第2話

今年の夏休み、父が死んだ。

交通事故だった。

男手一つで自分を育ててくれた父は、いつも優しかった。

子どもの頃は回りの大人に、片親で大変だとか、お母さんがいなくて可哀想だとか、色々な同情を受けていたが別に気にしたこともなかった。

というのも、随分前に母が亡くなってから、父が一生懸命に私を育ててくれたのを私自身が知っていたから。

そんな父がそうやってあっけなく死んでから、それからあんまり考える事ができなくなった。

葬儀やら掃除やら、この先どうやって生きていくかなど、考える余地がなかった。

ただ、莫大な喪失感だけが残ってこの先の未来を考えることができなくなった。


そんな葵を父の妹しずえは、ずっと気にかけて色々と世話をしてくれた。

父が死んで、ずいぶん経って葵が少し落ち着いた時しずえは、自分と一緒に暮らさないかと葵に提案した。

まだ大人でない少女がこれから一人で生きていくには残酷すぎる未来だと、しずえは心配した。


だが、葵は一人でアパートに住むことを決めた。

しずえにこれ以上迷惑をかけたくない、17歳の決断だった。

しずえは、葵の決断を聞いて最初は渋ったが、結局それを許してくれてから、アパート探しの手伝いや最初の諸経費を賄ってくれた。

そうしてしずえと部屋を決め、荷造りやらなんやらやらが終わって夜を迎えた。

「葵ちゃんならきっとやれる。何かあったら私にいつでも電話して」

玄関口で、しずえは葵をまっすぐ見ながらそう言った。

葵もしずえを見て、大丈夫と言って笑った。


しずえが帰り、そうやってやっと一人になった部屋で、葵は泣いた。

止めようにも止められなくて、一晩中、枕に声を押し付けながら泣いた。

なんで私だけがこんな辛い目に会わなきゃいけないのか、どうして私なんだ、もういっそ死んでしまおうか、お父さんとお母さんに、会いたい。

抑えきれない感情を枕に押し付けながら、顔がぐちゃぐちゃになるまで泣いた。

葵は、自分の人生を呪った。



それから1瞬間後、夏休みが終わり学校が始まった。

担任の斎藤は葵の状況を把握していて、声をかけてきた。

「葵さん、何かあったら色々相談してね」

「ありがとうございます」

もう、葵は平気だった。

平気だ、と思うことで悲しいことは全部過去に置いてきた。

夏休み明けの一日は新鮮で、皆がまた学校での毎日を取り戻していく中で、葵もそうした。

葵自身、部活に所属していないのもあってそんなに友達が多い方ではなかったが、2、3人の友達とはずっと仲良くしていた。

ただ今は友達がいないと、ついに一人ぼっちになってしまいそうでとても怖かった。


帰りのホームルーム、斎藤は名指しで、葵に放課後残るように言った。

放課後、皆がいなくなった教室で葵と斎藤だけが残った。

「先生、どうしたんですか」

開口一番、葵は声のトーンをあげてそう言った。

斎藤は少し躊躇った後、葵さん、無理してない?と聞いてきた。

「全然無理なんてしてないですよ」

葵が笑ってそう言っても、反対に斎藤の表情は硬いままだった。

「葵さん、あなた今、感情が爆発しそうなのを必死に抑えてるでしょ」

「だからそんなことないですって」

もう一回葵は笑って見せた。

斎藤はそんな葵の目をまっすぐに見た。

「葵さん、聞いて。10代のこの時期に色々ため込んだものって、将来それよりもっと大きくなって襲ってくるの」

「へー」

葵は、わざと気の抜けた返事をした。

何も知らないくせに、ずっと自分を諭してくる斎藤を葵は少し鬱陶しく感じた。

「先生、もう帰ってもいいですか?」

葵は少し投げやりに言うと斎藤は、ちょっと待って、と言って教壇の上にあった一枚の紙を持って葵に見せてきた。

「なんですか、これ」

「なんだと思う?」

その紙には「夜空観測同好会」とカラフルなゴシック体の文字が大きくあって、その下に夜空を星が流れるイラストがプリントされていた。

どうやら、掲示板の前に貼ってある部活勧誘みたいなものだった。

「部活、ですか?」

「みたいなもんだね。正式には同好会。私が請け負っているの」

斎藤は続けて、入ってみない?と聞いてきた。

「私、別に夜空とか星とか興味ないですよ」

「それでもいいの、一回見に来るだけでもいい」

斎藤は少し笑って、興味があったらと葵に紙を渡した。

葵が受け取ったのを確認してから斎藤はやっと教室を出た。

「別に興味ないって」

どっかのゴミ箱にくしゃくしゃにして入れるか迷ったが、とりあえずバッグにしまってその日は教室を後にした。


次の日も、また同じような日を送った。

友達と喋って昼食を食べる。

日々に変化はなかったが、友達がいる安心感はあった。

放課後友達に、この後みんなで一緒に遊ぼうと誘われた。

遊びたかったが、用事があるからと断った。

実際は用事などなかったが、嘘をついた。

葵は、放課後までも友達と遊んで楽しむ、という気持ちにはなれなかった。


その日の帰りのホームルームが終わり、友達やクラスメイトは部活やら遊びやらでどんどんと教室を出て行って、やがて全員いなくなった。

気づいたら、教室に葵は一人になっていた。

ただ机や椅子が並ぶ無骨な教室は酷いがらんどうに見えた。

「よし、帰ろう」

葵は一人で呟いて席を立とうしたが、上手く立てなかった。

いくら立とうと頑張ってみても、力が入らなかった。

「どうした葵、ほら立つ」

葵は自分を鼓舞した。

転んだ時にすぐ手を差し伸べてくれる父に頼らないよう、昔からいつも自分自身に唱えていた言葉だ。

だが、それでも一向に力が入らなかった。


すると急に、このままずっとここに取り残されるような、そんな感覚に襲われた。

皆が自分を置いていく感覚。酷く痛くて辛い感覚だった。

「やめて」

気づいたら涙が出てきた。

意味がわからない。意味がわからないまま、涙が止まらなかった。

「私を置いていかないで」

不安や恐怖や悲しみが一斉に襲ってきて、葵はそのまま絶叫した。

ただ、葵の喚き泣く声だけが教室に響いた。


しばらく経って、ふと葵はバッグに昨日のまま入っていた紙を取り出した。

夜空観測同好会。

子どもっぽい星のイラストが、少し楽しげに見える。

昨日から、結局捨てずに残したままだった。

部室、207教室と小さい文字であった。

斎藤の昨日の言葉が頭の中で反芻した。

涙で濡れた頬が、まだ冷たいのを感じた。

遊び半分で、葵は部室に行くことにした。

もう一度力を入れて見ると、今度はひょいと立ち上がることができた。

207教室は、旧校舎の方だった。

新しく作り直した新校舎と、創立当初からずっとある旧校舎は外通路で繋がれていて、正直旧校舎の方に行く機会は図書館やパソコン室をたまに授業で使うぐらいで、今まであまりなかった。

バッグをもって207教室に向かった。


扉の前に着くと、意を決して葵はノックをした。

中の反応の様子がない。

「誰かいますか」

葵がそう扉の前で言っても、返事はなかった。

扉に鍵がかかっている様子はなかったが、ドアノブ下のモザイク鏡から中に段ボールみたいなものが見えて、扉が開くのを防ぐ重しみたいだった。

試しに扉をグッと押してみると少しだけ段ボールがずれて、もう少し力をかければ開けられるようだった。

「重しの意味ないじゃん」

葵はグッと力を込めその勢いのまま扉を開けた。

パッと視界が開けた。

6畳半ぐらいの、こじんまりとした正方形の部室。

両脇に高い本棚があって、真ん中には茶色の長細いパイプ机があった。

そして、そのパイプ椅子に座って一人スマホをいじっている男と目が合った。

子どもっぽい顔に、不釣り合いの背の高さ、わざとらしく目つきを悪くするその男。

「蓮見、君?」

「え、なんでいるの」

目を丸く大きくして驚いている男は、葵と同じクラスの蓮見だった。

何が起こってるんだ、と言わんばかりに蓮見は葵をジッと見つめた。

「蓮見君、だよね。私、同じクラスの」

「いや、それは知ってるけど」

葵は、だよねと笑って誤魔化してみても、蓮見はまだ困惑していた。

「ここ、夜空観測同好会だよね?」

葵が自然な流れでそう聞くと、蓮見は途端に苦虫を嚙み潰したような顔をした。

「あの人、言わないって言ってたのに」

蓮見はそう呟いて、なんできたの?と続けた。

蓮見の声のトーンは落ち、葵を威嚇するような声色になった。

「斎藤先生に来てみたらって言われたから」

そんな蓮見に、葵も負けじと言い返した。

「星に興味あるの?」

蓮見の問いに、葵は、ない。と言い切ると、次はその表情まで少し怒った顔になった。

「ないんだったら、ここ来てもなんの意味もないけど」

その後蓮見は、はあ、とわざと溜息までつくようにみせてきた。

わざとらしく自分を挑発する蓮見の様子に、終始和やかにしていた葵も我慢できなくなった。

「なに、じゃあ初心者は来たらダメってこと?斎藤先生はそんなこと言ってなかったけど」

「別にそこまでいってるわけじゃないよ」

「じゃあどこまで言ってるの」

今まで、学校でこんな感情を向きだしてみることなんてなかったが、今は次々と言葉が出てきた。


あのさ、まず僕が聞いてるのは、と蓮見が言いかけたところで、葵の背後の扉がゴッと音をたてて開いた。

「あれ、葵さん、今日きたんだ」

扉を開けて出てきた斎藤は、葵の背に向かってそう言った。

「斎藤先生、同好会のこと、他の人には極力言わないってことでしたよね」

斎藤に問い詰めるように、蓮見はそう言う。

斎藤は、まあいいじゃないと蓮見をなだめるようにした後、葵に、とりあえず座って座って、とパイプ椅子に座るよう促してきた。

蓮見に向かい合うように、葵は斎藤の隣に座った。

「そういえば、部員の説明は紙になかったよね。ごめんなさいね」

斎藤は続けて、夜空観測同好会に興味湧いた?と葵の方を向いて聞いた。

「いや、今きたばっかりなのでなんとも」

「そっか。じゃあまだわかんないよね」

斎藤はそう言うと、蓮見の方を見た。

「夜空観測同好会の説明をしてあげて」

「え?僕が説明するんですか」

蓮見はそれまでの不機嫌そうな表情から一転、困惑した顔になった。

「そりゃそうよ。唯一の同好会メンバーは君なんだから」

えー、とまたわざとらしく蓮見は葵の方を見て言ってみせた。

葵も何か言ってやろうと思ったが、斎藤先生の前だからそれもできない。

まあ、と前置きをしてから蓮見は続けた。

「夜空観測同好会は、星を調べたり、星の科学的な現象なんかを研究したりする同好会です」

蓮見はそれだけ言って、もう終わろうした。

「それは建前でしょ?」

斎藤は蓮見を笑うように言った。

蓮見は斎藤を少し睨み、また続ける。

「というのは建前で、そんなことをしたりもしますが、メインは学校の屋上で星を観測します」

葵は思わず、え?という声を挙げた。

「校舎の屋上って、立ち入り禁止じゃないんですか?」

葵はそう言って、斎藤を見た。

斎藤は、わざとらしく声をひそめた様子で、学校には秘密ね、と言った。

「こんなこと、まだ入ることも決まっていない人に言っていいんですか?」

蓮見は、二人の様子を見て間を破るようにしてきた。

「葵さんは信用してるから大丈夫」

斎藤は続けて、葵を見た。

「今日、この後予定ある?」

葵は、特にないですけど、と言うと斎藤はニヤっと笑った。

「今日ね、この後一応帰ってもらって、20時くらいになったらまた部室に来て。私は残ってるから、3人で屋上に行って星を観測しましょう」

斎藤はいたずらに笑った後、そう言って蓮見に、いいよね?と確認した。

「まぁここまで言っちゃったし、いいですよ」

蓮見もやっと少し不機嫌だった様子が戻った。

「じゃあ今日の20時、学校に集合だ」

一人盛り上がる斎藤は、じゃあ仕事済ませてくるからと言って、出て行ってしまった。



「斎藤先生、あんな人だったっけ?」

葵が椅子についたままそう呟けば、まぁここではいつもあんな感じ、と蓮見が返した。

「というか、夜はどうやって学校に入るの?」

葵がそう言うと、蓮見は、右の本棚の横にかかっていた木材の鍵掛けを指差した。

「旧校舎の裏口が鍵がそこにある。僕は20時より前に先に入ってそこの鍵開けとくから、勝手に入ってきて」

蓮見はそう言った後、そろそろ下校時間やばいと思うけど、と葵とスマホを交互に見た。

「ほんとじゃん」

葵は急いで立ち上がって、扉の前で振り返った。

「今日、よろしく」

葵はちょっとばかりの不機嫌を詰め込んでそう言うと、蓮見は、はいはいよろしくと返してきた。

葵はそのまま、下駄箱まで少し走った。

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