練兵に倣う灰滅-8-

 人間相手の征伐行為も許容された社会に、少し陰鬱な気分になる。桐生きりゅう氏から下命を拝した瞬間を思い返すと、退路を塞がれたまま、殺人を強要される立場に置かれたも同然だった。だからこそ心は暗い海へと泥む。単純に僕の無知が裏目に出ただけではあるものの、それにしてもあの好々爺の面の下にとんでもない悪魔のような冷血漢が潜んでいるとは誰も思うまい。やはり記憶を喪失した素人同然の一般兵をも無駄にしない思考は、軍部上層に腰を据えるだけの豪胆さと冷徹さがある。

 今後の座学スケジュールに関して説明するルカさんが、僕の暗くなった表情を見てすっぱりと言い切ったのは、先ほど見せた僕の心構えを再確認するためのものだったのだろう。


「ハチ、僕達は侵蝕者イローダーの掃討を行うことを生業にしていますが、同時に人間の掃討を担うこともあります。軍の都合によっては、単なる正義の味方になることも有り得るけれど、巨悪の手先になることも有り得る。そういう世界で生きていくことを、君は、君自身で、決めたんですよね?」


「……はい。ただ、実際に人を殺める術を学ぶことを失念していて……。戦場でそうせざるを得なくとなると、心悲うらがなしい気持ちになるなと思ったんです。でも僕自身自分の処遇をどうこうできる立場にはない。上がやれと言うのであれば、それに従うしかないことは重々承知している。この程度で狼狽えるだなんて、甘いですよね。自分の身が危険に曝されることは看過できても、人を殺めることにまだ十分な覚悟が足りていなかった証に他ならない。――もっと、もっと気を引き締めなければ……」


「容認し難いことだろうが、己の置かれた立場を正しく認識しているようではあるな。俺達自身、お前の決定付けられた処遇をどうすることも適わない以上、お前に死なせない方法を教えるしか術を持たない。その上で人を殺傷する手段を身に付けることになるのは、避けて通れない道だ。納得できずとも、受け入れる他ないことは理解して欲しい」


 軍というものが、甘い世界でないことは十二分に心得ている。ティムさんの言葉に、僕はコクリと一つ頷く。

 自分が死なないように足掻いて、生き残るスキルを身に付けるための死に物狂いの努力は承諾していた。頑張り次第で生存確率が上がるなら、何だってしてやるとさえ思っていた。だが、己が生き残るために人との戦いで自分が殺める側に回るかもしれないという事実に躊躇しているのは、軍人として生きていくという心構えが甘かったこと以外の何ものでもない。


 自分達が行うこと全てが正しいものと限らないのは、軍人だろうと一般人だろうと変わりはない。殺傷を下地とした善悪がどちらに傾くかも、それは見方による。

 軍の執行する善悪と、一人が為す善悪に違いがあるとすれば、それは規模の違いだ。軍人ならば世界の英雄や仇敵になり得る。その反面、一人であれば誰かの英雄や仇敵になり得る。それだけの違いなのだ。生きていく中で、誰かの助けになったり恨みを買ったりすることは屡々あるもの。そうして、強制的に己を承服させた。


 日和った己を鼓舞するために、僕はそっと目を閉じて両手で頬を叩きながら気合を入れ直す。元を辿れば僕も軍人の端くれ。かつて人を殺めてしまうかもしれない覚悟を持ってこの世界に足を踏み入れているのならば、今更になって殺人の術を会得することにまごつくのは不毛だ。

 記憶喪失より以前に既にこの手を血に染めている場合、人を殺めたことのない潔白な身というものとも無縁ということになる。とうの昔に軍の命令に基づく殺人自体を犯しているか否かを差し引いたとして、今後それを行わざるを得ない状況に置かれている点を踏まえれば、これから人を死に追いやる技術を学ぶ自分の両手は、最早綺麗なものでも何でもない。非情な現実から目を背ける訳にもいかないため、僕は閉じた瞳をそろりと開けた。


「じゃあそろそろ、軍事学を、始めましょうか」


 今一度覚悟を決めて、全てを征すべき知識を学ぶべく、僕は二人の講師に目を遣る。自分は軍人。軍に仇為す者は排除する。それが侵蝕者イローダーであっても、人間であってもだ。そう心に留めて学習態勢に入ると、僕は用意された座席に着席した。

 二人は僕の目付きが確固たる意志を宿したのを見て、首を縦に振る。「この三日間で使用する教材を持ってきます」と一言残してルカさんは姿を消すと、部屋に残ったティムさんがガシガシと僕の頭を掻い撫でた。


「自らの災難を嘆く訳でもなく、無情な道を歩むことを選んだお前に、改めて敬意を」


 暗澹が蜷局とぐろを巻く胸の内を空くように、ティムさんの笑顔から伝わる温もりがじんと染み渡る。言葉では「自分の境遇を受け入れた」だなんていくらでも嘯ける。だが、やはり殺人に加担することを避けたいと叫ぶ心を無視し切れない身体は、少しだけ涙を滲ませた。歔欷すすりなきで滲出した水滴を、ばれないように乱暴に拭う。


 暫くして、執務室に戻って来たルカさんが僕の机の上にどさりと夥しい量の資料を乗せた。かなりの重量があったであろう資料達を持ち出したにも拘らず、息一つ乱さないのは日頃の行いの違いだろうか。「これらを三日で習得しますよ」と息巻く姿を見て、「いやいや三日で学ぶ量として常識的じゃないだろう」と僕は内心突っ込むが、上官や先輩の出した課題をそう簡単に断れる訳もなく。持ってきた資料を第一部隊の二人で仕分けていくのを目にして、一日で習得すべき資料の分厚さに思わず鼻白む。

 資料の多さに辟易たじろぐ僕を物ともせず、ルカさんは机の前にホワイトボードを用意して「早速始めます」とばかりに侵蝕者イローダー講義の幕を上げた。

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