第2話
「別に、ずっと離れてるけど」
「離れないで。そばにいて」
彼女の頬が赤くなる。
それは僕を意識してるってこと?
触れようと伸ばした手は、やっぱり払われた。
「触ったら、もう口利かないって言ったよね」
「はい。ごめんなさい。もうしません」
「そうだ。いずみのことも触らないで。約束。絶対触らない」
「さっきのは、僕から触ってない」
「そうだけど、そうじゃなくて。これから触らないっていう、約束」
「約束する」
そう言って彼女は、岸田くんといずみの見ている前で、また小指を差し出すから、それに触るのはいいみたいだ。
僕は奏のマネをして同じように小指を差し出すと、彼女はそこに自分の指を絡める。
「ね、ちゃんと約束したところ、岸田くんといずみも見てるからね」
「うん。奏との約束は、絶対守るよ」
僕は隣で聞いている、びくびくしているいずみに向かい合う。
「僕からは、絶対触らない」
いずみはそれでも困ったようにモジモジしていたけど、岸田くんにコツリと肘でつつかれ、ようやくうなずいた。
「わ、分かった。ちゃんとするから。私も」
「うん」
きっと人間は、誰かとお友達になるときには、こういうお約束が一つ一つ必要なのかもしれない。
僕とみんなの前で約束したいずみは、大きく息を一つ吐き出したあとで、ようやく肩の力を抜いた。
覚悟を決めたように僕を見上げる。
「はい。これが筋トレメニュー」
人の体のを動かす向きと、その回数を説明した紙を渡される。
僕だけ他のみんなとは違うメニューを、いずみが見ている前でやれということみたいだった。
「いたずらするなよ」っていう言葉を残して、岸田くんと奏は行ってしまう。
「人間って、これをやらないと泳げるようにならないってこと?」
水泳部のみんなは、ずっと筋トレをやっている。
だからきっと、泳ぎたいと思う人間が泳げるようになるには、こういう準備が必要なんだ。
「……。まぁ、そういうことかな」
「いずみはやらないんだ」
「私はマネージャーだから」
彼女はまだ肌寒い曇り空の下で、もじもじと黄色い長い髪をかきあげた。
「いずみは、泳げるようにはなりたくないってこと?」
「そういうことじゃない」
「元々泳げないとか」
「そういうことでもない」
「じゃあなんで、いずみはみんなと一緒に……」
「もう! そういうことはどうでもいいから!」
彼女は唐突に怒り始めた。
「さっさと始めなさいよ!」
いずみのことは、よく分からないけど、僕は奏と約束したから、約束した通りに彼女の言うことを聞いて、他の人とは違うことを始める。
僕のために用意したというだけあって、今までのよりかはずっと楽にやれるようになった。
ちゃんと奏や岸田くんのことを、信じてよかった。
なんだ。
やっぱり人間も、約束は守ってくれるんだ。
海の仲間は人間なんて信じるなってずっと言ってたけど、そうじゃなかったよ。
いずみは僕が一人で筋トレをやってる横で、ぼんやりと他のみんなの様子を見ている。
彼女の視線は、どうやらずっとサラサラした茶色い髪の、背の高い岸田くんに注がれているみたいだった。
「岸田くんのことが気になるの?」
いずみも、岸田くんのことが好きなんだ。
「別に。あんたには関係ないし」
「まぁ、そうだけどさ」
その彼女の視界にはいつも岸田くんがいて、そして奏もいる。
「奏のことも好きなんだ」
いずみはまた突然キッとなって、僕を振り返った。
「あんたと一緒にしないでくれる?」
「一緒じゃないよ。僕といずみは違うもの。ずっと奏を見てるから、奏のことが好きなのかなーって」
「あぁ、もう! あんたとは話しが通じない!」
僕だって、別に奏に言われなかったら、仲良くするつもりなんてなかったし……。
「見張ってろって岸田くんに言われたから、あんたを見てるだけなんだけど。さっさとその紙の一番からやって」
彼女に言われて、渡された紙に視線を戻す。
さっきまでやってたんだけど。
うん。
まぁそれはもう一回くらいやるけどさ。
僕が紙の指示に従って、また同じように体を動かしている間、やっぱりいずみは僕の方なんて見ていなかった。
彼女の視線の先にあるのは岸田くんだ。
僕はその隣にいる奏を見ている。
そういう意味では、いずみと僕は似ているのかもしれない。
奏と岸田くんは、同じ部活の部長でリーダーだから、いつもだいたい一緒にいて、二人で色んなことを相談して決めている。
奏が彼を見つめる目は、とてもキラキラして輝いていて、それはそれは楽しくて仕方がないみたいだ。
「ふふ。奏は本当に、水泳部が好きなんだね」
「あんたは奏が好きなんでしょう」
「うん。そうだよ」
冬の夕暮れは驚くほど早くて、辺りはもう簡単に暗くなり始めている。
「奏はあんたのこと、何とも思ってないよ。奏が好きなのは、岸田くんだし」
そんなことを言ういずみの横顔を見ながら、そういえばこの子は、あの時奏と一緒にいて、海に落ちてきた子だなーとか、思い出したりなんかしている。
「知ってるよ。僕も岸田くん好きだし」
「あんたって、やっぱりバカだよね」
「そんなことを言う、いずみのことも好きだよ。だって奏と約束したから」
「うざ」
校庭にぽつりと立つ外灯に灯りがついて、その灯りの下で並んで縁石に腰掛けていたいずみは、自分の膝を抱え丸くなった。
彼女はぼそりとつぶやく。
「奏と友達でいいんだ。奏と本当に、友達やれんの?」
「やれるよ。ちゃんと約束守っていれば、お友達でいてくれるって」
「へー。お友達なんだ。よかったね。奏とお友達でいいんだ」
「……。奏が、いずみとも友達になれって」
「あー。もういいよ。私がバカだった。そういうのいらないから、黙ってさっさと筋トレやって」
僕は奏に言われた通り、紙に書いてある通りのことをやる。
正直つまらないし、面白くもない。
奏はどうして、こんなことが楽しいんだろう。
だけど奏が好きなんだったら、僕もこれを好きにならなくちゃ。
ちゃんと奏と、同じようにやれるようにならないと。
そんな僕に、いずみはボソリとつぶやく。
「奏はさ、岸田くんのこと、好きだよ」
「知ってるって言った。だから僕も好き」
だから奏は、僕にも岸田くんと仲良くするように言ったんだ。
いつも奏から岸田くんに話しかけるのは、そういうことだから。
「正気?」
「しょうきって?」
「あー。そうか。分かった。あんたの『好き』って、そういう『好き』なんだ」
彼女は呆れたように頭をボリボリ掻いた。
「くだらない。ま、好きにすれば? 私には関係ないし」
もちろんいずみには、一切関係のない話しだ。
だから彼女には何を言われても、どう思われても平気だし。
そんなことより、奏の好きなものがまた一つ知れてよかった。
「岸田くん、本当にかっこいいよね」
「……。そうだね」
外灯の灯りの下で、膝を抱えたいずみの頬が、わずかに赤らむ。
それはまるで、奏がそうなった時と同じだ。
「いずみも、岸田くんが好きなの?」
「うん」
「そっか。じゃあみんな一緒だね」
「そうだね」
それから僕といずみは、真面目に筋トレを始めた。
いずみがあれこれ言ってくれるアドバイスはとても的確で、なるほど海から地上に上がってきたばかりの僕には、これは本当に必要なことだったとちゃんと思えた。
いずみはきっと、陸で暮らすためではなく、泳ぐためのアドバイスとして言ってるんだろうけど。
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