第11話 「『あーん』はハチミツの味」
「はい、あーん」
今、僕の目の前には千切られたハニートーストが差し出されている。しかも、絶賛片想い中の先輩の手によって。
拒否する理由なんてない。けれど、僕の口は開かれていなかった。
嫌とかじゃない。嫌ではないけど、やりたくはない。
こっぱずかしいって感情が正解に近い。誰に見られているとか問題じゃない。僕の男としてのプライド的な話だ。
「嫌だった?」
「いえ、むしろ大歓迎です」
しかし、深瀬先輩にそんなことを言われてしまったら受け入れるしかない。僕のプライドが崩壊するのはベルリンの壁よりも容易い。
先輩の細い指に触れないように、慎重にパンを咥える。
咀嚼し飲み込む。
「美味しい?」
「甘いです」
味もシチュエーションも。
むせかえるほどに、溶けてしまいそうなほどに。僕にとっては喉に突っかかるくらい濃厚だった。
「ならよかった」
「ごちそうさまでした」
と伝えると、
「デザートをご所望かな?」
と、先輩は、小さな手提げカバンからミニドーナツが詰まった袋を取り出す。
「もう入りません」
「甘いものは別腹っていうでしょ」
「だから別腹にさっきのが詰まってるんですって」
「丑年の意地を見せるんだ」
「丑年じゃないです。先輩と一つ違いなんですから酉年です」
「あれ?」
「ていうか、丑年だったら何ですか?」
「牛って胃が八個あるらしいから……」
「僕は人間なので」
というか、丑年生まれだとしても、その理屈は無茶過ぎる。それが通ってしまっては日本人の十二人に一人がフードファイターになっていることだろう。
「牛つながりで聞きたいんだけどさ、シャチ見たことある?」
「どこにつながりがあるんですか?」
「海牛って、海棲の大型哺乳類って意味なんだよ」
「へー、意外と物知りなんですね」
「意外とは失礼だね! で、シャチ見たことあるの?」
つい数十秒前に丑年の人ならたくさん食べられる理論を展開してた人物が? というツッコミをカフェオレと一緒に飲み込む。
「ありますよ、小学生の遠足の時ですけど」
確か一年生の時だから……ちょうど十年前だ。遠足バスに乗って鴨川シーワールドへ行って、クラスで回ってお弁当を食べた覚えがある。
「私、シャチ見たことないんだよね」
「へー、そんな人いるんですか」
千葉県の大抵の小学生は一年生とか二年生の時の遠足で行くものだと思っていたけれど、そうでもないらしい。
「え、そんな必修科目みたいな扱いなの?」
「いや、僕の周りは全員そうだったので、ちょっと意外だなって思っただけです」
「へぇ、そんな感じなんだ」
そういうと最後の一口になっていたハニートーストをごくんと飲み込んだ。口ぶり的に、先輩は千葉県で育っていないのかと思いきや、日本で一番有名なレッサーパンダの名を呼んだ。
「あ、でも私は風太くんには会いに行ったよ」
「千葉動物公園のですよね」
立ち上がることで一世を風靡したレッサーパンダ。結局、レッサーパンダは皆立てると知られることにもなるのだけれど、当時の賑わいといったら凄かった。確か今は風太君の子供だか孫も立ってるとか立ってないとかニュースでやっていた気がする。
「そうそう、結局立ってるところ見られなかったけれど」
「僕は見ましたよ」
「え! いつ?」
「うーんと、確か小二だったから……九年前?」
「良いなぁ良いなぁ、両方見たの良いなぁ」
「もうほとんど覚えてないですよ?」
「それでも見たって事実は残ってるじゃん」
「まあ、そう言われてしまうと……」
覚えてないけど集合写真は残っているし、卒アルにも数枚だけ張られている。確かに、行ったという事実は意外に大事かもしれない。
「ねぇ、鴨川シーワールドってシャチのショーがあるんだよね?」
「ありますね」
「パクッと食べられないのかな?」
「そういう訓練してんじゃないですかね?」
シャチって頭が良いらしいし、僕らには想像が付かない訓練を積んでいるのではないだろうか。
「一体、何人の飼育員さんが犠牲になったのだろう」
「犠牲者が出ていたらショーなんてやりませんよ」
「そうかな?」
なぜそこを疑うのか。
「そうじゃなかったら大事故ですよ」
「いやぁ~私は隠ぺいしていると思うね」
この人はそんなに犠牲者を出したいのか。シャチトレーナーにただならぬ恨みでも持ち合わせているのだろうか。
まあ、ふふんと胸を張る先輩は可愛かった。
キーンコーンカーンコーン。
「おわ、もうこんな時間」
「予鈴鳴りましたね」
「まだ話し足りないのに」
先輩は残念そうに肩を落とす。短い黒髪が寂しそうに揺れた。
でも、ここにいるわけにはいかない。五分後には授業が始まってしまう。
「ねぇ、またサボっちゃう?」
甘い誘惑を口にする。
あの日みたいに妖しい声で、余裕たっぷりの笑みを浮かべて。
「怒られますよ?」
「浅葱くんは真面目だなぁ」
卒業式は教師にバレていなかったけれども、授業じゃ一発アウトだろう。六百人が集まる体育館と、四十人の教室を同じにしてはいけない。
とまあ、こんなことを言ってはいるが、女の子から「話したりない」だの「サボっちゃう」だのと伝えられて嬉しくない男などいない。
僕だって、もちろん例外ではない。
「それなら、一緒に帰りましょうよ」
「本当?」
パアッと表情が一気に明るくなる。例えるならヒマワリの笑顔、天使の微笑み。やっぱり可愛い。
「校門で待ってますから」
「えへへ、あの時とは逆だね」
深瀬先輩は嬉しそうに笑ってた。
数時間後、この時の笑顔は呆気なく枯れてしまうとは知らずに。
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