第44話 「ピロートークは保健室で」
特別棟の一階廊下を歩いていた。
消毒液の匂いが漂う部屋の奥、白いカーテンの向こうにいる女の子に会うために。
「露草、来たぞー」
保健室の扉をノックするけど無反応。
電話をかけてみても無反応。
あれ? もしかして全部夢だった? と疑いたくなるほどに無反応。
両頬をパチパチ叩くと、ちゃんと痛い。いやいや全部現実だから大丈夫だ、と自分の言い聞かせる。
扉を開けて保健室に入る。奥の白いカーテンは開いていて、ベッドの上にいる露草は毛布を被っていた。
「なんで来たんだ?」
「露草の夢を叶えるために」
「普通、振った相手に会いに来ないだろ」
「四年来の付き合いだろ、僕ら」
「振った相手に言うことじゃないだろ」
「ぜーんぶ何もなかったです、夢オチでしたー。ってならないのか」
「夢を見てるときだって時間は経過してるんだよ。何もなかったことになるわけないだろ」
「それもそうか」
もし全部なかったことになったら、恋したことも、仲良くなったことも、お別れしたことも……そんなの虚しいに決まってる。
「で、ボクの夢を叶えることと、その大量のパンはどう繋がるんだ?」
「深瀬先輩は露草の願望だから、やりたかったのかと思って」
抱えていたパンを机の上に広げた。その数、ざっと十個。
「とは言っても、加減ってものがあるだろうに」
僕だってそう思う、さすがに買い過ぎた。
二人分とはいえ多いのは見なくても分かる。
もぞもぞとベッドの縁に腰掛ける露草の格好は以前と違っていた。
ワイシャツのボタンは全て閉じられていて、靴下もきちんと履いている。色素の薄い髪も寝ぐせ一つ付いてなくて、文字通り身なりが整っていた。
「今日は、ちゃんとした格好してるんだな」
僕は露草の隣に座る。
「浅葱が気にすると言っていたからな」
「なんで来た、とか言ったわりには僕のこと待ってたのか」
「は⁉ あ、いや、そういうわけじゃ」
視線を泳がせ、早口で否定する。
それは照れ隠しのようにしか見えなかった。だって顔は真っ赤だし、声は裏返ってるし、もうそうとしか思えない。
「露草、可愛くなったな」
「はあぁぁ⁉ なんでそんなこと言うんだ!」
真っ赤だった顔をさらに赤くする。熱したての鉄みたいに肌色の部分なんて微塵もなくなってしまうくらいに。
両手で顔を覆って、僕に見られないように抵抗する。
「事実を端的に言っただけだ」
「ボクを押し倒そうとでも思っているのか?」
「僕はそんなことしない。少なくとも学校では」
「意外だな。君はもっと我慢が聞かない人だと思っていた」
「恥じらいの大切さを分かっていない奴に覆いかぶさったって意味ないだろう」
「今まさに、恥じらっているだろう!」
露草は声を張る。
僕だって口では余裕そうな言ったけど、内心バクバクだ。
ちょっと前までは特に何とも思わなかったけれど、今はもう緊張して仕方がない。
「浅葱くん、ぼーっとしてるけど大丈夫?」
「え?」
「仕返し」
露草が意地悪な笑い方をする。似てるも何も、あんたが正体だろ……まあ、懐かしい気持ちになったけどさ。
「深瀬先輩として接してほしいのなら、そうしますけど?」
「いや、一線を置かれているようでむずがゆいから遠慮するよ」
露草は居心地が悪そうに頬を掻いた。
こう見ると顔とか全然違うのに、思考とか行動が似ている部分があったなーとか思う。むしろ、よくあれだけ悟られない人物を作り上げたな。
それほど露草が夢に固執していたということなんだろうけれど。
「て、いうか何で僕だったんだ?」
「何が?」
「青春を送りたいだけなら、もっと別の相手で良かったじゃないか。それとも知り合いの方がやりやすかったのか?」
からかいたかった、というのは言い訳にしか思えなかったし。正直、僕である必要なくない?
それこそ湊とかイケメンだし、舞ちゃんがいるから女の子の扱い上手だ。そもそも深瀬藍として僕よりも良い男を捕まえるのだって出来ただろう。いや、この考えは自分にダメージがくるからやめよう。
「僕である必要性が分からなくて」
「君は乙女心という物が分からないみたいだな」
露草は大きなため息をついた。
「保健室に引きこもってる変わり者を除け者にすることなく口うるさく世話を焼き、冗談を叩き合える相手がどれほど大きい存在だったか想像も出来ないのかね?」
「ようは、どういうこと?」
「なんで浅葱は変なところで鈍いんだ?」
自分が鈍いってことは深瀬先輩と関わった時に痛感したけど、そんな改めて言われるほどなのだろうか。
「なんでって言われても、分からなかったものは分からなかったし」
「浅葱はやっぱり鈍いんだな」
「どういうことだ?」
「浅葱はボクにとってのヒーローだってこと」
「王子様みたいだったってこと?」
「そこまでは言ってない」
露草の色素の薄い髪がわずかに揺れた。表情を見られないように顔を背けるも、耳が真っ赤なことはバレバレだ。
僕は伝えたいことを言うために口を開いた。
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