妻が死んだ日の嘘。

三愛紫月

妻は、なぜ命をたったのか…

「今年も、ラストですよー。5、4、3、2、1。ハッピーニュイヤー」


女子高生のアイドル、花房愛莉はなぶさあいりが、そう告げる。


「あけおめだな」


「ああ」


私は、29歳を迎えた息子の孝哉たかやとは馬が合わなかった。


「あんたさ、小綺麗にしなきゃ!母さんに捨てられるぞ」


あんたと言われるのに、もう私は慣れてしまった。

そんな事で怒る気力も体力も残ってはいない。


「そうかもな」


私は、ポツリというと熱燗をグイッと飲む。

二十歳で結婚し、すぐに孝哉を授かった。

父親になり嬉しくて幸せだった時間は、あっという間に過ぎ去り、孝哉は17歳から私に反抗を続けている。


「結婚とかはしないのかな?」


「ああ?また、それかよ!あんた、いつも母さんがいないとそれだな」


孝哉は、あからさまに嫌な顔をしている。

孝哉が産まれた日から、大人になった息子と晩酌をするのが、私の唯一の夢だった。

しかし、お酌をしてくれるような、息子は私には存在しない。


「おせち、母さんが置いてくれてるから……。お雑煮も……。明日の朝食べよう」


「チッ。もう寝る」


私の父親だったら、父親に何て口の聞き方をするんだと言って殴りつけていただろう。


後、一週間で50歳を迎える私は、初めて孝哉と二人きりの年越しをしていた。

何で、こうなったかというと、あれはクリスマスの夜だった。


クリスマスーー


「お父さん、私ね。恵美ちゃんとはっちゃんと年越しライブに行く事になったの」


「年越しライブ?」


「ほら、はっちゃんの従姉妹の子供の……」


「あーー、クリームなんたらか?」


「違うわよ。チョコレートビスケットよ」


妻は、笑いながら私にスマホの画面を見せてくる。


「好きにしたらいい」


「ありがとう」


そんなわけで今に至るわけだ。


妻は、昨日のお昼に家を出て行った。

おせちやお雑煮や年越しのご飯まで用意してくれて……。


カウントダウンに行った先が、このテレビの女の子だ。

はっちゃんとは、妻の小学校からの幼馴染みである、春本菫はるもとすみれさんだ。

そして、もう一人の恵美ちゃんは中学校からの友人である沢村恵美さわむらえみさんだ。

三人は、仲良しでいつもお茶をしたり、映画に行ったり、カラオケに行ったり、日帰りで旅行に行ったりするような仲だ。

時々、泊まりで温泉に行ったりもする。

年越しライブに行くのは、今回が初めてだったけれど……。

妻が楽しんでいるなら、悪くない。

私は、熱燗を飲みながらテレビを見つめる。

妻の千鶴ちずるとは、高校時代のバイト先が同じだった。


「懐かしいな……」


私は、花房愛莉を見つめながら妻と出会ったあの日を思い出す。


32年前ーー


「今日から、一緒に働く事になった。中谷千鶴なかたにちずるさんです」


「初めまして、中谷千鶴です。よろしくお願いいたします」


パチパチ、パチパチ。


自己紹介が終わると私は、すぐに店長に呼ばれた。


「これから、色々教えてやってくれ。服部はっとり


「はい、わかりました」


私は、店長に頭を下げる。


「中谷さんは、パンが好きなの?」


「はい」


「あっ、自己紹介していなかったね。僕は、服部進次郎はっとりしんじろうです。よろしくお願いします」


「はい、よろしくお願いします」


僕と妻は、同じパン屋さんで働きだしたのだ。


リリリリーンーー


けたたましく鳴る電話の音が、私を現実の世界に呼び戻した。


「寒いのに……わざわざ家じゃなくても」


こたつから出て、私は受話器を取る。


「もしもし」


『もしもし、進次郎さん』


「はい」


『あのね、千鶴がね』


電話をくれたのは、お義母さんだった。

私は、バタバタと二階への階段を駆け上がる。


ドンドン、ドンドン


「何?うるさいな」


孝哉が、怒りながらドアを開けた。


「母さんが……」


「母さんが、何?」


「母さんが……死んだ」


「はあ?」


孝哉は、私の言葉に驚いた顔をしていた。

でも、涙が止められない私の顔を見て、全てを察したのか、それ以上は何も言わなかった。


「タクシーを呼ぶから、着替えなさい」


「わかった」


いつもと違って、孝哉は大人しくそう言った。

私は、一階に降りるとすぐにスマホでタクシーを呼ぶ。

私は、妻とお揃いのスマホケースを見つめていた。


「父さん」


孝哉が、私をそう呼んだのはいつぶりだろうか?


「何だ……」


「母さん、コンサート行ったんじゃなかったの?」


「行っただろう」


私の頭も酷く混乱していた。

だから、その言葉しか言えなかった。


ピンポーンーー


「タクシーが来たから行こうか」


「うん」


私と孝哉は、家を出る。

タクシーの運転手さんに、行き先を告げた。


「着きました」


「はい」


ぼんやりした頭で、お金を払ってタクシーから降りる。

昼間は、何ともない病院が、今は薄気味悪い。

夜間通用口から、孝哉と入ると妻のお義母さんと妹の美智子みちこさんが待っていてくれた。


「祖母ちゃん、おばさん、嘘だよね」


孝哉は、泣きながら二人に尋ねていた。


「嘘って信じたいけどね。本当なの」


二人は、孝哉を見つめながら泣いている。


「行きましょうか?」


「はい」


私と孝哉は、二人に連れられて歩いた。


「今さっき運ばれて息を引き取ったみたいでね」


お義母さんに説明されながら、病室に入る。


「まだ、機械はずせてないからって」


そう言われて、見つめる視線の先には変わり果てた千鶴が寝ていた。


「母さん、母さん。他の人は?」


「他の人って?」


「母さんの友達」


「友達?」


お義母さんと美智子さんは、孝哉の言葉に顔を見合わせて、首を傾げている。


「今日、恵美さんとはっちゃんさんとカウントダウンライブに行ったんですよ……」


頭から絞り出すようにしながら、私はそう話す。


「カウントダウン?何それ?」


「千鶴は……」


「自殺したんですよ」


私と孝哉は、二人で顔を見合わせていた。


「自殺ですか……」


「この寒空の中、大量の睡眠薬を飲んでベンチに寝てたらしいんです」


そんな筈はない。


千鶴が、自殺なんかする筈がない。


「お姉ちゃん、何かに悩んでたんですね」


「悩んでた……」


私には、何も思い当たる事がなかった。

それからは、頭の中がずっと真っ白だった。

お義母さんや美智子さんのお陰で、全てを滞りなく終える事が出来た。


「色々とありがとうございました」


「いいえ。ご飯ちゃんと食べて下さいね」


「はい」


「後は、よろしくね。孝哉君」


「はい」


お義母さんと美智子さんは、帰って行く。


「小さくなったな」


孝哉は、私を見つめている。


「そうだな」


私は、孝哉を見つめて言う。


「カレー、温めてくるから」


「ありがとう」


孝哉は、キッチンに行く。

お義母さんが、私と孝哉の為にカレーを作ってくれていたのだ。


「千鶴、親より先に逝ったら駄目だろう。お義母さんもお義父さんを亡くしてから、まだ二年しか経ってないんだよ。私だって、母を亡くしてからまだ一年だ」


私は、千鶴の骨壺に話しかけていた。


「五年前に、パート先の門倉さんが自殺したって聞いた時に、千鶴、自殺は駄目って言ってたよな?絶対に生きないと駄目だって言ってたよな?なのに、何で……」


私は、悔しくて悲しくて苦しくて涙が止められなかった。


「父さん、カレー出来たよ」


「ありがとう。すまないな」


「いいよ」


孝哉は、カレーを置いてくれる。


『いただきます』


私も孝哉も、久しぶりにご飯を食べていた。


「母さんの味だね」


孝哉は、カレーを食べながらボロボロと泣き出した。


「お義母さんの味を受け継いでるからそうだろうね」


お出汁で作るカレーが中谷家の特徴だった。


「父さん、うまいな」


「うまい」


私と孝哉は、泣きながらカレーを食べる。


「なあ、父さん」


「何だ?」


食べ終わると孝哉は、私を見つめる。


「母さんは、あの日の夜にはカウントダウンライブに行く予定だったって言ってたよな」


「そうだな」


通夜の夜に、恵美さんとはっちゃんさんが、「千鶴は、夜の21時に来る予定でした」と言っていた。


「でも、母さんが家を出たのは昼間だったよな」


「ああ。13時には、出て行った」


「病院に運ばれたのは、何時だったっけ?」


「23時15分だ」


「って事は、約11時間。母さんは、どこで何してたの?」


私は、孝哉の言葉に驚いた顔をした。

まだ、真っ白な私の頭ではとても考えられない事を息子は冷静に分析しているようだ。


「殺されたのか?」


私の言葉に、孝哉は「それは、ないよ」と首を横に振る。


「じゃあ……」


「母さんは、誰かに会ってたんじゃないのか?」


私は、孝哉の言葉に驚き見つめる。


『スマホ』


二人で、ハモる。


「ちょっと、取ってくる」


孝哉は、立ち上がって玄関に行った。


「持ってきたよ」


玄関にある段ボールの中から、孝哉はスマホを持って戻ってきた。


「電源つけるよ」


「うん」


私は、ゴクリと生唾を飲み込む。

妻のスマホを見る事など初めての行為だ。


「切れてる」


「充電切れか」


「うん」


孝哉は、スマホを充電器にさしに行く。

正直、ホッとしていた。あのまま、スマホが開いていたら心臓がもたなかった。


「父さん、ビール飲む」


「ああ」


孝哉は、カレーのお皿を下げに行き、ビールとグラスを持って戻ってくる。


「お酌してあげる」


「えっ?」


「嫌ならいいけど……」


「それじゃあ、お願いする」


「はい」


孝哉は、缶を開けるとトクトクとビールをグラスに注いでくれる。

ずっと、こうしたかった事が妻が死んでから出来るなんて……。

神様は、意地悪なんだな。


「ありがとう」


私は、孝哉のグラスにもビールを注いだ。


「ありがとう」


「ああ」


二人で並んで、ビールを飲む。千鶴が、帰ってくるなら……。

私は、孝哉に「あんた」と呼ばれてもいい。

こんな風に、晩酌が出来なくても構わない。

孝哉が私に苛立ちをぶつけてこようが構わない。


「父さんは、母さんを愛してたんだね」


私の事を見つめて、孝哉はそう言う。


「愛か……。そんな言葉じゃ足りないかも知れないな」


私は涙を拭って、笑った。


「結婚して、何年だっけ?」


「1月8日で、30年だったな」


「それって、初七日の日だよな」


「そうだな」


孝哉は、私のグラスにビールを注いだ。


「ありがとう」


「うん」


「孝哉は、好きな人はいるのか?」


「いないよ。まだ、一人がいい」


「そうか」


私は、孝哉のグラスにビールを注いだ。


「ありがとう」


「ああ」


孝哉は、ビールを飲んでから私にこう言った。


「あのさ、父さん」


「何だ?」


「仮にだよ。仮に母さんが不倫してたらどうする?」


そんな事を考えた事もなかった私は、孝哉の質問に言葉が詰まる。


「母さんに限ってないとは、思うけどさ……。わかんないだろ?」


私は、孝哉を見れずに動揺していた。

妻が、不倫をしていたかもしれない。空白の11時間は、不倫相手と一緒にいた。もしかしたら、ホテルで……。


「父さん、大丈夫?」


「ああ、大丈夫だ」


「母さんに限ってないよ」


「そうだな」


孝哉は、立ち上がってスマホを取ってくる。


「父さん、充電ちょっと出来た。大丈夫?」


「ああ」


孝哉は、スマホの電源を入れる。ブーと言う音と共にスマホが立ち上がった。緊張で、喉が乾くからビールを飲んだ。


「母さんって、何でこんなに薔薇が好きなんだろうね」


「さあな」


待受画面は、仲良し三人組でバラ園に行った時の薔薇の写真だった。


「メッセージアプリを見るんだろ?浮気の証拠で…」


「うん」


孝哉は、そう言ってスマホを操作する。


「ああー」


「何だ?」


孝哉は、大きな声を出した。


「指紋認証だよ」


「ロックをかけてるのか?」


「そう」


「骨だから、指紋は認証出来ないな」


私は、またホッとしていた。


「暗証番号でもいけるみたい」


「あ、そうか」


孝哉の言葉に、私はガッカリしていた。暗証番号を当てられたら、中身が見れる。

そしたら…。


「父さん、思い当たる数字ない?」


「開かないのか?」


「誕生日も記念日も父さんの誕生日も俺の誕生日も全滅」


孝哉は、そう言って首を横に振ってため息をついていた。本当は、このまま開けないでよかった。浦島太郎は、開けたからお爺さんになったわけだ。パンドラの箱を開けたら災厄が広がったというわけだから…。開けては、いけない。


「孝哉、もうやめよう」


私は、正直、見たくなかった。


「母さん、殺されたのかも知れないんだよ」


孝哉は、私の言葉にボロボロ泣いていた。開けてはならないそれを開けなくてはならないのがわかった。孝哉は、納得などしない。


「1128」


私の言葉に、孝哉は暗証番号を入力した。


「開いたよ」


「そうか…」


「これは、何の番号?」


「私と母さんが、交際した日だ」


私の言葉に孝哉は、「母さんも父さんを愛していたんだね」と嬉しそうに笑いながらスマホを見つめる。


だんだんと孝哉の顔が怒りとも悲しみとも言えない表情に変わった。


「どうした?」


「気持ち悪い」


そう言って、孝哉は立ち上がってキッチンに行く。私は、こたつ布団の上に置かれたスマホを取った。


あーあ、だから、見ちゃ駄目だったんだ。私は、その画面を見つめて固まっていた。

妻は、きっと見られる事などないと思っていたに違いない。


「父さん、もうやめよう」


孝哉は戻ってきて私からスマホを取り上げようとする。


「まだだ!ちゃんと、最初から読まなきゃいけない」


「いいよ。もう、やめよう」


「駄目だ」


私は、孝哉にスマホを渡さないようにしてスクロールする。


「こんな卑猥な写真を送りあって、どうするんだよ」


「会えない日の為だろうな…」


「何で、そんなん知ってるの?」


「芸能人が、不倫がバレてたからな。それで…」


「そうなんだ」


孝哉は、そう言いながらビールを飲んでいた。


「やっぱりか…」


「何が?」


私は、孝哉に妻と不倫相手の最初のメッセージのやり取りの日付を見せた。


「これって…」


孝哉は、驚いた顔をしていた。


「お祖父ちゃんが亡くなった年だよね」


「そうだな…」


妻が不倫を始めたのは、お義父さんが亡くなった年の夏からだった。


「お祖父ちゃんが亡くなったのは、4月だから…」


孝哉は、そう言いながら計算していた。


「もっと、寄り添うべきだったな」


私は、孝哉を見ずにそう言ってビールを飲んだ。お義父さんっ子だった妻にとって、父の死はどれだけ辛かった事だろうか…。


「父さん」


「二年前は、忙しかったからな。話も聞いてやれなかった」


二年前、会社は倒産しないように必死だった。私も、連日残業続きだった。やっと落ち着いたのは、一年してからだった。妻は、思ったより元気そうだった。私は、何も気にしていなかった。

呑気に元気になったんだと思い込んでいたのだ。


「父さんのせいじゃないよ。母さんが、不倫したのが悪いんだよ。忙しいの何かわかってる事だろ?」


孝哉は、珍しく私の肩を持ってくれた。


「孝哉。それじゃあ、駄目なんだよ」


「何で?」


「もっとちゃんと向き合わなきゃ駄目なんだよ。忙しくても…。辛い時や悲しい時ほど、きちんと向き合わなくちゃ駄目なんだよ」


「そんな事、言ったって、父さんは働いてたんだろ?あの時、忙しかったの知ってるよ」


孝哉は、そう言いながら私の為に泣いてくれていた。


「忙しさにかまけて、家庭をないがしろにするから、罰が当たったんだ」


「そんな事ないよ」


「優しくされると惨めだよ。孝哉」


私は、孝哉を見つめながら泣いていた。


「こんなのが、あるから」


孝哉は、スマホを手に取って投げようとする。


「やめなさい。これが、あったから本当の事を知れたんだ」


「父さん、ごめんなさい。俺が開けようって言ったから…」


「孝哉のせいじゃない。最終的に開けたのは、私の判断だ」


泣きじゃくる孝哉の背中を私は擦っていた。


「お願いがあるんだ。この人に、母さんが死んだ事を一緒に伝えに行ってくれないか?」


「わかった」


「ありがとう」


私は、孝哉に微笑んだ。妻の不倫相手に妻が死んだ事を伝えに行こう。あの夜に、妻が死んだ事を…。


「父さん、会ったらガツンと言ってやれよ」


「わかってる」


「俺がついてるから」


「わかった」


私は、この日孝哉と約束をした。ガツンと言ってやる。私は、そう決めた。


◆◇◇◇◇◇◆◆◆


ハズだった…。


「すみません。父は、亡くなりました」


私と孝哉は、どうしていいかわからなくなっていた。


「どうぞ」


「お邪魔します」


孝哉は、仕事柄、家にいる事が多かったので妻のメッセージのやり取りからここを見つけた。私と孝哉は、家に上がった。


「こちらです」


綺麗なお嬢さんに案内されて、仏壇に手を合わせた。


「ご病気ですか?」


「はい。癌でした」


お嬢さんは、そう言いながら私と孝哉にコーヒーを出してくれる。


「ありがとうございます」


孝哉と私は、彼女がいれてくれたコーヒーを飲んだ。


「母が二年前に亡くなってから、父は頑張っていました。ストレスが溜まっていたんだと思います」


「そうですか…」


「愛妻家でしたから」


何も知らずに、ニコニコ微笑むお嬢さんに孝哉は苛立っているのか貧乏ゆすりをし始める。


「やめなさい」


私は、孝哉の足を二回叩いた。


「父さん」


私は、真一文字に口をつぐんで首を左右に振った。


「父とは、どこで?」


「あー、それはですね。妻のお義父さんが入院してる病院で…」


「湊総合病院ですか?」


「あー、そうです」


妻のお義父さんが、入院していた場所だった。


「母もそこに入院していました」


「そうですか…。私は、松村さんのお話を妻から聞くだけでした」


私は、おお嘘つきだ。メッセージの内容を知っているだけだ。


「父は、再婚する予定だったんですよ」


突然、無邪気に彼女は笑い出した。


「それは、妻からは聞かされていませんでした」


私の言葉に、松村さんのお嬢さんは嬉しそうに立ち上がって松村さんの仏壇の引き出しから何かを取って持ってきた。


私と孝哉は、覚悟を決めていた。


「この人なんですよ」


その言葉に、写真なのは明らかで…。再婚を考える程、松村さんを妻が愛していたとは思わなかった。彼女は、私と孝哉の前に、写真を置いた。


………………。


私も、孝哉も一言も言葉を発しなかった。


「母が闘病している時から、母を支えてくれた人なんです」


「はあ…」


「看護助手をされてる方でした」


「そうですか…」


「父とは、一回りも離れていましたけどね」


私は、ホッとしていたわけではなかった。

さんざん、彼女から話を聞かされた。


「では、お邪魔しました」


「また、来て下さいね」


松村さんは、にこやかに手を振っていた。彼女が、見えなくなると孝哉が私を見つめる。


「母さんが、死んだ理由って、まさかあのおっさんが再婚するからじゃないよな?」


「さあな」


「末期癌だって、わかったから悲しかっただけだよな?」


「わからない」


死人に口なしだ。私は、29年も連れ添った妻の気持ちがわからなかった。妻は、彼が再婚すると知って絶望したのか…。末期癌だと聞いて、絶望したのか…。どちらなのだろうか?もちろん、私も孝哉と同じ意見だ。末期癌だと聞いて絶望していてくれてる方がまだいい気がした。


「何で言わなかったの?」


孝哉は、苛立ちを抑えきれない顔をしながら私に尋ねた。


「他人のパンドラの箱まで開けてはならないだろう」


私の言葉に、信号待ちをしている孝哉は、苛立ちながら右足でドンドン地面を蹴りつけていた。


「愛妻家だと思っている娘さんに、父親が裏切っていた事をわざわざ伝えなくていいんだよ」


信号が青になり、私と孝哉は歩き出した。


「父さんは、それでいいのかよ。結局、何も言えなかっただろ?」


「孝哉は、ずっと私を嫌いだっただろ?私の為に泣かなくていい」


そう言って、孝哉にハンカチを差し出した。


「俺は、世界で一番父さんが嫌いだったよ!でも、今の父さんは世界で一番好きだよ」


「孝哉……」


私は、孝哉のその言葉だけで充分だった。


「ありがとう。孝哉が、そう言ってくれただけでいい」


「父さん、母さんを許せるの?」


「死んだ人間を許さないっていうのも酷いだろ…。でも、今は時間はかかるだろうな」


「時間がかかったら許せるの?」


「どうかな…。でも、孝哉が産まれて育んだ時間は本物だった。ロックを解除する番号だって、私との想い出だっただろう?だったら…」


それだけで、充分だと言おうとしたけれど、私は言葉をうまく紡げなかった。


「俺と父さんを愛してるなら、死を選ばなかったよね」


孝哉は、そう言って私を泣きながら見つめる。私は、何も言えずにただ滲んだ街を見つめながら歩く。

私達は、一言も言葉を話さぬまま帰宅した。


◆◆◆◇◇◇◇◆◆◆


「あらー。やっぱり、男の人。二人だと駄目ねー」


「すみません」


あれから、一週間が経っていた。


「いいんですよ!私で、よかったら」


妻の妹の美智子さんが、来てくれていた。


妻の仏壇の花は、すっかり枯れてしまっていた。


「生活するだけでも、大変ですからね」


何とか必死で、家事をしているのがわかられていたようで、少し恥ずかしかった。


「ご飯ぐらいは、私が作りますよ」


そう言って、やってきたのは妻のお義母さんだった。


「そんな事まで、甘えるわけには…」


「何言ってるんですか…。いいんですよ」


「じゃあ、お母さん。私、花買ってくるね」


「はい。行ってらっしゃい」


美智子さんは、そう言って出て行った。


「どうせ、枯れるのにな…」


私は、仏壇を見つめていた。


「お祖母ちゃん、いらっしゃい」


「あら、孝ちゃんいたの?」


「いますよ!在宅中心ですからね」


「じゃあ、ちょうどよかった」


そう言うとお義母さんは、私と孝哉を見つめながらこう言った。


「千鶴、不倫してたんでしょ?」


私と孝哉は、お義母さんの言葉に固まっていた。


「お昼ご飯まだよね。お弁当作ってきたのよ」


お義母さんは、すぐに話を変える。


「あの、お祖母ちゃん?」


孝哉は、私と違ってお義母さんに話かける。


「蛙の子は蛙なんですね」


お義母さんは、そう言いながら溜め息をついた。蛙の子は蛙………。


「もしかして、お義父さんも?」


私の言葉に、お義母さんは私を見つめる。


「心筋梗塞で、倒れたのは不倫相手の家ででした」


お義母さんは、そう言いながらお弁当を私と孝哉の目の前に置いてくれる。


「私ら、60年ですよ。15歳から、ずっと一緒にいました。私も、あの人もお互いしか知らなかったんです。それなのに、20年ですよ。あの人は、20年もあの女と生きてて。最後は、そこで倒れてそのまま…」


お義母さんは、そう言いながら泣いていた。目には、怒りが宿っている。


「馬鹿にされたもんですね」


「お祖母ちゃん…」


孝哉は、お義母さんにティッシュを差し出していた。


「最後は、私の傍で死ぬもんでしょう?それが、不倫した人間の誠意じゃないですか…」


「そうかも知れませんね」


私は、お義母さんの60年を思えば適当に見繕った言葉を言えやしなかった。


「千鶴も、あの人と同じで不誠実だったんですね。進次郎さん、ふしだらな娘に育ててしまってごめんなさい」


そう言って、お義母さんは頭を下げる。


「お義母さん、頭を上げて下さいね。お義母さんが悪いわけじゃないんですよ」


私の言葉にお義母さんは、頭を上げた。


「あの子の事、許さなくていいんですよ。私もあの人を許せてません。千鶴の代わりに私がどんな償いでもしますから…。それが、親の役目ですから」


お義母さんは、そう言って泣いていた。


「お義母さんが償う必要なんてないんですよ。私は、千鶴さんを許せるかと言われたら正直まだ何とも言えません。それでも、私にも責任がありますから。お義父さんっ子の千鶴の悲しみを理解して寄り添えなかったので…」


「何を言ってるんですか、悪いのはみんなあの子です。あの子は、自分から死んだんです。あの人とは、違う。進次郎さんと孝ちゃんを置いていくなんて…。私は許せません」


お義母さんは、そう言って仏壇の妻の写真を睨み付けていた。


「お祖母ちゃん…」


孝哉は、お義母さんの背中を擦っていた。私は、ただお義母さんを見つめているしか出来なかった。暫くして、美智子さんがお花を買って帰宅した。お義母さんと美智子さんは、習い事があるからとバタバタと帰宅した。私は、孝哉と一緒にお義母さんが作ってくれたお弁当を食べる。


「父さん」


「何だ…」


「お祖母ちゃんの気持ちが、俺にはわかるよ」


孝哉は、そう言いながら俯いていた。


「そうか」


「死ぬなら、俺達の傍だろ?それが、誠意だよ」


孝哉は、そう言って立ち上がって麦茶とグラスを持ってきた。


「それが出来ないなら、家族を裏切るんじゃないよ」


私にも、麦茶をいれてくれた。


「そうだな」


私は、孝哉にその言葉しか言えなかった。私達は、黙々とご飯を食べる。


さっき、お義母さんから、お義父さんが不倫していた事を聞いた時のお義母さんのあの目を見て私は、ゾッとした。それと同時に過ったのは、お義父さんっ子だった妻の心は、どれだけ深く傷ついたのだろうか?って事だった。大人になったって、子供はいつまでも子供で…。妻は、一人では抱えきれない程の傷を背負ったのではないだろうか?それは、目の前にいる孝哉と同じだったのではないだろうか?私は、何も知らぬまま仕事をとったのだ。


「孝哉、温泉に行かないか?」


「どうしたの急に?」


「いや、何となく気晴らしにだ」


「そう」


私は、孝哉の傷ぐらいは拭ってやりたいと思った…。


許せなくても、妻は孝哉のたった一人の母親なのだから…。




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