絶望の中の元英雄
第3話 暗闇の中のスタート
コツ、コツ……
静かな廊下に、靴の音が響き渡る。数ある部屋の前を通りすぎ、私は『熊谷(くまがい)』と書かれたネームプレートがかけてある部屋の前に立つ。
心臓が、飛び出しそうなくらいにドクドク言っている。
「……ふー」
軽く深呼吸。それから白い扉に手をかけ、横へとずらす。ガララ……と音が鳴るものの、なるべく音が鳴らないよう慎重に開き、入室。その後後ろ手で、そっと扉を閉める。
抱えた花束を落とさないように、両手でしっかりと持ち直す。渇いた喉を、唾を呑み込むことでなんとか潤す。バクバクとうるさい心臓……胸に手を当て、そっと再び深呼吸。落ち着け、私。
それから、ゆっくりと足を進める。
病院独特の薬品のにおいが、鼻をつく。そう、ここは病院……その一角にある病室だ。
私が足を進めた先には、一つのベッドがある。そしてそこには、一人の女性が横たわっている。腕には点滴を刺され、見るからに衰弱した、痩せこけた女性。
目はうつろで、頬はこけ、肌も白くなっていて……健康時のそれとは程遠い。かすかに胸が上下してるのが、その人が自分で呼吸をして生きていることを証明していた。
けどそれも、いつ人工呼吸器に変わるかわからない、危ういものだ。
「……来たよ、お母さん」
その女性に、私は声をかける。目の前で弱っている女性は……私の母親だ。
まだ耳は働いているのか、声の主を探すように、光の失った目を動かし、視線をさ迷わせる。私がそっと、体を近づけると同時、動かすのもつらいであろうお母さんの手がゆっくりと伸びていき……
「……あん、ず。よく、きたね……」
……ベッドの端に置いてあった人形を手に取り、優しく語りかけた。その表情は、まさに母が子に向けるものそのものだ。
その人形は、私が小さな頃に大事にしていた人形だ。もう高校生だというのに、そんな昔のものを大事に残していて……今は、その人形を私だと思っている。
私が大事にしていた人形に、「あんず、あんず」と私の名前を呼びかけ、嬉しそうに笑っている。本来ならばショッキングなその光景も、私にはもう見慣れたものだ。
だから私は、ベッドの近くの棚に目を移す。そこに、持参した花瓶を置き、持ってきた花を差す。もうすでに一つ、花瓶はあり、そこに花も差されている。なのに私は、花と、持参した花瓶を毎回、そこに置く。
「お母さん、今日は調子よさそうだね。安心したよ」
「ふふ、あんずが、来てくれたから、ねぇ……その制服、にあって、るよ」
こうやって意思の疎通ができ、一応会話が成立するのも調子のいい証だ。お母さんが話しかけているのが私で、私が学校の制服を着ていたならば、それはさらに喜ぶべきことだ。
お母さんは相変わらず人形に話しかけているし、私は制服ですらなく私服だ。私の頭だと思い込み人形の頭を撫でるその光景は、おそらく幼い私によくしていたものなんだろうと思う。
それでも、今日はいつもに比べれば調子がいいのだ。
「今日はねえ、あことお父さんのお墓参りに行ってきたよ」
花の手入れを終え、備え付けのパイプ椅子に座る。今日の出来事……
それを理解しているかはわからなくても、私は日々の出来事を語りかける。それが、きっと一番いいことだと思うから。
「あ、そうそう。駅前にクレープ屋が出来たんだって! お母さんが退院したら、食べに行こうよ!」
「そうねぇ、あんずは、昔から……まっちゃの、あいす好きだったもんねぇ……」
「あはは、やだなお母さん、アイスじゃなくてクレープだって! それに、抹茶が好きだったのはあこじゃん」
「そう、だったねぇ……そういえば、きょう、あこは一緒じゃあないの?」
「あこは……もう……あこ、は…………っく……」
伝わらない会話に、もうあこがいない事実すら忘れているお母さんの言葉に、頬をあたたかいものが伝う。ダメだ、泣いちゃ……ダメ、なのに。
お母さんがこんなことになってしまったのは、私のせいだ。あことお父さんが死んでしまったのは、私のせいだ。だから、私が泣く資格なんてないのに……!
「ごめ……ごめんね……ぇ……」
意識せず、私の口からは謝罪の言葉が漏れる。スカートを握る手にも、自然と力が入る。涙が目からこぼれ落ち、スカートを濡らしていく。
せめて声をあげることは、しない。唇を噛み、声を圧し殺し、涙を見せないためにうつむく。震える肩は、どうしてもおさまってくれない。
本来ならば、ここに私がいること自体、許されないことなのかもしれない。それでも、私は……こうして、話しかけている。
「……ぐすっ。……また、来るね。お母さん」
涙を拭い、席を立つ。そして、お母さんのその姿を最後に、私は病室を出て……
ガラッ
「……なにを、してるの? あなた」
……病室を出ようとした直前、病室の扉が開き……そこには女性がいた。目の前に立つ女性が、私の顔を見た瞬間、私に対して軽蔑ともとれる瞳を向ける。
「あ、その……わた、し……」
「もうここには来ないでって、言ったわよね? それに、あの花も……なんのつもり?」
「わた、わたし、は……ただ、お母さんに、元気になって、ほしくて……」
「元気? 姉さんがこうなった原因はあなたなのよ? 罪滅ぼしのつもり? ただの自己満足でしょう」
目の前の女性は、鋭い言葉を私に浴びせてくる。それに対して、私はなにも言い返せない。怖い……いや、それ以上に、それが全部事実だからだ。
これは単なる、私の自己満足で……だから、間違いはない。
「早く出ていって。不愉快だわ」
「……失礼、します」
目の前の女性……お母さんの妹、私にとって叔母となる人物に頭を下げてから、私は部屋を飛び出した。直後、病室から、おそらくゴミ箱になにかが捨てられる音が聞こえた。
それは多分、私が持ってきた花と花瓶だろう。毎回、私が花だけでなく花瓶も持参するのは……叔母さん達の花を抜き取って自分の花を差すのが、忍びないから。
そして次に来たとき、決まって花瓶も花も捨てられているから。
……お母さんをあんな状態にした原因である私は、叔母さんに……ううん、親類の人のほとんどから疎まれていた。大抵は陰口を言う程度で、叔母さんのように攻撃的な人はまれだけど。
私は……私が、お母さんをあんな状態にして、
だからお母さんのお見舞いをしているのは、単なる自己満足に違いないのだ。少しでも、自分のしてしまった罪を悔いたくて……
「……明日も、来よう」
叔母さんには、以前もう来るなと言われた。いや、それどころかいつもだ。なるべく、会わないように気を付けてはいるのだけど、こうして鉢合わせしてしまうことがある。
そして、今日も言われた……わかっていたことだ。だけど、私にとってお母さんはお母さんだ。たとえ叔母さんでも、これだけは譲れない。
だから、明日も……
「熊谷様ですか? 昨夜お亡くなりに……ご家族の方には、連絡したはずですが……」
お母さんの容態が急変し、亡くなったと聞かされたのは……後日、病院の受付の人からだった。
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