第2話

 那覇空港の自動ドアから一歩踏み出すと、じっとりとした生ぬるい空気に包まれた。僕はいつもの感触に懐かしさを覚えた。そしていつもの感触にいつも懐かしさを感じていたのを思い出して、いっそう鋭利なノスタルジーに襲われた。四年ぶりだった。予約していたホテルで手続きを済ませると、僕はインク切れのボールペンを扱うように己の身をベッドの上に投げ捨てた。さて。これからどうしよう。あてはなかった。冷房が効いた窮屈な部屋の中を水銀の形をした時間が流れていた。溺死を免れるために僕は目的を事務的に整理し始めた。

 僕は人生の過程の中で、ある時期において排他的に自分と親密に関わり、そして普遍的に自分と疎遠になった人々と会うために、沖縄にやってきたのである。勿論かれらはそれぞれの新天地を開拓しているはずにはちがいないけれど、小学校と中学校を過ごした場所においてこそ蓋然性が高いというのが、合理的な推論に基づく判断であった。具体的に誰を思い浮かべているわけではない。ただおぼろげな幸福を追い求めるように、無心でここへやってきた。重力に身を委ねたまま、僕はスマートフォンでいくつかのアプリを開き、いくつかのアカウントにメッセージを送った。石苔のようなほこりに覆われた缶を開けるのに大した勇気は必要なかった。それから返事を待っているだけでは手持ちぶさただったし、小腹も空いてきていたので、ひとまず出かけることにした。

 那覇の中心は混沌とした街である。しかし渋谷とはまったく趣を異にする混沌である。県庁と市役所、デパート、モノレール駅、銀行の本店、国際通りの入り口が、主要国首脳会議の出席者のようにスクランブル交差点を囲む。特徴のない住宅街を歩いているかと思えば居酒屋が立ち並び、下品な言葉がプリントされたTシャツと三線の奏でる琉球音階がそれぞれ視覚と聴覚に流れ込んでくる。それは奇妙ではあるけれど、吐き気を催さない類の混沌である。渋谷が乱雑に使い古された汚らしい絵の具パレットだとすれば、那覇は丁寧に作り込まれたマーブリング作品といっても誇張にはならない。

 僕は数年前の記憶と照らし合わせながらそのような街を歩いていた。跡形もなく消えた喫茶店があり、新しく建築されたホテルがあり、同じ場所で同じ商品を販売する土産店があった。間違い探しをしているうちに、スマートフォンを忘れたことに気づいた。返事が気がかりだったが、空腹と天秤にかけた結果は一目瞭然だった。二時間以内にチケットが売り切れるわけでもあるまい。そう自分に言い聞かせて、僕は行き着いた横道にある適当な居酒屋に入った。日はまだ落ちきっておらず、半袖でも汗ばんだ。

 先に気が付いたのは彼女のほうだった。

拓未たくみ?」

 目を合わせたまま、僕は声が出なかった。

「拓未だよね? 久しぶり。覚えてる?」

 彼女は満面の笑みであった。

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