第5章 第1話

 学校には僕は相変わらず一番に登校して、自分の席に座っている。

他にすることもないし、奏の姿を少しでも長く見ていたいから。

それなのになぜかお昼休みには、岸田くんのつくる教室での群れの仲間に入れられてしまった。


「だから宮野はさぁ、なんで飯くわねぇの?」


 だけどここは水泳部ではないから、岸田くんは比較的大人しくしている。

人間というのは、時間と場所によって群れるメンバーが異なり、その中での役割も変わるのだと知った。


「どれもマズい。口に合わない」

「お前、今までどういう暮らししてきたんだよ」

「どうって……」


 そんなことを聞かれても、話せることは少ないし、話す気もない。

陸で手に入る魚はどれも生臭いし、変な切られ方をしている。

そもそも死んだ魚を並べられても、食べようという気にならない。

くらげも細切れだし、口に入れていいと思えるのは海藻とアサリくらいだ。


「肉食え、肉!」

「肉ねぇ……」


 結局、以前岸田くんにもらったゼリーが、のどごしがよくて味にクセもなく、そればかりを腹に入れている。

他のモノにはチャレンジする勇気もなければ、興味も引かれない。


「そんなんじゃあ、丈夫な体になれねぇぞ」


 バシンと背中を叩かれる。

口にくわえていたゼリーのパックを、落としそうになった。

なんだかすっかり口に馴染んでしまって離せなくなったそれを、口元でゆらゆらさせながら、教室の向こうにいる奏を見ている。

岸田くんは、そんな僕を見ながら言った。


「今日の部活も筋トレだからな。黙ってちゃんとやれよ」


 真冬の雲はゆっくりと灰色の空を流れてゆき、日差しに温かさの気配が宿り始めていた。

プール周りに植えられた背の低い木にも、活動の兆しを感じる。

岸田くんの宣言通り、プールの更衣室から出てきた僕に、奏と黄色い長い髪の女の子が近づいてきた。


「ね。宮野くん。いずみが宮野くんのための筋トレメニューを考えてきてくれたよ」

「いずみって?」

「うちのマネージャーよ。いい加減、他のメンバーの名前も覚えてくんない?」


 午後の薄曇りの中で、一瞬さした光りが奏と黄色い長い髪の女の子を照らす。

彼女の名前は「いずみ」。覚えた。


「宮野くんは柔軟は問題ないけど、体力ないから。ほら、これがそのメニュー表とチェックリスト。スマホで動画見られるでしょ?」


 奏はいずみに僕と話すよう促しているみたいだけど、そのいずみの方はあまり乗り気ではないみたいだ。

ムスッとしたまま、こっちを見ようともしない。

僕は気にせず奏に答える。


「スマホって?」

「鞄は?」

「置いて来た。教室」

「あぁ。分かった。もういいよ。あとはいずみから聞いて。ちゃんといずみの言うこと聞くんだよ」


 せっかく奏の方から声をかけてきてくれたのに、もう行ってしまう。

本当は追いかけて行きたいけど、僕は奏との約束をちゃんと守ると決めているので、そうはしない。

少し離れたところにたたずむ、黄色い長い髪の女の子を振り返る。

奏に仲良くしろって言われたから、そうするだけ。

彼女はうつむいたまま、怯えたようにちらちらと僕を見ていた。


「いずみっていうの?」


 彼女はビクリと体を震わせてから、ゆっくりとうなずく。


「よろしくね」


 そう言うと、彼女はギュッと固く口を結んだまま、視線を左右に泳がせた。

彼女が何かしゃべるのを待っていたけど、何にもしゃべりたくないらしい。


「ねぇ。それを見せてくれるんじゃないの?」


 彼女の抱える小さな板には、奏の説明していた紙がある。

僕はそれを見せてもらおうと、彼女に近寄った。


「いやっ!」


 ドンっと押しのけられ、地面に尻もちをつく。

痛い。

だからさ、僕のお尻は出来たてほやほやなんだから、もう少し大切に扱ってほしいんだけど。


「宮野! いずみに何をした!」


 彼女の叫び声を聞いた岸田くんが飛んでくる。

彼女は彼の背にパッと隠れた。


「何にもしてないよ! てゆーか、僕が突き飛ばされたんだけど」

「ご、ごめん……」


 黄色い長い髪のいずみは、岸田くんの後ろでこそっとつぶやく。


「ちょ、ちょっと、あのヒトが怖かっただけだから……」

「いずみ。お前、こっち来い」


 岸田くんに連れられ、彼女は学校の縁に沿って植えられている木の方へ行ってしまった。

僕は痛むお尻をさすりながら立ち上がる。

奏がやって来て、僕を見上げた。


「私、ちゃんと見てたよ。宮野くん、何もしてなかった。いずみが急に突き飛ばしただけだよね」

「奏が分かってくれてるんだったら、それでいい」


 そう。奏以外のことなんて、どうだっていい。

他のことは全て、なんだっていい。

その髪に触れたい。手を握りたい。

だけど彼女は、今は真剣な目で僕を見上げているから、その黒い目をじっと見つめ返す。


「大丈夫だよ。私が後で……。ちゃんとあの二人に言っておくから」


 静かに微笑んで、彼女はうつむく。

その視線はなんだか寂しそうに、ゆっくりとこちらに背を向けている二人に向かう。

岸田くんはいずみの肩に腕を回し、親しげに額を寄せ合い、黄色い長い髪の女の子と何かを相談してるみたいだ。


「いいな。いずみがうらやましい」


 まだ肌寒い曇り空が、そのまま奏を取り込んでしまったみたいだ。

彼女のそんな顔を、初めてみた。


「私なのかなーって思ってた時期もあったけど、そうじゃなかったみたい」

「あの二人は、仲良しなんだね」

「そうかな。そうでもないと思うけど」


 奏の目は、じっと二人の背中を追っている。

いずみが岸田くんになにかを言って、彼の手が彼女の頭をくしゃりと撫でた。


「別に。岸田くんは……。普通にああいうことが、誰にでも出来ちゃう人だから」

「奏は、あれがしてほしいの? 岸田くんが、いずみにしたみたいに」


 奏が寂しそうにそう言うから、僕がやってあげる。

僕は岸田くんのマネをして彼女の肩に腕を回し、額を寄せその短いクセのある髪に指を絡める。


「こんな感じ?」

「だからさぁ! それがやりすぎだって言ってんの!」


 パシリと手を払われる。

突然の奏の大声に、岸田くんといずみが振り返った。


「ねぇ、ちょっと聞いて!」


 彼女はすぐさま岸田くんに駆け寄る。

いずみの肩に回っていた彼の手が解かれ、その腕はだらりと垂れ下がった。

奏はその彼の腕に触れる。


 ここからは少し遠くて、奏が岸田くんに何を言っているのかまでは聞こえない。

だけど、彼に一生懸命何かを訴える彼女の目には、岸田くん以外見えていないようだ。

岸田くんは彼がさっきまでいずみにやっていたのと同じように、そしてそれはさっき僕がやったのとも同じように、彼女の頭を撫でた。

それを奏は、今度は嫌がりもせず、されるがままに許している。

僕の中で、何か知らないものがドロリと動いた。

息が苦しい。

体の内側から黒くドロリとしたモノが湧き上がる。

こんな体の重みを、海にいた時には一度だって感じたことはなかった。

吐き気がする。

気持ち悪い。


 岸田くんは、さっきまでいずみにしていたのと同じように、奏の肩に腕を回す。

奏に何かをささやくと、今度はすぐにそれを外した。

僕の中で、その何かが怒りとしてはっきりと自覚される。

僕はいま、腹を立てているんだ。

何に対して? 

奏に対して? 


「かなでー! こっち戻って来てー! 早くー」


 三人の視線が、僕に集まった。

みんな何事かって顔してる。


「かなでー! すぐ来てー!」


 奏だけを呼んだつもりだったのに、岸田くんといずみもついてきた。


「なに? どうしたの?」


 奏は一番に僕に声をかけてくれる。

僕は奏を、誰にもとられたくない。


「奏が僕から離れたから」

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