練兵に倣う灰滅-4-
「
「ハルちゃんさあ、この子の肩に
「まあ、
果たして、治療に要する時間が一時間というのが長いか短いかはよく分からないが、素人が見ても非常に短いのだろうことは、何となく察した。自分で自分の傷口を見て思うのだ。見るからにグロテスクな銃創に剥き出しの骨。これを治療し切るとなると数時間は掛かるだろうこと。そして、それを小一時間で処置するとなると、相当手際の良さと的確な措置が求められるに違いないことを。
しかし、まだ胸の内では疑心の渦が広がっていた。その技量が本当にテオさんの腕に備わったものであるのかどうか。故に、尋ねずにはいられなかった。
「治療って一時間で終わるものなんですか?」
「え? うん。異物の摘出後、患部を可及的に洗浄して、他の部位はデブリと創縫合した後、定期的に感染症予防のために抗生剤を投与すれば何とかなるかな。あーっと、デブリっていうのはデブリードマンの省略で……」
「いやもういいです。専門用語を羅列されてもよく分からないので、とりあえず治療をお任せします」
「ん? ああ、そう?」
傷口にイソジンと思われる茶色の液体を
「ハルちゃん。これ、本当に応急処置だけしかしてない……?」
「一般的な応急処置だけだ。……やっぱり俺の見間違いじゃねえ、よな」
二人して神妙な顔付きで向かい合う。
テオさんが言うには、今朝八時半頃に負った外傷にしては傷の治りが早過ぎるとのこと。時刻で言えば現在午前十時。素人目には治癒速度がどうのこうのと分かる訳もないのだが、玄人の目によれば通常の数十倍で治癒反応が進行しているらしい。あの暴行の嵐の最中、レンさんが怪訝そうに荒事の跡を見据え、眉根を寄せながらこちらに手を伸ばしていたのは、僕の尋常ならざる治癒能力の真相を確かめるためか。と、漸く確証を得る。治療の手を止めずにテオさんは僕の損傷痕を眺めるが、二人が頭を悩ませた疑問が解決することは、到頭なかった。
「実はもう一つ、テオさんのお知恵を拝借したい問題があるんですが」
「ん、何? 治療のついでだから聞いてあげるよ」
沈思黙考する彼を
「僕、記憶喪失みたいで、その記憶を取り戻すことがレンさん達第一部隊に同行する理由の一つなんですけど。記憶喪失になった原因を探る手立てとかって、医学的方面から見て何かないですかね?」
「いや、記憶障害や健忘症にも色々と種類があるから、どれに該当するか探求の余地はあると思うけど。え、何。ハッチ記憶ないの?」
「お恥ずかしながら。一応、レンさんの見立てでは、意味記憶が保持されたままエピソード記憶が障害された逆行性健忘症、らしいんですけど……。これに関しても今一よく理解できていないので、補足説明して頂けると助かります」
「オーケー了解。こんな面白検体なら、野郎に興味のない俺でも、俄然興味が沸いてきたよ。んじゃ、まずは記憶障害について説明しようか」
個人的なお願いであることは重々承知だが、幸いなことに、テオさんは二つ返事で快諾してくれた。面白検体というネーミング自体は頂けないが、医療に挺身してきた彼ならではの言い回しなのだろうと、渋々看過する。そんな僕の朧気な燻りを
曰く、記憶とは記銘・符号化・想起の三つの過程からなり、これらのいずれかでも害されると記憶障害が発生するという。また記憶は継続時間により二つに分類され、短期記憶:意識的に数分間覚えているものと、長期記憶:睡眠後や他のものに長時間集中した後でも覚えているものから構成される。更に記憶は内容により分類することもでき、エピソード記憶:時間・空間的な個人生活史の記憶で
健忘症とは主にエピソード記憶が障害されたものを言い、記銘障害とされる前向性健忘と想起障害とされる逆行性健忘に二分される。これら症状の発現に寄与するものとして、疾患性、外傷性、薬剤性、心因性などが挙げられるとのこと。
脳に重大な疾患や外傷がないか、薬物の過量投与の痕跡がないか、画像検査と血液検査を通じて、テオさんは手を尽くしてくれた。結果として判明したのは、脳腫瘍や脳梗塞等の脳疾患・脳挫傷・薬物乱用の可能性が極めて低い点から疾患性・外傷性・薬剤性の筋が消えた点であり、つまりは【心因性の健忘症である可能性が最も高い】という結論であった。
「ハルちゃんに捕獲される前の記憶が一切ないってことは、それ以前に重大な心因性ショックになり得る事件があったということになる。『それが何か』までは、医学で証明し切れないけどね」
僕が「なるほど」と首肯していると、「手短に説明したつもりだったけど、存外にハッチの理解度高くて驚いたよ。幼い割に随分とお利口さんなんだね」とテオさんが肩を揺らして哄笑する。これまでに僕と言葉を交わした数少ない一人であるレンさんも、「以外と理解力あるんだよな、コイツ。何気に博識だしよ」とテオさんの肩に肘を乗せて同調する。
これまで嫌と言うほど見下されていた僕が、評価されている――そんな事態に多少の違和感は拭えないものの、予想外の高評価に素直に喜べない訳ではなかった。
「ま、まあ。趣味の読書が高じたのかもしれないですね。博識といっても、知識自体付け焼き刃程度ですし……」
照れ隠しの如く、顔を逸らす。突然一変した二人の対応が、むず痒くて仕方がない。僕は話すらも逸らして、平常心を保つことにした。
「何が因果関係にあるのかまでは分かりませんが、少なくとも身体検査結果からこの身体が五体満足の健康体であることが分かった。それが分かっただけでも、これから記憶を取り戻す上での懸念点が、一つ消えました。感謝します」
記憶は欠失してしまったものの、身体は健康そのもの。記憶探しに支障は来さないものと考えた僕は、これが俗に言う【不幸中の幸い】なのだろうと、前向きに物事を捉えることにした。
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