第9話 プロポーズ

 気付けば、アンジェリーナがハノヴェル城に来てからひと月あまりが経過していた。あの時ストーン侯爵の私設騎士団から逃げてそのまま行方不明扱いになっているかも知れないと思って、オーロラに自分の近況を女王や家族に伝えさせていたから心配はなかったが、あまり長居するのもよろしくない気がする。

 というか、何だか上手いこと彼の思惑に絡めとられている気がして仕方ない。何となく後ろ髪を引かれて立ち去り難く思ってしまっているあたり、もう結構重症のような気がしなくもない。


 アンジェリーナは騎士たちに混じって鍛錬に参加するようになった。今までこんなに長い期間何もしない生活をしたことがなかったし、動かさなければ身体は鈍るから、いつでも逃走できるようにするためにも身体のキレは維持しておかなければならない。

 それに動いていれば気も紛れるし、余計なことを考えずに済む。

 侍女や使用人たちは決まって「そんなことをなさらずとも……」と苦言したいようだったが、今までの習慣を変えたくないのだと言って誤魔化しておいた。



 困ったのは騎士たちである。マインラートの城にいる騎士団には女性が所属しておらず、だからむさ苦しい男所帯だったのに、そこに突然紅一点が現れたのだ。

 しかもそれは彼らの主の想い人である。うっかり触れるのはもちろん、異性に対する目で見ることさえ憚られるのだ。


 しかも彼女、本人は全く自覚がなさそうだがなかなかの美女である。夜闇を糸にしたような濡れ羽色の黒髪は陽の光を反射すれば藍や紫にも見えるし、多少伸びてきたとはいえ活動的に短く纏められていてよく似合っている。琥珀色の瞳は理知的な輝きを含み、全てのものを見通すかのようなその深遠さは見つめられると引き込まれそうだ。

 細いながらもよく鍛えられた手足も腰もスラリと伸びてしなやかで、造形美のみならず躍動美も強く感じさせる。その洗練された一挙手一投足は、鍛えた騎士たちの目から見ても思わず見惚れるほど美しかった。

 しかもそれでいて、彼女は魔術の能力も非常に高い。ソロ冒険者だと聞いてはいたが、剣術も魔術も体術も非常に高いレベルで纏まっていて、騎士団の中でもまともにやり合えるのは上位の数人だけだった。〈賢者の学院〉各塔の卒塔上位20名ずつまでしか与えられない席次持ちだというのも聞いてはいたが、実際相対してみてこれほどのものかと舌を巻いたものである。


 なのに当の彼女はそんなことお構い無しで、ともすれば模擬剣の打ち合いに留まらず素手の組手まで要求してくるものだから、さすがに逃げ回るしかない。仰せに従わなければ主の将来の妃に不敬を働くことにもなりかねないし、かと言って親しく会話したり触れ合ったりすると主の機嫌を損ねて鍛錬メニューが倍になる。

 そうして結局、困り果てた騎士団長から「お願いですからご容赦下さいませ」と頭を下げられ、アンジェリーナは訓練場から締め出された。



「だからさあ、訓練に参加させて欲しいんだけど」


 執務室まで乗り込んできて、アンタから言ってやってよ、と言いたそうなアンジェリーナの顔を見てマインラートはため息をついた。彼女が参加すると団員たちが動揺してまともに訓練にならない、と団長に泣きつかれて彼女を出禁にすることを許可したばかりである。だからいくら彼女のお願いでも、聞き届けてやるわけにはいかない。


「まあそう言うな。あ奴らはああ見えて朴訥で初心な奴らばかりでな。お前みたいな美人には免疫がないのだ」

「び、美人……!?」


 言われ慣れない言葉がイケメンの口から飛び出したことに、アンジェリーナは目に見えて動揺した。

 いやそれ誰のこと!?確かに侍女たちみんな可愛いけど、彼女たちのことじゃないよね!?


「お前のことだ、と言っているだろう」


 思わずキョロキョロと辺りを見回しているアンジェリーナに、そう言いながらマインラートが立ち上がる。


「え………え?」


「お前は美しい。容姿もさることながら内面からにじみ出る人柄、活発で快活な立ち居振る舞い、朗らかでよく笑うその表情」


 目の前に立たれて、雷に打たれたようにアンジェリーナの動きが止まる。


「いやそんな、何言って……」

「そして何より美しいのは、学院で席次を得るほどのその知性だ」


 彼の手がソファに座ったままのアンジェリーナの髪に触れる。

 彼女は石化したように固まってしまって動かない。


「その全てが、どこを取っても私の妃に相応しい」


 腰を屈めて彼が顔を近づけてきても、彼女は逃げることもできない。甘く囁かれる言葉に動揺し混乱し、どんどんアップになる凛々しい顔から視線が外せない。顔にかかる吐息までが甘やかしい。

 もはや自覚するほど真っ赤になった彼女を見て、彼がフッと微笑う。その朱色の瞳にさえ甘さを感じて、もはや彼女はどうしていいか分からない。


「だからお前はもう、これ以上鍛える必要などない」


 ………………え?


「お前のことは何があっても私が守る。だからどうか、私にお前を守らせて欲しい。お前はただ、私の傍にいてくれるだけでいい。それ以外に何もする必要はないし、そうすれば望むものは何でも与えよう」


 彼女は固まったまま動かない。

 今言われた言葉を必死に反芻して理解しようとするので精一杯である。


 マインラートが彼女の前に跪いた。

 彼女の手を取り、その甲にキスを落とす。


「私と結婚して欲しい。一生幸せにすると約束する」


 そして彼は、彼女の瞳を真っすぐ見つめて、確かにそう告げたのだった。



  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇



 言われた!

 言われちゃったよあのマインに!

 結婚しよう、って!


 どうしよう、マジどうしよう!

 嬉しいんだけど!超嬉しいんだけど!

 しかも私のこと「美しい」だって!


 なにこれマジで現実なの!?

 夢じゃなくて!?

 夢なら醒めろ、今すぐ醒めろ!

 糠喜びなんてまっぴらだっつーの!



 夢見心地で戻った自室のベッドの上で、うつ伏せのまま足をバタつかせて悶絶するアンジェリーナである。


 もう自分の心に嘘をつくことができなかった。

 好き。彼が好き。

 淡かった気持ちは今やはっきりと輪郭を持って、彼女の心の真ん中にどっかりと居場所を確保していた。


 ああ。なんて幸せ。

 好きな人から結婚を申し込まれるって、こんなに幸せなことだったんだ。

 さすがにこれは前世でも経験したことがなかったから、文字通り正真正銘、彼女にとって初めてのプロポーズだった。


 その幸せを噛み締めながら、仰向けに転がって枕を胸に抱きつつニヤニヤと反芻する。何度思い返しても良き。嬉しい。愛しい。幸せ。

 すき。


「お嬢様、お顔がとんでもない事になってます」


 いつの間にかベッドの傍に跪いていたオーロラが半目でそんな事を呟いてるが、構うものか。オーロラ以外に見られるのはさすがに恥ずいけど、てかマインにだけは絶対見せられないけど、誰もいない・・・・・この部屋の中でくらいいいじゃんか!


「いえ、ですから私がいるんですが」

「いーの!」

「そのみっともないデレデレ顔を見せられる私の身にもなって下さい」


「…………もー。いいじゃないちょっとくらい」


 やがて、文句を言いながら渋々アンジェリーナは身を起こした。

 ベッドの脇で傅いている隠密侍女の方に顔を向ける。オーロラは真剣な表情のみをもってそれに応えた。


 どうやら、きちんと・・・・気付かれている・・・・・・・ようだ。

 本当によく気のつく、できた侍女だ。


 アンジェリーナはそのまま、再びベッドに身を倒した。

 見上げた天井は、この1ヶ月ですっかり見慣れてしまった。ベッドのすぐ右手にある採光のよい大きな窓も、それを飾る豪奢なカーテンも、天井から下がる魔術灯のシャンデリアも、クローゼットも化粧台も、トイレも湯場バスルームも朝食室も食堂もリビングもお茶室もテラスも庭もすっかり馴染んで。

 彼と一緒の朝食もいつの間にか慣れてしまった。もう彼抜きの朝食は少し寂しく感じるほどだ。


『お前はもう、これ以上鍛える必要などない』

『お前はただ、私の傍にいてくれるだけでいい』

『私と結婚して欲しい』


 彼の言葉が、次々と脳裏に蘇る。



 ⸺ああ、そうか。

 そうなんだ。

 私の心は、そう望んだ・・・・・のか。



 そして彼女は覚悟を決めた。

 決めるまでにモラトリアムが欲しくてウダウダとオーロラに甘えていたのに、彼女が甘えさせてくれなかったのだから仕方ない、などと自分に言い訳をしながら、彼女は再び身を起こした。

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