第13話 「最初からいなかったみたいに」
振り返ると深瀬先輩が立っていた。でも、明らかに様子がおかしかった。
「やー、藍。元気―?」
ひらひらと手を振るランさんに、先輩は鋭い視線を向ける。
いつもの天真爛漫さも、卒業式で見た妖しさもない、見たことがない顔をしていた。焦燥と戸惑い、若干の苛立ちが混ざったような表情。
僕は先輩の今の感情を表せる言葉を持ち合わせていない。
「質問に答えてよ」
捲し立てるように言う先輩に、
「あとで会いに行くって言ったじゃーん」
なんて、ランさんは呑気な声で返す。
「なんでこんな時間にいるの?」
「どうせなら様子を見ておこーと思ってね」
「私はそんなの頼んでない」
「そんな冷たいこと言わないでさー。夢見心地はどーだい?」
「浅葱くんの前で、そんなこと言わないで」
「え? 君が浅葱くん?」
ランさんはきょとんとした顔を僕に向ける。あ、そういえば僕、自己紹介してなかったな。
「そうですけど」
「へー、まさかこんな偶然があるとは」
僕の顔をまじまじと見た後、ニタァッと口角を上げた。
「もしかしてさ、君があたしの店に来たのって藍について?」
「え? まあ……平たく言えば」
「やめてよ!」
深瀬先輩が声を荒げた、僕の言葉を遮るように。
聞きたくないというように、両耳を手で塞ぐ。
その場でしゃがみ込み、視線を地面に落とす。
「やめてよ、やめてよ、やめてよ。なんで、なんで、なんで、なんで、なんで?」
ぶつぶつと呪詛のように呟く。壊れかけのパソコンみたいに、エラーを吐いてロードが上手くいかないみたいに。
「なんでよ」
その声は合図のようだった。
深瀬先輩の姿が揺らめく。蜃気楼みたいに。
そして、数秒も経たずに消えた。テレビの電源を消したみたいに、プツンと。
「え! せ、先輩……?」
嘘みたいに消え失せた。
体も、声も、香りも残さずに。
まるで最初からいなかったみたいに。
「消え、え、どこに? なんで? どういうこと?」
訳が分からない。
目の前で人が消えた。
そう認識した瞬間、ゾッとした悪寒が全身を駆け巡る。
現実じゃありえない出来事に脳の処理が追い付かない。頭の中をハテナマークが覆いつくす。
「あー、覚めちゃったか」
ランさんは呑気な声で言った。焦ってる様子は微塵もなかった。まるで何回も見てるみたいな反応が恐ろしくなった。
なんで顔色一つ変えないんだ。
なんで戸惑いの色一つも見せないんだ。
全部、訳が分からなかった。
「先輩、なにが、なんで? 消えて、いなくなって」
蛇に睨まれた蛙のように、身体がピクリとも動かない。得体の知れない緊張感が僕の身体を覆いつくして、指の先からじわじわと体温を奪っていく。
呼吸の仕方さえ、忘れそうになる。
そういう類の怖さが、僕の心の奥まで侵入してきた。
「浅葱くん、落ち着きな。ほーら深呼吸して。吸って―吐いてー。はい一緒に吸ってー吐いてー」
言われるがままに従う。脳に酸素が送られて幾分思考がマシになる。
「なんで、先輩、消えたんですか?」
たどたどしい日本語で僕は尋ねる。
「藍の目が覚めた。びっくりしたんだろうねー、あたしらが一緒にいたから」
流暢な日本語でランさんが答える。
「覚めた、とは?」
「え? 藍から聞いてないの?」
そこで初めて、ランさんは焦ったような様子を見せた。
「なにが、ですか?」
ランさんの顔が露骨に歪む。
何を考えているのかも、どんな感情が彼女の中で渦巻いているのかも検討がつかない。
「言っとけって念押ししたのになー」
吐き捨てるように呟いた。
「あの、一体何が」
「まーいいや」
僕の声なんて聞こえてないみたいだった。
先輩が目の前から消えてしまったよりも気にかかる何かが僕の言葉の中にあったのだろうか。
「藍は夢を見てるんだ」
「夢……」
「そー、あたしはそれを手伝ってる」
いつもみたいに呑気な声で言う。
「消えた、のは?」
「あー、安心していーよ。明日には戻るだろーから。でも、今日は無理だろうから帰った方が良いよ」
「目の前であんなことが起こって帰れませんよ」
聞きたいことが山ほどあった。
知りたいことが溢れてた。
多分、足を突っ込んではいけないパンドラの箱だって第六感が警告を鳴らす。
嫌な汗が背中から噴き出していてシャツがべっとりと貼りついている。正直、恐怖は残っているし脳の理解だって追い付いていない。
けれども、ここで帰る理由には足りなかった。
「あのさー、これは提案じゃないんだよ」
ランさんの声がピリついた。
「だとしても、何の説明もなしに納得なんて出来ません」
「説明しても浅葱くんに出来ることはないんだよ」
「そうだとしても……!」
このまま何も知らずに帰ったら、先輩を置いていったみたいに思えた。
「藍の為にもさー、頼むよ」
「嫌です」
「藍の名前を出してもダメー?」
「ダメです」
僕はランさんの目をじっと見つめた、絶対に帰らないぞって伝えるために。
無言で僕らは目を合わせ続けた。
それがどのくらいの時間かは分からない。数十秒なのか、数分なのか、一切分からない。
先に口を開いたのはランさんだった。
「君って意外と頑固だねー」
「そうでもないですよ」
「自覚ないのかー」
ランさんは大げさにため息をついた。
観念したというような声で、
「分かった分かった、教えてあげる。でも、場所は変えさせてもらうよ」
と言うと、踵を返して歩き始める。
僕はランさんの後ろをついていく。
先輩のことを知るために。
この時の僕は知らなかったけど、この選択は間違っていたのかもしれない。
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