あいしています
夏目シロ
麗衣
麗衣は、自宅へ帰るための電車に乗りながら、つくづく自分の夫、信孝は愚かなやつだと苦笑した。浮気相手と会うことになるたびに、「今日、残業で遅くなる。」と何度目かわからぬ嘘のメッセージを送っていたが、何の疑いをかける様子もなく、「お疲れ様。それじゃ先にご飯食べてるね。」というメッセージを返してくるのだ。笑うしかない。お人好しなのか、よっぽど麗衣に関心がなくなってしまったのかのどちらかだと思った。そう考えると少し胸が痛んだ。
「今日も楽しかったよ。」
しかし、浮気相手である上司からのメッセージを読むと、胸の痛みも忘れて、私もとても楽しいひと時だったと思うことができたのだった。
信孝とは、麗衣が前の彼氏と別れた後に、友人に勧められたマッチングアプリで知り合った。なぜ信孝を選んだのか自分でもよくわかなかったが、プロフィールのページに載っていた、自分で育てているという花がとても綺麗であったことが印象に残ったのを覚えている。年収がいいとか、容姿端麗であるとかそういったところに惹かれたわけではなく、一緒にいてなんとなく落ち着く。そういう相手だった。麗衣が、今まで付き合ってきた相手は、容姿がよく、自信家で、女性との会話に慣れているタイプが多かったが、信孝は決してそのようなタイプではなく、地味で物静かだった。その代わり、麗衣の話を丁寧に聞いてくれ、楽しそうにしたり、困ったりした顔を見せてくれたことがとても嬉しく思っていた。そして、不思議とこれまでの相手とは違う安心感を得られたというとことから、結婚するならかえってそういう相手の方がいいかと思い、交際して1年後に信孝のプロポーズを受け入れて結婚した。
だが、結婚して一緒に住むようになってから、信孝は徐々に麗衣の話を聞いてくれなくなっていった。もともとそんなに会話が好きなタイプではないと、麗衣も分かっていたつもりだったが、話を聞くのは好きな方だと感じていた。だが、麗衣が話している時の信孝の相槌が適当なものになっていき、しまいにはスマホをいじりながら話を聞くようになっていってしまった。
「そんなにスマホいじるのが好きなの?」
と、いうと麗衣と目線を合わせずに部屋に戻っていってしまっていた。何がよくないのかわからず、会話を控えるようにしようと思ったが、そのせいで夫婦間の会話はほとんどなくなってしまった。次第に、信孝に対する感情は愛情よりも憎しみのほうが勝っていくようになった。
麗衣は、そんな悩みを、職場の男の上司に話した。普段からよく面倒をみてもらっている人だった。上司は、親身になって話を聞いてくれた。
「古川さんは悪くないよ。」
カフェでいつものように信孝の相談にのってもらっているとき、そう言って、上司は麗衣の手を自分の手で包み込んだ。薄々そんな関係になってしまうのではないかという予感が麗衣にはあった。一線を越えれば、いよいよ信孝との関係が破綻することは分かっていた。
しかし、麗衣は上司の手を振りほどくことができなかった。信孝に愛されていないかもしれないという不安から、誰かにこの寂しさを埋めてほしいと願っていた。こうなったのは信孝のせいだと言い聞かせることで罪悪感を薄めさせ、麗衣は上司の手を握り返した。それから2人が深い関係になるのに時間はかからなかった。
電車を降りた麗衣は、信孝の待つ家に帰らなければならないことが億劫だった。信孝との結婚生活はもう冷え切っている。できればもっと上司と一緒に過ごしていたいという気持ちのほうが強くなっていたが、離婚するとなれば自分の分が悪い。このままばれないように関係を続けていくほうがいいと思っていた。信孝とまともに話したのはいつだったろうと思った時に、2人でベランダの花を眺めていた時のことを思い出した。その時も会話はほとんどなかったが、その2人の時間が愛おしく思えたのだった。しかし、もうだいぶ前のことのように思えた。麗衣は、上司へメッセージを送るためにスマホを手に取った。
「次いつ会おうか。」
歩きながらスマホでそうメッセージを打っていた時、交差点に差し掛かっていたことを麗衣は失認していた。車のライトとクラクションの音ではっと顔をあげようとした時には、重い衝撃を受けて宙を舞い、アスファルトの上へと落下していった。
(なんか暗いな。)
意識を失っていた麗衣が気づいた時には、辺りを暗闇が覆っていた。ここはどこだろうと周囲を見渡そうとしたが、体がガチガチに固まってしまったようで全く動かない。目も開いているのか閉じているのかわからなかった。音もない。息はできているような気がしていたが、いつもとは違うところから空気が入ってきているように感じていた。感覚としてあるのは、暖かさで、生暖かく体全体を包んでいることだけがわかっていた。
(何?どうなってるの?誰か!)
次第に恐怖心が沸き上がってきた麗衣は、声を出そうとしたがそれも出ない。意識的に口を動かそうとしたが、口を動かしている感覚が全くなかった。自分の意識だけが、抜き身で何もない空間に放り出されているとでもいえようか。手も足もどこかに伸ばそうという意識は働いているが、石か何か他のものに「動いてくれ。」と念じ続けているようなもので、自分ではどうにもできなかった。
麗衣は、この状況に陥る前に何が起きたのかに思いを巡らせた。
(そうだ、車に轢かれたんだ・・・・・・)
身体に重い衝撃を感じて、ぶわっと空中に投げ出された感覚。そしてアスファルトの地面に叩きつけられた痛み。ぞっとしたのと同時に、
(私、死んだものかも・・・・・・。)
と、冷たい現実に直面し、絶望した。人は死んだら天国か地獄に行くとはよく言われていることではあるが、ここが死んだ後の世界なのかもしれないと思った。音も光もない、ただほんのりと暖かさを感じるだけの世界。恐らく自分は今、いわゆる魂だけになっていて、体はもう存在していないのかもしれなかった。あるのは、自分の意識とどこまでも続く闇の世界だけだ。ここで自分は、仏教でいうところの生まれ変わる時まで待っていなければならないのだろうか?いったいいつまでこんな何もない無の世界にいるしかないのだろうか?はっきりと今の状況を説明してくれるものは誰もいない。麗衣は、どんどん落ち着かなくなっていった。
(私はいつまでこうしていればいいの?)
もしかしたら何十年、何百年とこの状態で過ごさなければならないのかもしれないと思うと気が狂いそうで、どうすることがいいのかもよくわからなかった。
(お願い!誰かいてよ!)
叫ぼうにも体がないのだから、念じるしかなかった。強く念じれば同じ境遇に陥った誰かがそばに来てくれるのかもしれないと思った。死後の世界なら、神様でも天使でもいてほしいと思ったが、そのような存在の気配は全く感じなかった。
(誰か・・・・・・誰か!)
しかし、何遍も何遍も念じ続けたが、何も変化はなかった。ただ、闇だけがそこにあった。
何も変化はない。どこまでも暗い空間が広がっているだけだった。
(信孝・・・・・・!)
心が壊れてしまいそうになった時に、咄嗟に浮かんだのは、憎しみさえ向けていた夫の名前だった。
(信孝・・・・・・信孝!)
体があるのなら、涙がとめどなく流れていたであろう。声が出たのならかれるほどに叫んでいただろう。麗衣は、繰り返し繰り返し信孝の名前を念じ続けた。
(ごめんなさい、ごめんなさい信孝・・・・・・!ごめんなさい!)
次第にそれは、自らの罪を懺悔する言葉へと変わっていった。
(お願い、助けて信孝!)
そして、救いを求める言葉へとなった。
それから、どれだけ時間が経ったのかもうわからなくなっていた。
目の前に広がる闇と孤独から逃げるように、麗衣は、妄想の中で過ごしていた。妄想の中にいることで、光や色や、音、匂いまでも感じることができるように思えていた。
『信孝、今日も一緒に散歩しよう。』
妄想の中では、もっぱら信孝と一緒に過ごしていた。その中で信孝と手をつないで、花がいっぱい咲いた公園を歩くのが好きだった。菜の花や、ネモフィラ、チューリップ、ダリアなどが季節に関係なく咲き乱れている中を歩き、花に囲まれたベンチに座る。
『麗衣さん、愛してるよ。』
信孝は、そこで麗衣に愛を囁き、そのまま抱くのだった。実際に信孝からそう言われることは、ほとんどなかった。しかし、一番言って欲しい言葉でもあった。この言葉があれば、浮気をすることもなかったのかもしれないとも思っていた。自分勝手ではある。しかし、こんなにも麗衣は信孝から愛されたかったということだった。
同じ妄想を反復していくことで、信孝の声や体温がより鮮明になり、自分が今は無の空間にいるという感覚は徐々に失われて始めていた。麗衣は、信孝に愛されているという多幸感に包まれていった。
(痛っ!)
信孝との妄想に浸っていた時に、麗衣は、急に痛みを感じた。体はなくなってしまったのかもしれないと思っていたが、確かに存在はしていたらしい。自分は死んだはずではなかったのかと思ったが、そんなことに思考を巡らせている余裕などないほどに体中が痛んだ。
(痛い痛い痛い痛い!)
やがて、体のどこかが裂けるような壮絶な痛みが走った。今度こそ本当に死んでしまうのではないかと思ったが、そうはならず、自分は相変わらず闇の中にいるだけだった。
その後は、それほどではないにしても、断続的に鈍い痛みが続いた。何とか我慢できる痛みではあるが、不快なことは変わらない。また、信孝の妄想にふけることで気を紛らわそうと思ったが、時々痛みが強くなることもあり、前ほど妄想に没頭できなくなってしまった。
更に時間が経過すると寒さを感じるようになった。時間帯によっては暖かくなる時もあったが、圧倒的に寒い時間のほうが長かった。
(寒いよ。辛いよ・・・・・・。)
信孝のことを思い出してももうどうにもならないことはとっくにわかっていた。しかし、気を紛らわせるための拠り所を彼に求めていた。再び、体を引き裂かれるような痛みを感じた後、麗衣は、もう何も考えられなくなっていた。ぼんやりと植物にでもなったかのように漂っているだけのような状態になった。
また、途方もなく時が過ぎたのか刹那のことであったのかもわからない頃に、ふわりと体が宙に浮く感覚がした。そして、体中を心地よい暖かさが包み込み、麗衣は正常な意識を取り戻した。
(気持ちいい・・・・・・。それにどこか懐かしい。)
反射的に信孝なの?と思った。
(信孝?)
言葉を口にできない自分がもどかしかった。どうにかして思いを伝えようとしても叶わず、悲しくなってしまった。
(信孝?どこ?)
そう心で呟くと、また暖かいものに包まれていくような感覚が起きた。優しくどこか甘美で、うっとりとその感覚に身をゆだねた。瞬間、理解した。
(信孝だ。そこにいてくれるのね。)
(信孝、愛してる。)
すると、周囲がようやく待ち焦がれていた柔らかい光で包まれていき、麗衣は、ほっとしながら意識を手放していった。これで、闇から救われるのだと思うと、それはえも言われぬ幸福な瞬間だった。信孝は、確かにそこにいたのだと麗衣は信じていた。
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