ジャッジ

柏木椎菜

ギスロ・ボヌレイの場合

「ちっ、空箱かよ」


 俺は木箱の蓋を叩きつけるように閉めた。これで五個目だ。ちくしょう。


「三日前までは宝の山だったってのに......さすがに勘付かれたか」


 この店で一度にごっそり盗ったことを、俺は今さらながら悔やんだ。少量ずつ盗っていけば、店の主に気づかれるのがもっと遅れたかもしれない。でも、上等な織物という大金を見つけて、また次の日に取っておくなんて我慢は、俺にはできなかった。自業自得と諦めるしかない。


 足元に転がる木箱をよけながら、俺は狭い倉庫を出た。扉をゆっくり閉め、周りをうかがう。ここは人通りが少ない細い路地で、周囲には高い壁が立ち、それがいい目隠しになっていた。忍び込むにも、この店の倉庫の扉は、古い鍵が一つ付いているだけで、一分とかからず外せる簡単なものだった。こんなおいしい場所を失うのは残念だが、仕方ない。またいい場所を探そう。


 上着の襟を直しながら、俺は通りに出た。空はまだ暗い夜明け前だ。早起きな家には明かりがちらほらとついていたが、ほとんどの家はまだ眠っている。


「空気が冷てえなあ」


 俺は両手をズボンのポケットに突っ込んだ。秋半ばの心地いい空気は、二十代の若者なら丁度いいだろうが、四十三になる中年男には少々冷たく感じられる。


「たまにはどっかの宿で寝るのもいいかな」


 これまでの盗みで宿に泊まるくらいの金なら十分ある。こんな毎日だから、節約は必死にやってきた。少しくらい贅沢をしてみたい。そう思って、俺は笑いそうになった。たった一日宿に泊まることが贅沢だなんて、誰が思うだろう。でも、それは俺にとって、紛れもなく贅沢なことだ。


 俺の今までの人生で幸せと思えた時間は、おそらく六歳くらいまでじゃないだろうか。記憶は定かじゃないが、その日俺は両親と町の外へ出かけ、そのままはぐれた。それが偶然なのか故意なのか、今もわからない。両親が喧嘩していた覚えはないし、小さい俺に怒鳴りつけてきた記憶もない。両親を思い出せば、いつだって笑顔を浮かべていた。二人に限っては悪い思い出は一つもなかった。でも、そこで俺の幸せは途絶えた。


 嫌なことほど記憶に刻まれるものなのだろうか。そこからのことはあらかた覚えている。両親が消え、俺だけ町に帰ってきた。ふらふら歩いている俺を親戚が見つけ、そして両親がいなくなったことが知られた。俺は父方の親戚の家に置かれ、しばらく生活した。その間に多分、みんなが両親を捜し回ってくれていたのだろう。向こうにはいなかっただの、それらしき会話を何度も聞いた。


 だいぶ日が経った頃、親戚の俺への態度が変わってきた。見つからない両親のことはもう諦めたようで、今度は俺をどうするかと話し始めた。家が狭いからとか、余裕がないとか、誰もが俺をお荷物のように嫌っていた。長い相談の結果、俺は母方の親戚の夫婦に引き取られることになった。顔は見たことがあったが、話したことのない親戚だった。


 その夫婦は隣町に住んでいて、俺はそこへ引っ越した。もといた町よりかなり田舎で、民家も少なく、寂れた印象があった。夫婦は家に着くと、俺に早速仕事を言いつけた。家畜の豚の世話をしろと言われ、簡単な説明だけすると、夫婦は俺を家の外に放り出した。終わるまで入ってくるなというのだ。仕方なく俺は豚小屋に行った。そこへ入った時の、餌と糞尿の混じった強烈な臭いは今も忘れられない。二十頭くらいはいただろうか、俺はハエが飛び交う中で、その二十頭分の糞尿をシャベルで片づけ、汗をぬぐいながら餌を運んだ。その途中で何度も泣きそうになるのをこらえた気がする。すべての仕事が終わったのは、空が夕焼けに染まった頃だった。


 家に入ろうとすると、夫婦は俺のことを臭いと言い、食事は外でしろとパンを押し付け、再び俺を外に放り出した。その時の悔しさは言葉では言い表せないほどのものだった。なぜこんな目に遭わなければいけないのかと、その思いを両親にぶつけようともしたが、そこには必ず優しい笑顔しかなかった。俺には恨むことなんてできなかった。


 年月がたっても、俺は学校に通わせてもらえなかった。町に学校がないからではなく、ただ夫婦が費用を惜しんだからだ。楽しそうに話しながら歩く同年代の子供達を見て、俺は一度だけ通わせてもらえるよう頼んだことがある。すると夫婦は、居候の身分で生意気だと、頬を思い切り引っ叩いてきた。俺はその一撃を受けて、二度と頼まなかった。


 俺が成長するにつれ、家畜の世話だけだった仕事は徐々に増えていった。庭の草むしりや日用品の買い出しという簡単なことを頼まれるようになると、次は畑の世話と納屋の修理を言いつけられ、最後には家の掃除、洗濯、食器洗いと、すべての家事をやらされていた。夫婦は椅子に座り、俺に命令をするだけで何もしなかった。気づけば俺は夫婦の奴隷と化していた。


 十四の真夏のある日だった。俺が言われた通り農具の手入れをしていた時だった。家から出てきた夫婦を何気なく見た瞬間、胸の中にふと懐かしさがよみがえった。どこかに出かけるのか、夫婦はいつもより小奇麗な格好をしていた。俺が目を奪われたのは、女が着ていたワンピースだった。えんじ色で裾に白いフリルが付いたものだった。俺はその服を知っていた。お気に入りだったのか、母は夏によく着ていて、小さい俺は裾のフリルをつかみ、母の後をよく付いて行った記憶があった。女が着ているのは、間違いなく母の服だと思った。


 そう思うと、無性に腹が立ち、体の奥から怒りが込み上げてきた。消えた両親にではなく、母の服を平然と着ている女に対してだった。どういう経緯で着ているのか知らなかったが、俺の両親との無垢で幸せな思い出を、一気に汚されたような感覚があった。母に触れることは絶対に許されない。それが親戚であっても、俺は自分以外誰にも触れさせたくなかった。


 出かけて行った夫婦を見送ると、俺は収まらない怒りをぶちまけた。直前まで手入れしていた農具をつかむと、納屋の板壁に思い切り振り下ろした。大きな穴が開いても俺は何度も叩き続けた。壁はぼろぼろに砕け、屋根は傾いた。俺は外に出て柱をクワで殴った。細い柱はくの字に折れ曲がり、ばきばきと音を立てながら屋根に押しつぶされた。


 次に豚小屋に行き、入口の柵を開けると豚をすべて追い出した。自由になった豚は四方八方好きなほうへ走って行った。近くのシャベルをつかみ、今度は家に向かう。まずは窓という窓を全部シャベルで壊していった。家の中に入り、目についたものは片っ端から破壊した。椅子、机、棚、食器、かまど、水がめ、ベッド。ふと見ると、ベッドの脇に大きな鍵の付いた箱が置かれていた。持ち運ぶには少し大きな箱だった。俺はシャベルで鍵を叩いた。すると頑丈そうな鍵はあっさり外れ、開けてみると、中には数枚の書類と、貴金属、それと札束がいくつも入っていた。これが夫婦の全財産に違いないと思った。俺はベッドからシーツをはぎ取り、貴金属と札束をその上に置いてくるんだ。それを担ぐと、壊したかまどにわずかに残っていた火種を書類に乗せた。さらにその書類をベッドの上に置く。じわじわと大きくなる火は書類を焦がして広がっていった。どんどん大きくなる火を眺めながら、俺は嬉しくなったのを覚えている。夫婦に仕返しができたことと、もう何もしなくていいことが嬉しかった。俺は火が燃え広がる前に家を出て、そして町を出た。もうひどい生活をしなくて済むんだと、俺は安堵していた。金を手に入れたこともあって、希望は大きかった。これ以下の生活なんてあり得ないと信じていた。そう思ってもしょうがない。まだ俺は子供だった。世間の辛さなんて何も知っちゃいなかった。


 数日は金を使い、食べることには困らなかった。寝る時も、開いている納屋や倉庫にこっそり忍び込んだり、民家の軒下に泊まったりしていた。しかしある日、軒下で目覚めると、抱えていたはずの金がなくなっていた。あの時の焦りは尋常じゃなかった。何しろ金だけが俺の支えだった。それを失ったら一体どうやって生きていけばいいのかまったくわからなかった。探し回ったが、結局金は見つからなかった。俺はあっという間に絶望に落とされた。


 これからどうすればいいのか不安ばかりに襲われて、俺はかすかな記憶の両親に助けを求めた。生まれ育った家に戻ってみようと思ったのだ。両親がいるとは考えていなかった。もしいれば、俺はとっくに呼び戻されているはずだ。でも、いてほしいという願いは大きくあった。俺を助けてほしいというよりも、もう一度会いたいという気持ちが強かった。


 町に入り、俺は遠い記憶をたどってかつての家を探して歩き回った。見渡す町並みは懐かしかった。当時とほとんど変わっていないのか、幼い頃の光景が頭によみがえってきた。この通りで父と遊んだ覚えがある。そして、この角を曲がったところに我が家があったはず。そう確信した俺は早足で向かった。九割九分いないとわかっていても、気持ちはどうしても期待してしまった。余計にがっかりするだけだとわかりながら。


 案の定、両親の姿はなかった。それどころか、かつての家が建っていたところには、真新しい木造の家が建っていて、ひっきりなしに人が出入りしていた。俺が生まれ育った家は、料理屋に変わっていたのだ。店の主らしき男が笑顔であいさつしているのを見て、俺はその場を立ち去った。


 俺はこの世で孤独になったと感じた。もう助けてくれる人はいないのだと思った。目的もなく、ただ投げやりな日々を続けていたが、それでもどうしようもなく腹は減った。もう生きている意味を見失っていたが、動物としての本能は俺に生きることを強要した。そこで初めて俺は本格的な盗みに手を染めた。菓子屋の店先からクッキーを三枚いただいたのだ。久しぶりに味わう甘味は格別だった。一度成功してしまえば、もう盗むことへの躊躇はなかった。腹が減れば食い物を、寒くなれば衣服を盗む。たまに不用心な店を見つけた時は、小銭を盗んで万が一の時のために貯金した。そんなことをするくらい、俺の気持ちは前向きに変わりつつあった。今も孤独感はあるが、盗むということが楽しく感じ始めたのはこの頃だったと思う。


 そのうち、数人だが仲間もできた。みんな俺のような辛い毎日を送ってきたらしく、すぐに打ち解けられた。盗みのための情報を交換しあったりしたが、基本全員一人で行動していた。そのほうが見つかる確率が低いからだ。いろいろな町、村を渡り歩きながら盗み続ける日々を送り、俺は三十を過ぎた。盗みに関してはあらゆる情報を持ち、その腕もだいぶ上達していた。そんな俺にも一度だけ足を洗おうとした瞬間があった。


 ある村で次に入る家を物色していた時だった。目の前を華奢な女が通って行った。俺よりはまだ若そうで、整った顔立ちをしていた。特別目を引くような感じでもなく、華やかさに欠けた地味な印象だったが、それでも俺はその女を目で追っていた。一目ぼれだった。


 それから俺は盗みよりも、彼女のことばかりを探った。名前はもちろん、職業、家族、友人、日課まで調べられることはすべて調べた。そして彼女には、付き合っている男がいることがわかった。男は漁師で、どうも最近彼女に会いに行けていない様子だった。俺には好都合だったが、彼女にふさわしい相手となるには、まともな仕事に就かなければいけない。そこで俺は決心し、盗みを一切やめようと思った。貯めた金で新しい服を買い、手当たり次第に仕事を探した。雇ってもいいというところはいくつもあった。でも、俺が読み書きできないことを知ると、あっさり断られた。雇ってくれても、体力を使う日雇いばかりで、俺の思う仕事とは違っていた。


 一か月が経って、次第に手持ちの金も減り、焦った俺はつい盗みに手を出した。翌日、そのことを反省しながら彼女の様子を見に行くと、そこには白いドレスを着た彼女がいた。花びらをまく人々の中心で、となりの男と幸せそうに見つめ合っていた。そこで俺の夢は覚めた。やっぱり現実を見るしかないんだと気づかされた。


 それから再び盗みを続け、そして今に至っている。幸せとは無縁だが、生きることはできている。これが俺の現実であり、どうあがいても、ここで生きるしかないのだ。一体いつからこんな現実になったのだろう。ふとそう考えそうになったが、俺は足元の小石を蹴飛ばしてやめた。そんなことを考えている暇があったら、次の目標を探したほうがましだ。夜明けまではもう少し時間がある。小物くらいなら盗れるだろう。俺は周りを確かめてから、横の路地に入った。この先には以前目を付けた場所があった。何も問題がなければ、すぐにでも盗れるところだ。薬屋の在庫倉庫で、外から見た感じでは、五分以内で済むと踏んでいた。


 周りは静かだった。時々遠くで目覚めた鳥のさえずりが聞こえるだけで、後は自分の足音しか聞こえない。耳を澄まし、暗闇の中に目を凝らす。大して時間もかからず薬屋の倉庫の前に着いた。ここまではいつも通りの順調さだ。盗みにかかる前に、まずは人の気配を探す。通りかかったふうを装いながら、倉庫の周りをゆっくり歩く。近くばかりではなく、頭上や遠くの道の先もよく見る。こっちに向かって来ている影を見落としたら、盗みの最中に見つかる恐れがあるからだ。いくら暗くても、それだけは見落としてはいけない。


 倉庫の近くに人の気配はなかった。再び倉庫の前に来る。ここからは迅速に行動しないといけない。俺の過去の失敗で見つかったのは、大抵この鍵開けに手間取った時なのだ。しかし、この倉庫の鍵は俺が簡単に開けられる形のものだった。以前見た時と全く同じ錠前のようだ。これなら何の問題もなく開けられる。俺はポケットから二本の針金を取り出し、それを鍵穴に差し込む。手の感覚を頼りに針金を小刻みに動かしていく。すると、二十秒たたないうちに、指先にカチッという音と感触が伝わった。


「ちょろいな」


 俺はゆっくり錠前を取り外し、地面に置く。木の扉を開くと、きしむ音と共に、薬品独特の臭いが流れてきた。倉庫の中に入る前に、俺はもう一度周りの気配を探る。開けたことで気が緩み、人の気配に気づかないこともある。慎重になりすぎるくらいのほうがいいのだ。


 むせそうなほど薬の臭いの充満した中へ入る。入口から差し込むわずかな月明かりが中の様子を照らし出す。両脇と正面には棚があり、その上に商品は置かれていた。几帳面な主なのか、商品はどれも隙間なく並べられ、ラベルも見やすいようにこっちへ向けられていた。そのおかげで、あらかじめ調べておいた希少な薬の名前を探すことなく見つけられ、時間を大幅に短縮できた。ちなみに薬のことを調べたのは仲間の一人だ。俺が読み書きできないことを知って、代わりに調べてくれたのだ。メモに書かれた文字と同じラベルのものを俺は盗ればいいだけだ。今回の商品はその仲間と山分けすることになっている。


「これだけだな」


 薬の詰まった袋を肩に担ぎ、俺は入口から顔だけを外に出す。忍び込んだ場所から逃げ出す時も意外に見つかりやすい。目的を果たして気が緩みやすいのもこの時なのだ。左右に目を凝らし、何の気配もないと判断して俺は倉庫を出る。扉を閉め、錠前をかけ直す。これは少しでも発覚を遅らせるためにしている。そんなことをするなら早く逃げたほうがいいという仲間もいるが、もう習慣のようになってしまって、俺はやらないほうが落ち着かないのだ。後は闇に紛れて立ち去れば、今日の仕事は終わる。そう思いながら錠前から手を離した時だった。


「いけないことです」


 突然後ろから男の声がして、俺は跳び上がりそうな勢いで振り返った。驚きすぎて、心臓が止まるんじゃないかと思った。そこには、揃って白いローブを着た二人の男が立ち、俺のことをじっと見ていた。


「な、なんだてめえら」


 俺は鳴りやまない鼓動を感じながら、二人の男を睨んだ。確かに人の気配はなかったはずだ。それがわからないなんていう単純な失敗は、ここ数年では一度もない。こいつらはいつ俺に近づいてきたのか、さっぱり気づかなかった。もしかしたら只者じゃないのかもしれないと思い、俺は警戒心を強めた。


「自分がしたことを、おわかりですか」


 手前に立つ男は三十代くらいだろうか、俺より頭一つ分背が高く、俺が睨みつけているにもかかわらず、表情を変えることなく切れ長の目で見つめてくる。感情が薄く、冷めた印象を受ける。どうやら俺の盗みを見ていたようだ。


「......はあ? 何のことだよ」


 俺はすぐにとぼけた。見つかった時は、必ず最初にとぼけるのが常套手段だ。相手と言い合いながら、なんとか逃げ道を探すのだ。


「盗んだの、見てたんだけど」


 もう一人の男が前に出てきて言った。こっちの男も三十代前後だが、片割れと違っていぶかしむ表情を露骨に見せている。口調からしても、こいつは感情で動く人間の典型だろう。こういうやつのほうが対処しやすい。


「何か誤解してんじゃねえか?」


 俺は平静を装って言った。


「誤解とは?」


 無表情男が聞いてくる。


「俺は頼まれて、ここの品物を運び出していただけだ。嘘だと思うならこの倉庫の持ち主に聞いてこいよ」


 堂々と、第三者に聞いてこいと言うと、大抵の人間は自分の勘違いだったのかと不安に思い始める。目の前の二人もそんな例にもれず、困ったように顔を見合わせていた。逃げる絶好の間だ。


「まったく、いい加減にしてくれ。もう行くぞ。開店までにこれ全部並べなきゃいけないんだ」


 俺はいかにも店の従業員のようなふりをして、不機嫌な顔を見せながら立ち去ろうとした。が、感情男が俺の前に立ちふさがった。


「おいおい、行くならその荷物を元に戻してからだ」


「......言ったこと聞いてなかったのか? だからこの持ち主に聞いてくればわかるって言っただろ」


 俺はわざと声を荒らげた。疑われて苛立っていることを伝え、相手の焦りを誘うのだ。もめ事を嫌う人間なら、ここで解放してくれる場合もある。その時は決して相手を責めてはいけない。自分からぼろが出ないうちに、素早く円満に立ち去ったほうがいい。


 しかし、俺の苛立った演技以上に、感情男の表情は苛立っていた。


「嘘はもういい。言った通りにしろって」


 決定的な場面を見られていたのか、二人は俺が盗んだことを確信しているようだった。逃がすつもりはないという目つきで俺を見てくる。これは時間がかかりそうだ。周りが起きだす夜明けまでには逃げたいところだ。


「......なんだよ、そんなに言うなら、俺が盗んだ証拠があるんだろうな、え?」


「証拠ですか?」


 そう呟くと、無表情男は片割れとまた顔を見合わせた。


「ないんだろ? けっ。人を疑う前に、てめえの目を疑うんだな」


 歩こうとした俺を止めるように、右肩を感情男がつかんだ。


「俺に触るんじゃねえよ」


 肩をつかむ手を俺は思い切り振り払った。感情男は少し後ずさると、俺を忌々しげに睨んできた。


「俺を殴るか? 濡れ衣着せて、暴力までふるったら、この後てめえらどうなるんだろうな」


 この挑発に、感情男は我慢しきれない様子で唇を噛んだ。


「まあ、落ち着きなさい」


 無表情男が静かに言う。


「こいつ、最悪だ」


 感情男は怒りがこもった声で言った。


「最悪はどっちだ。ありもしないこと言いやがって。もういいだろ。俺はてめえらほど暇じゃないんだよ」


 再び歩き出そうとすると、今度は無表情男が俺を呼び止めた。


「お待ちください」


「だから、暇じゃねえって言ってるだろうが」


 怒りと苛立ちの演技で俺は振り返る。


「証拠を示せばよいのですね」


 その言葉に、俺は演技を忘れそうになった。


「そ、そうだ。あるなら早く見せてみろ」


 そう言いながら俺は周りをちらちらと見渡した。家と家の間から見える遠くの空は、ぼんやりと橙色に染まっていた。日の出は近い。俺を隠していた暗闇も、もうすぐなくなってしまう。もしも言い訳できない証拠を出されたら、俺の自由もここまでになってしまう。そうなる前に、隙をついてここから走って逃げようと考えた。俺より若い二人に、走りで勝てるかどうかわからないが、最終手段としてはこれ以外思いつかなかった。


 どんな証拠を見せられるのか、恐怖と不安を抱えながら俺は身構えるように無表情男の口に注目した。


「ところで、その品物の持ち主の名前は何と言いますか」


 証拠でなく、質問をされて、俺は一瞬面食らったが、無表情男の思惑を悟って俺はすぐに落ち着きを取り戻した。


「持ち主? ルキオさんのことか?」


 ルキオとは、ここの倉庫を持つ薬屋の主人の名前だ。そこの家族構成は事前に調べ済みだ。


「では、その方に倉庫の鍵を渡されたのはいつのことですか」


 鍵と言われて俺は焦った。錠前は針金で開けたから、当然持っていない。そのことを指摘されたら俺の負けだ。ここはどうにか上手く切り抜けなければいけない。


「えっと、いつだったかな......昨日の夕方頃だったと思うけど、鍵なら上着のポケットに、ほら......」


 俺は内ポケットに手を突っ込み、大きくまさぐって見せた。


「どうしました?」


「あれ......ない。ここに入れたのになあ。暗かったから落としたのかもしれない。ちょっと地面を探してみてくれないか」


 俺は腰をかがめて地面を見回す。上手くいけば、探している間に二人の目を盗み、逃げられるかもしれない。我ながらいい逃げ方を考えたと思った時だった。


「鍵は、これですか」


 顔を上げると、無表情男が俺に見せるように一本の鍵を持っていた。もう見つけてしまったのか? というか、鍵はこの場にはないはずだ。つまり、初めから持っていたってことなのか? でもどうしてこいつが鍵を持っているんだ? もしかして薬屋に言われてきた人間なのか? 俺の頭には次々と疑問が湧いていたが、怪しまれないようすぐに立ち上がり笑顔を見せた。


「おお、これ――」


 言いかけて気づいた。この鍵が倉庫のものとは限らないんじゃないか? 無表情男が俺に仕掛けた罠という可能性もある。何せ本物の鍵を見たことがないのだ。これだこれだと俺が知ったふうに鍵へ手を伸ばすのを待ち構えているような気がしてならなかった。


「どうかしましたか?」


 無表情男は一切の感情を出さず聞いてくる。心の中ではほくそ笑んでいるのか、それとも......。


「その鍵は――」


 二択だ。偽物か本物、そのどちらかなのだ。......いや待て。本当に二択なのか? 俺は脳みそを目一杯に働かせ、そして気づいた。すでに自分が罠にかかりかけていることに。その動揺を隠しながら、俺は言った。


「違う。倉庫の、落とした鍵じゃない」


 もし本物なら、鍵はずっとこいつが持っていたわけで、俺が鍵なしで錠前を外したことがばれる。本物だと言い当てたとしても、俺の盗みが発覚するわけだ。つまり、俺は違う鍵だと言うしかないのだ。目の前の鍵が、ただのはったりであれと願うしかなかった。


「これに、見覚えはないのですね?」


 無表情男が念を押すように聞いた。


「知らない......」


 不安で声が小さくなってしまった。すると、無表情男はため息を吐いた。


「そうですか。それでは――」


 近寄ると俺の手を持ち、鍵を渡された。


「開けてみてください」


 戸惑う俺に二人の視線が刺さる。今すぐ逃げ出したかった。でも囲まれていて逃げ道はない。仕方なく倉庫の前に立つ。鍵を持たされた手に汗が滲んでいた。心臓の動きが早くなるのを感じながら、ゆっくり、ゆっくりと鍵穴に鍵を差し込む。何の違和感もなく鍵は入っていく。奥で止まったところで、鍵を右にひねった。すると、カチッという音と感触が指先に伝わってきた。針金で開けた時とまったく同じ感触だった。はったりじゃなく、これは本物......。


「開いたようですね」


「完全に開いたな」


 いつの間にか二人が両脇から覗き込んでいた。


「これなら証拠になりますか?」


 俺をやり込めたというのに、無表情男は微笑すら見せずに言う。もうここまでだった。


「......白状するよ。この薬は盗んだものだ」


 担いでいた袋を俺は足元に置いた。


「初めからこう素直に言えばよかったんだよ」


 感情男が不満げに言う。


「あんたら、ここの薬屋に言われて見張ってたのか」


 そうでなければ、都合よく倉庫の鍵なんて持っているわけがないと思った。


「見張っていたのではなく、偶然見かけたのです」


「偶然? じゃあ、なんで鍵なんか持ってるんだよ」


「鍵は少しの間、借りさせてもらいました」


「はあ? 借りたって......あんたら薬屋の人間じゃないのか」


「違います」


 はっきり言われて、俺は首をかしげたくなった。


「薬屋と関係ない人間が、じゃあなんで倉庫の鍵を持ってんだよ」


「ですから、少しの間借りたのです」


 俺は苛立った。


「だから、借りて何しようと思ってたんだよ」


「あなたが証拠を示せと言ったのではないですか」


 こいつは何を言っているのかと思った。俺が証拠を見せろと言ったのは、盗みが見つかった後だ。その間、無表情男は薬屋に鍵を借りになど行っていない。ずっとここにいたはずだ。つまり俺の盗みを見つけるまえから鍵は持っていたのだ。わかりきった嘘をよく堂々と言えるものだ。


「嘘を言うなと言っておいて、あんたらは俺に嘘をつくのか」


「私は嘘など言っておりません」


 本当に嘘を言っていないような無表情と口ぶりだから、余計俺は苛立った。


「......あんたらも、ここの薬を盗みに来たんじゃねえのか」


 薬屋の人間でもないのに、どうやって鍵を手に入れたか。それはやっぱりくすねたからだ。くすねた理由は、こっそり倉庫を開けたかったから。なぜ開けたいのか。中の品物がほしいからに決まっている。この俺の言葉に、無表情男は初めて驚いたように目を丸くした。


「そうか、俺の盗んだものを横取りしようって魂胆か」


「おいっ」


 横から感情男が、俺の胸ぐらをつかんできた。


「自分の行為を棚に上げて――」


「やめてください」


 無表情男が落ち着いて止める。感情男は俺を睨みつけていたが、やがてつかんでいた手を離した。


「ふん、図星だったか」


 俺は襟の乱れを直しながら、聞こえるように言ってやった。見ると感情男は、怒りで爆発せんばかりの目で俺を見ていた。


「こちらが正直に言っても、あなたには信じてもらえないようですね。それならそれでも構いません。ですが、あなたのした行為は見過ごせません。なぜ他人のものを盗んだのですか?」


 善人ぶった言い方がいけ好かなかったが、俺は開き直って言った。


「それが仕事だからだ」


「仕事? 盗むことがですか?」


「仕事じゃなくて、罪だろ」


 感情男が馬鹿にするような目で俺を見る。


「じゃあ聞くが、あんたらはどうやって毎日を生きてる? 世間のやつらはどうやって暮らしてる? 金を稼ぐために仕事をしてるだろ。俺もそれと同じことだよ」


「何が同じだというのですか」


 無表情男の口調が少し強くなったように感じた。


「俺だって一時はまともな仕事を探したさ。でも読み書きできない俺はどうしたって世間から弾かれる。周りは俺を劣ったやつとしか見てねえんだ。働きたいのに働けないのは、世間のやつらが悪いんだよ。それでも俺は生きなきゃいけない。だから、俺を見下す世間から盗んで金を手に入れてる。当然だろ? 俺に仕事をくれないんだからな。俺がもらうはずの金を、世間から少しずついただいてるんだ。給料代わりにな。これは歴とした俺の仕事だ」


 一気にまくし立て、我ながら少し驚いた。こんなにもすらすらと言えるとは思わなかった。


「文句あるか!」


 まくし立てた勢いのまま、二人に面と向かって言った。だが、黙って聞いていた二人の顔は、話す前と何も変わっていない。そして、おもむろに無表情男が口を開いた。


「そんな理由は成立しません。あなたのしていることは罪なのです」


 冷たい口調だった。俺の中に怒りが込み上げた。


「うるせえ! ならどうしろっていうんだよ。てめえらが仕事くれるっていうのか、え? 盗みをやめろっていうなら、早く仕事を俺によこせよ、ほら、早くしろよ」


 挑発するように手を振って見せた。しかしこれでも二人の顔は変わらない。


「あなたのこれまでの境遇には同情します。ですが――」


「同情だと? おい、てめえが俺の何を知ってんだよ。俺がどんな目に遭ってきたか知ってんのかよ」


 詰め寄ると、無表情男はあっさり答えた。


「もちろん」


 呆気にとられた。怒るはずが、なぜか笑いたくなった。


「は、はは......てめえ、何言ってんだ?」


「ギスロ・ボヌレイ――」


 呼ばれてびくりとした。俺はこいつらに名乗ってなんかいない。仲間にすら教えていない本名だ。一体どこで調べたのか......。


「六歳の時、両親とはぐれた後、親戚のもとに引き取られ、そこでひどい扱いを受けましたね」


 絶句した。こいつらは何者なんだ。なんでそんな昔のことまで知っているんだ。俺は薄ら寒さを感じずにはいられなかった。


「そこで学校に通えなかったことで、あなたは今も読み書きができずにいる」


「な、なんで、俺のことをそんなに詳しく......」


「それが障害になっているのなら、習えばいいだけのことです。あなたには友人がいます。その方々から教わってみてはいかがですか」


「おい、俺の質問に答えろ。なんで俺のことを知ってるんだ。どこで調べた」


「正直に言ったところで、あんたは信じないからな。言っても無駄だ」


 感情男が横から言う。


「そ、そうか、言ったら身分がわかるから言えないんだな? てめえら、警察だろ。そこまで調べられるのは警察くらいしかいねえ。そうなんだろ」


「さあ?」


 そっぽを向いて感情男は肩をすくめた。


「あなたは頭の回転が速いようですね。それなら読み書きなどすぐに覚えられるはずです」


「うるせえ。どうせ俺はここでてめえらに捕まるんだ。捕まればしばらく檻からは出られねえ。歳ばっかり食って、世間に戻った頃には、もうじじいの体だ。そんなやつ誰が使うんだよ」


 愚痴る俺を見て、二人は顔を見合わせる。


「人間には知能があります。そして、あなたに足りないのは努力です。あなたは過去の不運に甘え、すべてを世間のせいにしていますが、本当にそうでしょうか」


「俺はひどい目に遭った。誰も助けてくれなかったじゃねえか」


 やせ細った俺を誰が見てくれた? 地面にはいつくばっている俺を誰が見てくれた?


「確かにひどい境遇でした。でも、今はその頃よりは努力の通じる環境です。あなたの心がけ次第で、現状はどうにでも変わり――」


「変わるわけねえだろ。努力しろって? そんなもん、さんざんしてきたさ。だからこうして盗みの腕が上がった。今じゃ俺を手本にする仲間もいる。これが努力じゃなきゃなんだって言うんだ」


 努力が足りないなんて、上手くいっているやつの言うことだ。何も見ていないくせによく言える。


「あなたが言うことは、少し方向が違います。人間の知能は、他人からものを盗むために使われるものではありません」


「てめえは何様だよ。知能の使い方を指南してくれるとは、おせっかいにもほどがある。じゃあ俺も指南してやるよ。てめえの知能は説教するためにあるんじゃない。早くその口を閉じろよ」


「真面目に言っているのです。ちゃんと聞いて――」


「無駄だって。聞く耳持ってないもん」


 感情男が俺の前に立った。


「今度はてめえが説教か?」


 俺は睨みつけたが、感情男は意に介していないように俺を見る。


「あんたは努力が足りないんじゃない。努力する気がないんだ」


「おい、てめえは――」


「だ・ま・れ!」


 感情男は俺の顔の前に人差し指を立てた。思わず声が詰まる。


「僕はこんなに苦労したんだ。だからもう苦労なんてしなくていいでしょ? 誰か僕に同情してえ......なんて、思ってるんじゃないの?」


「......馬鹿にしてんのか」


「図星か。じゃあもう一つ。読み書きできないから仕事に就けないっていうけど、あんた、仲間の一人が教えてやるって言ったの、断ったでしょ」


 頭が真っ白になりそうだった。それは一年前のことで、その通りだった。こいつらは以前から俺を監視していたのか?


「仕事に就きたいなら喜んで頼むはずだ。でもあんたは断った。なぜなら知ってしまったんだよね。まともな仕事より、盗みのほうが遥かに楽で儲かるってことを」


 言葉が出なかった。こいつの言葉は、俺が薄々感じながらも目をそらしていたことだ。足を洗うべきだと思う反面、こんな旨いものを逃したくないという気持ちもあった。だが時間が経つにつれ、足を洗う選択肢はなくなった。俺は楽なほうを選んだ。居心地のいい場所を。薄気味悪い。こいつはどうしてこんなにも俺の心が読めるんだ。まるで何もかも見てきたように当ててくる。


「ぐうの音も出ないか。まあ、全部本当のことだから当然だけどね。そういうことだから、盗みなんて罪を重ねるんだったら、一日も早くまともな努力をしろ。その盗品もさっさと元に戻せ」


 この命令口調が、俺の感情を逆なでた。


「......嫌だね」


「子供みたいだな」


 感情男が呆れたように言った。自分でもそうだと思った。胸の内をすべて言い当てられ、恥ずかしくて素直になれない子供が意地になって反抗する――俺は感情のままに、そんな子供に戻り始めていた。


「俺は俺の考えで動く。誰にも指図はさせねえ」


「盗みを続ける気か?」


「当たり前だ。たかが盗んだだけの罪だ。誰かを殺したわけじゃねえ。こんなこと誰だってやってることだよ」


「罪に大小はない。周りがやってるから、あんたも罪を犯すのか? そりゃ愚考だ」


「てめえらの正義面は腹が立つんだよ。俺に説教してるだけで、いい気になってんじゃねえ」


「もう一度聞くけど、本当に盗みをやめないつもりか?」


「盗みは俺の仕事だ。俺が生きるための仕事なんだよ!」


 頭の中心が沸騰したように熱かった。今の生活を誰にも邪魔させない。その一心だった。


「もう言っても駄目だよ、こいつ」


 感情男は後ろに立つ無表情男に言う。


「しかし......」


 無表情男の眉間に、わずかにしわが寄る。


「俺を捕まえるんだろ? 来いよ。てめえらのその顔に一発ずつあざ作ってやる」


 普段の俺ならこんなことは絶対に言わなかっただろう。何事も冷静に行うことが賢いやり方だからだ。でも今は、その冷静さはどこかへ吹き飛んでしまっていた。頭に血が上りすぎて、自分でも上手く抑えることができなかった。


「もう少し、説得を......」


「力ずくで来ようとしてるのにか? 無理だって」


 二人が何か言い合っている間に、俺は前に踏み出した。


「来ないなら、俺が行くぞ!」


 右の拳を振り上げ、俺は感情男目がけて振り下ろした。が、その拳は空中で止まった。感情男の手が、俺の力む腕をつかまえていた。


「こっちも力ずくで行くぞ」


 にやりと笑った感情男は、俺の腕を押し返すように放した。二、三歩よろめいたが、俺はすぐに体勢を整えた。来るなら、受けて立ってやる......!


「来るなら来い!」


 昔の俺のように、地面にはいつくばらせてやる。俺は拳を構えた。


「やはりお待ちください」


 無表情男が言った。その言葉が俺か、片割れに対して言ったのかはわからない。それを無視して、俺は目の前の男を睨む。すると、感情男の口が開いた。


「じゃあ、またな」


 え? と思った時には、俺の視界は真っ暗になり、全部の感覚が途切れた。


          *


「なぜ待ってくれなかったのですか」


「改める気なんてぜんぜんなかったよ、こいつ。見ててわかるだろ? あーすっきりした」


「確かに反省の様子はありませんでしたが、それは彼のひどい経験のせいもあって――」


「あのなあ、他より不幸な生活してたからって、甘やかすのは間違いだぞ」


「私は、そんなつもりは......」


「あいつの性格はひねくれてた。こっちが正直に言うと怒ってくるくらいにね」


「人間とは、そういうものなのです」


「とにかくだ、もう済んじゃったことだし、次行こう、次」


「お待ちください。この袋の薬を元に戻さないと......」


「あ、そういえば、鍵はいつ持ってきたんだ? 持ってなかったよね」


「あなたが手を振り払われ、腹を立てていた時にこっそりと」


「へえ、気づかなかった」


「だいぶ怒っていましたからね。さあ、早く薬を戻しましょう」


「......おっ、夜明けだ。綺麗な色だなあ」


「ここで見る太陽も、なかなかいいものですね」


「本当だな」

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