていく。秦野のために立ち止まった中里は、おとなしく待っている。途中、指輪に絡んだ髪に気づかずにうっかり引っ張ってしまったらしく、一度だけ「痛い」と文句が飛んだ。

 丁寧に揃えたつもりの髪は、最後に毛束を引き絞るときに、なぜか崩れた。ついでに、やや左に寄った。

「ありがとう。でも下手くそ」

 後ろ髪に手をやって仕上がりを確かめた中里が感謝とともに余計なひと言をこぼしたので、秦野は中里の脛を蹴って応えた。蹴られた中里がケラケラ笑う。屈託のない笑い声をこの日初めて聞いて背の力が抜け、そこでやっと自分がずっと僅かに緊張していたことに気がついた。

 

 中里はひとりで貝殻を拾う。秦野は道路につながる階段の中ほどに腰をおろして待った。白茶色の砂浜に、中里の落とす黒い影が動いたり止まったりする。黒い服の中里自身も、明るい陽光の中では影のようだ。拾う貝殻の枚数は多くない。丁寧に吟味して、いつも最終的に三枚程度を骨壷におさめる。自分と同じぐらいの身長であるし普段はあまり意識しないが、こうして遠目に見ると、中里は一般的に見れば上背のあるほうなのだと分かる。体が細いせいで、余計に長くも見える。その細長い体を折りたたむようにして、砂の上のものを拾ったり放り投げたり、ふらふら歩きまわったりしている。ときには、膝をついてしばらくうずくまる。長髪の黒っぽい服装の男が骨壷を片手にひとり砂浜をうろつくさまというのは、冷静に見ると異様な光景で、中里が毎回秦野を伴うのは、不審者扱いを受けたときのための保険でもあるのだろうと思った。実際にそういう目に遭ったことはないが、何をしているのかと問われたときのための当たり障りのない答えを、秦野はそれとなく用意している。それはおそらく中里の行動の本意とは異なるし、貝殻集めの本当の理由など聞きたくもないので、できれば職務質問などは受けずに済ませられれば、それに越したことはない。

 

 昼近くになり、太陽の位置はさらに高くなった。水辺の空気は湿っているが、雨上がりの気配はもうどこにもない。浜に波が押し寄せ、砕けて引いていく音が終わりなく繰り返される。人の声がしないかわりに鳥が鳴く。階段を上がってすぐの道路を、軽トラや乗用車が通り過ぎた。海面は絶えず動いていて、太陽の光を細かく反射した。波間で白や黄色の光が、間隔も大きさも不規則に点滅する。人に比べて色素の薄い秦野の目は、光にあまり強くない。雲のない晴天も光がちらつく海面も眩しく、早々に疲れを感じて膝の上で組んだ腕の中に顔を伏せた。中里の用事はしばらく終わらないだろう。少しぐらい寝てしまっても問題なさそうだった。小春日和の空気はぬるく、照りつける太陽のおかげで頭も背中もじんわりとあたたかい。移動による疲労もあって、まどろみはすぐにやってきた。

 

 冷えた風に目が醒めた。いつの間にか出た雲が、太陽を隠したようだった。となりに中里が座っている。緩慢に頭を持ち上げた秦野に「おはよう」と声をかけてくる。

「ごめん、寝てた」

 寝起きの声に、中里は首を振って応えた。そのまま立ち上がるかと思ったが、動く気配はない。少し休んでいくつもりらしかった。

「拾えた?」

「ちょうどいいのがあったよ」

 頷いて見せる中里の膝の上には、蓋をした骨壷がのっている。包みを秦野が持っているので、裸のままだ。装飾のない白磁の器は、言われなければ骨壷とは分からない。それでも、弔いのために作られたものだというだけで、どことなく暗い色に見える。中里はこれを葬儀屋ではなくネット通販で買ったらしい。巾着袋とセットで二千円、意外と安いよねえと、前回か前々回のときに言っていた。その意外と安かった容器の蓋に、片手をのせて支えている。

「兄がいたんだ」

 海のほうを向いたまま、中里は呟くように言った。兄がいたというのは初めて聞いた。中里は兄弟の話をしたことがない。秦野はずっと、中里のことをひとりっ子だと思っていた。

「十歳近くも離れていたから、実質ひとりっ子で親が三人いるようなものだよ。こっちが小学生でも向こうはもう高校や大学だからさ、力の差がありすぎて喧嘩になることすらないし、優しくて自慢の兄だったけど、足音を立てるなとか宿題は終わったのかとか、口うるさくて」

 年長のきょうだいから何かとやかましく口を出されるのは弟妹の宿命だろうねと、明らかになった共通点に笑い合う。ただし、秦野が現在に至るまで姉の小言に晒されているのに対して、中里のそれは十二歳の冬で終わった。

「この海で死んだんだよ。おそらく、だけど」

 断定できないのは、遺体があがらなかったせいだ。砂浜に、兄の愛用していたカメラと上着、学生証が入った鞄が揃えて置いてあったのが、地域の住人に発見された。あのあたりだよ、と中里はそれほど遠くない場所を指差した。

 前日の夜、兄は母に趣味の写真を撮るために海へ行くと話していた。実際に浜でカメラを構える姿も目撃されている。撮影中の事故なのか自殺なのかは確定的には語られなかった。ただ、撮影中であれば手に持っている筈のカメラがほかの荷物と一緒に残されていたことがその答えであると、親族間では暗黙の共通認識となっていた。

 もともと家族仲は良好な家だった。大学生だった兄は快活な性格で交友関係も広く、いつも何かの用事を作っては忙しく出かけていた。思い悩んでいるふしも見せなかった。それだけに、何も知らないまま遺された両親の嘆きは相当なもので、中里の家は一気に火が消えたようになった。重苦しい空気の中で、中里は卒業式を迎え、中学生になった。そういう話を、中里を静かな声で淡々と語った。

 

 その人物に連絡をとったのは、たまたま兄の話の中で友人として名前があがったことがあるのを思い出したからだった。解約しないままの兄の携帯電話に残った通話履歴の中にその名前を見つけ、中里は両親には内緒で電話をかけた。履歴に同じ名前が頻繁に出てきたので、それだけ仲が良かったなら頼みを聞いてくれるだろうとも思ったらしい。兄の骨を探したいので、一緒に来てもらえませんか。亡くなったと確定したわけでもない中では突拍子もない申し出だっただろうに、相手はすぐに了承したそうだ。兄が姿を消してちょうど一年後の冬の海で、中里はその男と初めて対面した。

 キハラさん、と中里は呼んだ。指で宙に「木原」と書いてみせる。背が高く、長い髪を肩に垂らした男だったという。中里の兄と同い年というからその頃はまだ大学生だったのだろうが、中学生からするとずいぶん大人に見えたに違いない。その木原という男と一緒に、中里は砂浜の上を歩きまわった。防寒の甘い中里が寒がるのを見かねて、木原は紺色のマフラーを投げて寄越した。ふたりで長い時間彷徨ったが、当然ながら特定の個体の骨など見つかる筈もない。分かってはいても、虚しさは募る。足元に広がる無数の貝殻やヒトデの死骸を見つめ、砂浜にはこんなに生き物の残骸があるのに、と恨めしい気持ちになった。悔しまぎれに、骨のかわりに貝殻を三つだけ持ち帰った。白い二枚貝の片割れだ。それを、兄の骨だと思うことにした。

 一年後、中里は再び木原を呼び出して海へ行った。そうして、前の年と同じように貝殻を三枚拾って帰った。数に意味があったわけではない。繰り返すことのほうが重要だった。翌年も、その翌年も、中里は木原とともに砂浜で貝殻を拾った。初めのうちは適当な袋に集めていたが、骨壷をインターネットで買えると知って、未成年だったため注文と受け取りを木原に頼んで、小さいものを購入した。

 何度か会ううちに、木原は兄の話を少しずつ聞かせるようになった。弟の知らない、友人だけに見せていた兄の横顔を木原の声がなぞり、中里はそれを眼裏に追った。成長期だった弟は、一年ごとに背が伸びる。届くことはないと思っていた兄の身長に少しずつ近づき、高校三年で同じ背丈に追いついた。

 中里が大学生になった年の冬は、例年になく暖かい日が続いていたのに、その日に限って急に冷え込んだ。くしゃみを繰り返す中里の首にいつかと同じ紺色のマフラーを巻きつけながら、木原は苦い顔で「お前、だんだん似てくるんだな」と呟いた。マフラーを巻かれながら見上げた木原の顔は、初めて会ったときよりもずっと近いところにあった。おそらくそのとき、弟はかつて兄が見上げたのと同じ角度で、目の前の男を見ていたのだ。気がつけば、中里はいなくなったときの兄の年齢に近付き、同じ年数分、木原は兄から遠ざかっていた。

 兄の友人との紛いものの遺骨拾いは、七回繰り返した。七回目の直後に、中里の両親は区切りとして形だけの葬儀を行なった。棺も火葬もなく、ごく近しい親族が集まるだけの、ひっそりとした弔いだった。

 八回目以降、木原が砂浜に現れることはなかった。その数箇月前の晩秋の夜に、同じ海で消息を絶ったのだ。砂浜には、もぬけの殻になった上着と、身分証入りの財布が残されていた。遺体は見つからなかった。兄のときと同じだった。中里はひとりで海に通うようになり、いなくなった男の影を追うように髪を伸ばし始めた。

 

 日がかげって、海面の色も鈍くなっている。話し終えた中里は深く息をついた。長く喋って疲れたようで、骨壷を持ったまま膝の上に突っ伏して動かなくなる。秦野は手を伸ばしてその壷を奪い取った。抵抗されるかと思ったが、中里はすんなり手を離した。

 初めて持つ骨壷は、意外に重みがある。そのぶんの貝殻が入っているのだ。いなくなった人の骨のかわりに貝殻を集めるというのは感傷的で子供っぽい行為だが、始めた頃の中里は本当に子供だった。増えた重みは、そのまま積み重ねた弔いの時間でもある。

 秦野は白磁の容器を一旦足元に置き、右手の人差し指の指輪を引き抜いた。蓋を持ち上げ、隙間からその指輪を放り込む。貝殻の中に金属が落ちる重い音がした。中里が、はっとしたように顔をあげた。

「何か入れたか?」

「うん、まあ」

 蓋をして、返す。何を入れたのかと再度訊かれ、言葉を濁しながら、小声で「分身」と答えた。

「何て?」

 蓋を開けそうになるのを、慌てて手を出して止める。出した手は右手だった。からになった人差し指を見て察したのか、中里はそれ以上追及してこなかった。黙りこんで、秦野の左手から袋と風呂敷を引き抜いた。

「お前、馬鹿なの?」

 風呂敷の角を結びながら、憮然とした様子で中里が言う。慣れない手がまとめた髪の毛は最初から崩れていたが、さらに風に吹かれたあとで無残なことになっている。ゴムを引き抜き、手櫛で整えてやった。されるままになりながら、中里はまだ腑に落ちない顔をしている。

「預けるだけだよ。人質にしておく。別れるときに返してくれ」

 顔をあげた中里は、本当に嫌そうに眉をひそめた。

「冗談でも言うなよ、そういうことは」

 

 

 

 中里が拾い集めていたのは、扇形の二枚貝の殻ばかりだった。それを思えば、こうなることは最初から決まっていたのかもしれないと、秦野はあとになってから思い返すことがある。しかし、結局のところは分からない。

 

「ああ、そうだ」

 言葉少なに家に帰り、いつも通りの休日の残りを過ごしたあと、それぞれの自室に引き上げる前に、中里が急に思い出したように秦野を引き止めた。

「一応、教えておく。木原さんも、同じことをしてたんだよ。指輪を放り込んでた。みんな、考えることは同じなのかね。そのとき髪が長かったのは木原さんのほうだったから、結んであげたのは俺だったけど」

 その言葉の意味をはかりかねている間に、中里は含み笑いを浮かべたまま「おやすみ」と言って扉の奥に消えてしまった。

 

 短い悲鳴のような声が聞こえたのは、それからしばらくして、秦野がそろそろ寝ようとベッドに入りかけたときだ。中里の部屋のほうからだった。慌てて転がり込んだ寝室の窓辺で、中里はカーテンに手をかけたまま、ぼんやりと立ちつくしていた。

「どうした?」

「ああ、秦野——」

 秦野の顔を見て、中里が足元と窓の外を交互に指差す。示された床には、昼間に見た骨壷が蓋のない状態で転がっていた。夜風にカーテンが揺れている。拾い上げた白磁の中には、ほとんどなにも入っていない。見覚えのある指輪がひとつ転がっているだけだった。

「中の貝殻は……」

「飛んでいった。全部」

「飛んで?」

 中里が頷いてまた窓のほうを指差した。そうして、奇妙な話を始めた。

 

 部屋に引き取ったあと、中里は少し迷ってから、骨壷を取り出した。本当は、そのままいつも通りにクローゼットにしまい込むつもりだった。そうしなかったのは、昼間の秦野の行動が気になったせいだ。

 秦野が投げ込んだのがどうやら指輪であるらしいことは、右手を見た時点で察しがついていた。だから、中里としては、秦野が何を入れたか見てやろうという覗き見根性ではなく、愛用している指輪を秦野に返さなければいけないという気持ちだったらしい。秦野の手にいつもの指輪がないのを目にしたときから、そのつもりでいたようだ。それで、一度しまいかけた骨壷の蓋を開けた。

 雪か綿毛のように見えた、と中里は呆けた様子のまま語った。蓋を開けた瞬間、中から白いものが溢れるように舞いあがったのだという。白い蝶の群れだった。こんな狭い中からどうやって、という数がいっせいに吹き出し、薄い羽を広げて部屋の中を飛びまわった。秦野が聞いたのは、そのときに驚いた中里があげた声だったようだ。

 蝶たちは導かれるように窓に群がった。暗い窓が、白い羽に覆われて淡く烟った。外に出たがっているらしかった。中里が慌てて窓を開けると、白い蝶は開いた隙間から争うように飛びたってゆき、群れをなして夜空に消えた。

 

「俺が拾っていたのは二枚貝の貝殻だから、ふたつ揃えば都合良く蝶になれたんだろうな」

「普通は、ならねえんだよ」

 秦野は骨壷の中に目を落とした。底には指輪のほかにごく小さな貝殻の欠片や砂が僅かに残っていて、そこに海のものが入っていたとかろうじて分かる。窓を閉めながら、中里はまだガラス越しの空を見上げている。夜空は暗く、白い蝶の影はもうどこにもない。

「そういえば、中里、さっき木原さんて人も指輪を中に入れてたって言ったな?」

「言った」

 秦野は骨壷を中里のほうへ押しやる。

「その指輪、ないんだよ。この中に。俺が入れた分しか残ってなかった。貝殻が蝶になって飛んでいったのは、まあ、ありえないけど今は飲み込むとして、指輪までなくなってるのはおかしくないか」

 中里はやっと気づいた様子で、中を覗き込んだ。秦野の指輪以外に何もないことを確かめ、あたりを見まわす。部屋のどこにも、それらしきものは見当たらない。

「……ないな」

「な?」

「持っていったんじゃないか」

「蝶が?」

 頷いた中里が、窓の方に顔を向けた。

「この窓、遠いけど方角としては海を向いているんだよ。まっすぐ北東につっきれば、あの海岸に出る。蝶が飛んでいったのも、その方向だ。兄か木原さんかは知らないが、取り返したかったんじゃないか。それがなんで今日だったのかは、分からないけど」

 知らない指輪が突然入ってきたからびっくりしたのかもな、空気ぐらい読んでやれ、と付け加えて、中里は愉快そうに笑った。

「それで、お前のこれはどうする?」

 目の前に白磁が差し戻された。中里が勢いよく動かしたので、内側の壁に指輪が当たって、軽い金属音が鳴る。

「え……、格好つけた手前、返されると恥ずかしいんだけど。俺、今、すごく」

「別れるときに、なんて言うからだ。そもそも格好つけた時点で恥ずかしいんだから、いちいち気にするなよ。いいから自分で持っとけ。ここにあってもしょうがないから」

 投げて寄越されたので、渋々受け取った。中里はまだ笑っている。眠気が醒めたからお茶でも淹れてくると言って出ていった。廊下を足音が遠ざかっていく。この冬、中里が海に行きたがるか、貝殻拾いを続けるかどうかは、今はまだ分からない。たまには手ぶらで行くのも悪くないのかもしれないと思った。きっとそれは、一緒にゆっくり決めれば良い。


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