第11話 わたくしの望みはただひとつ!
「そうか。では引き続いてこちらの婚姻誓紙に署名を………………は?」
脇に控えた侍従長が捧げ持つ婚姻誓紙を受け取ろうとして、時が止まったのではないかと錯覚するほど、マインラートの動きが止まった。彼だけではなく侍従長も、周りの人々も今聞いた言葉が信じられないようで、広間はシーンと静まり返った。
「い、今、なんと…………?」
「お断りします、と申しあげましたわ」
混乱した顔で二度聞きしてくるので、アンジェリーナはもう一度言ってやった。聞き取れなかったなら何度でもお伝え致しますわよ、とダメを押すことも忘れなかった。
周囲から起こった小さなどよめきは、あっという間に火がつき膨らんで、会場全体が異様な雰囲気を醸し出してゆく。
その渦中に取り残されたふたりは対象的だった。
ひとりは混乱し、ひとりは平然としている。
「な、何故…………なぜだ」
跪いたまま立ち上がることもできずに、マインラートがようやくそれだけを問うてきた。
「そうですわね、ひと言で言うなら『萎えた』というところでしょうか」
「な、萎えた……だと!?」
小さく悲鳴が上がったのは、招待客からか、それとも給仕役のメイドからか。
マインラートが、ようやく事態を飲み込んだのか怒気を発し始めていて、それが周囲にも伝わったのだ。
「ええそうよ。だからはっきりと申し上げますわ。
わたくし、アンジェリーナ・グロウスターは今日この場限りを持ちまして、マインラート・フォン・フォーエンツェルン・ブロイス皇弟殿下との婚約を破棄致しますわ!」
アンジェリーナは掴まれたままの手を振り払い、一歩下がって高らかに宣言した。仁王立ちになり、傲然と胸を張って、彼を見下ろしながら指を突き付けて。
「アンジェリーナ………………」
ゆらりと立ち上がりながら、マインラートは目の前の女に呼びかけた。その背からどす黒いオーラのようなものが立ち上っているように見えて、もう見るまでもなく激怒しているのが分かる。
それはそうだろう。人生の絶頂たる晴れ舞台を、よりにもよって自ら見初めた婚約者に台無しにされたのだから。誇り高き帝国皇族のメンツ丸潰れにも程がある。
「一度は赦そう、アンジェリーナ」
努めて怒声を抑えながら彼は言う。
「今ならまだ間に合うぞ。大人しく余に跪いて許しを請え。
そうすれば今の不敬は不問にしてやろう」
あらあら一人称まで変わってますわよ。
そう思いながらアンジェリーナは返事もせずに、口の中で小さく詠唱を始める。こんなに怒った彼は見たことがないし、正直空恐ろしくもあったが、こうなることは当初から織り込み済みだ。
「
「何をブツブツ言っている。返事はどうした」
「
カッと見開いたアンジェリーナの瞳が虹色の光彩を帯び、全身から黒、青、赤、黄、白の五色に彩られた膨大な
それを見逃さず、彼女は人類には到底反応できないほどのスピードで彼の方へと左脚を大きく踏み込み距離を詰めた。左足のヒールが砕け、踏み込んだ爪先の下の大理石の床には蜘蛛の巣状に亀裂が走る。
誰も反応できないまま、彼女は右足を高く蹴り上げて振り抜いた。豪奢な朱色のスカートがふわりと花開き、スラリと伸びた右脚が美しい円弧を描きながら、彼女の目線より高いマインラートの左側頭部を襲う。その足の甲は狙い違わずに彼の左のこめかみを精確に捉え、そして吹っ飛ばした。
「なっ⸺!」
「きゃあああ!」
周囲から悲鳴が上がる。華奢で美しく荒事などまるで似合わなさそうに見える“婚約者”が、鍛え抜かれた帝国皇族をただ一蹴りで圧倒したのだから無理もない。
「ぐっ……、き、貴様……!」
「あら、あれで気絶しないとは流石ですね殿下」
「お前は!自分が今何をやっているか解っているのだろうな!?」
「もちろん、殿下を足蹴に致しましたわ」
「
壁際まで吹っ飛ばされたマインラートが壁に手をつき、身体を支えながらよろよろと立ち上がる。それを見ながらアンジェリーナは余裕の笑みだ。
「乱心も何も。貴方様はわたくしを満足させることが出来なかった、ただそれだけの話ですわ。お怒りになるのでしたら不甲斐ないご自身にお怒りになればよろしくてよ?」
「欲しいものは何でも与えると約束したであろうが!富も栄誉も地位も何もかも、余に大人しく従っておれば思いのままだというのに!それを⸺」
「そんなもの要りません」
「な、何……?」
「わたくしの望みはただひとつ!」
アンジェリーナは再び彼に指を突きつける。
「それはわたくしの心の赴くままに、自由に生きること!貴方様に囲われて縛られるだけの生活のどこに、そんなものがあるというのです!」
場内は再びシーンと静まり返った。マインラートでさえ予想だにしなかった返答に言葉を失くしている。
会場のどこかで「あー、それは無理ですわね」とサーヤが呟くのが聞こえた。
「貴族に生まれて…………」
マインラートの肩がぶるぶると震える。怒りの沸点はとうに過ぎ、もはや抑え込むのも無理そうなほどに怒り狂っている。
「そんなものが、そんな我儘が通ると思うな!国のために、生家と婚家のために尽くすのが貴族というものだろうが!」
「通りますわよ、通しましたもの」
それを通すために、そのために〈賢者の学院〉で席次を得るほど頑張ったのだ。そして家族にも、女王にも筋を通して、許されたからこそ彼女は今まで自由に生きてきたのだ。
だから他国の皇族と言えどもその権利を侵すことは許さない。この世の誰にも、たとえ神々であろうとも彼女は縛られない。縛らせない。
それが彼女の唯一の望みなのだから。
「というわけで、貴方様が何を仰ろうとも無駄でございます。そもそも
「……随分と余裕だな」
「それはそうですとも。今のわたくしは
「な、なに…………?」
いくら何でも学院の席次持ち程度の実力で勇者を超える実力など得られる訳がない。そもそも勇者レギーナと言えばアンジェリーナの前年度、つまり672年度の“力の塔”首席である。本来なら13席に過ぎない彼女が勝てるはずのない相手だ。
だがアンジェリーナの余裕の態度、それに彼女の身を包む濃密な魔力がその言葉を如実に裏付ける。
「魔術か……!」
「種明かしを所望されても無理ですわ」
「くっ、取り押さえろ!」
怒りに顔を歪ませたマインラートがアンジェリーナを指差し、会場警護の騎士たちが殺到してくる。
彼我の実力差が分からぬでもないだろうに、主命に逆らえないのはいっそ哀れですらある。
だから彼女は、優しくそっと触れるように、なるべく傷も後遺症も残らぬように、彼らのうなじを手刀で軽く叩いて全員の意識を刈り取って回った。一瞬のうちに全てを終え、崩れ落ち倒れ伏してゆく騎士たちの只中にひとり立ってなお平然と胸を張る彼女の姿に、さすがのマインラートも驚きを禁じ得ない。
だが、この場には少なくとももうひとり、彼女に対抗できそうな実力者が残っている。
「サーヤ!」
そう、学院の首席卒塔者のサーヤだ。彼女は知識の塔、つまり魔術師養成コースを首席で卒塔した、西方世界でも屈指の大魔術師である。力の塔、つまり王侯の帝王学と力の使い方を専門に学ぶコースの13席に過ぎないアンジェリーナ以上の実力者のはずだった。
「嫌ですわよ」
だがその彼女は即答で拒否した。
「それとも来賓の皆様を全員巻き込んで亡きものになさりたいのかしら、
知識の塔の首席と力の塔の席次持ちとがまともに戦えば、その場に居合わせた者が無事でいられる保証などないのだ。互いが本気でやり合えばそれこそ周りを気にする余裕などないし、そうなると周囲の者は自力で身を守るしかないが、生き延びるためには少なくとも同等クラスの実力が必要であろう。
そしてこの場にいる
「だいたい、縁戚と言っても他国人のサーヤちゃんに命令できるとでもお思いで?ちょっとそれは傲慢じゃありませんこと?」
「そもそも今お姉様がお使いの術式はわたくしが組み上げたもの。すでに発動している以上はわたくしでもどうにもなりませんわ」
「なっ、なんだと!?」
「いやー、あの時卒塔祝いってことでお願いして組んでもらっといてホント良かったよ。発動させたのは
「お褒めにあずかり光栄ですわ、お姉様」
ふたりしてころころと笑い合う乙女たちを、マインラートは呆然と眺めるしかない。
「くっ、お前が組んだのならお前も使えるはずだろう!?」
「確かに使えますけれど、剣術も体術もまるで素養のないわたくしが使ったところで、“力の塔”のお姉様に対抗できるわけありませんわよ
「ぐっ……!」
「さて、それではわたくしはそろそろお暇致しますわ。これ以上場の雰囲気を荒らすのも本意ではありませんし、あとは皆様ごゆるりとお愉しみ下さいませ」
今さら雰囲気も何もあったものではないのだが、それでもアンジェリーナはそう嘯いて優雅にカーテシーを決めてみせた。左のヒールは跡形もなくなっていたからバランスなど取れるはずもなかったが、彼女は何食わぬ顔で爪先だけで立ち、姿勢を僅かにも狂わすことがなかった。
そしてアンジェリーナが姿勢を戻した瞬間、シャンデリアの魔術灯が一斉に消えた。シャンデリアだけでなく壁面のそれも、テーブル上の燭台タイプのそれも、ひとつ残らず全て消えた。
たちまち会場は闇に呑まれた。夜会、つまり夜なのだから当然である。残る光源は、窓から差し込む
「皆様身動きなさいますな!動かなければ危険はありませんわ!」
「サーヤちゃんナイスフォロー!」
オーロラの仕掛けを知っているわけでもなかろうに、サーヤが的確なアドバイスをいち早く会場に叫んだため、思わずアンジェリーナは褒め称えた。そしてそのまま誰にも追随できないスピードで窓に駆け寄った彼女は、素早く窓を開いてバルコニーに出ると、そのまま手すりを飛び越えて地上へと身を踊らせた。
「それでは皆様
「何をしている、追え⸺!」
会場ではマインラートの怒声が聞こえていたが、警護の人員はさっき彼女が全て眠らせたばかりだ。だから彼女を追う者は誰ひとりいなかった。
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