「はるひな」解説 (昔話のリズムと「千夜一夜物語」と)

 昔話にはリズムがあります。


 昔話はそもそも、口承こうしょう、つまり語りの文学です。

 おばあが子供に語り聞かせる、といったことが代表的。

 文字で書かれた物語とは、根本的にそこが違います。


 読むのではなく、語る。

 読むのではなく、聴く。


 読み聞かせではなく、絵本もない。

 記憶に頼って語る。

 時に驚かせ、時に歌い。

 抑揚つけて。

 耳に心地いい語りのリズムが必要です、飽きさせないために。

 昔話はだいたい、子供のためにあるものですから。


 童謡「桃太郎」にも顕著ですよね。


「おこしにつけたきびだんご~♪」


 心地よいそれが3回続きますよね?


 繰り返されることでウキウキと心が躍ってくる。語りの世界に入り、まるで自分が桃太郎になったように、冒険へ旅立つような気持ちにもなる。

 繰り返されることによる安心感もあるでしょう。

 ああ、また仲間が増えるんだ! と、先の展開が読める。


 これが、読み物となればそうはいかない。


 昔話とはこういうものだといわんばかりに語り口調で描いても、


「また同じこと?」


 と、繰り返しのリズムでは飽きてしまう。

 単調な語りは文字には不向きです。

 誰も読んでくれません。


 枕草子まくらのそうしが好例。


「春はあけぼの……

 夏は夜……」


 繰り返しているようで、そうではない。列挙していくリズムは同じなのだけれど、文章としての美しさがまずあり、音読、黙読、いずれにしても「読む」からこその心地よさが追求されている。そこが口承「語り」を聴くのとは違うところ。しっかり、意識されているのですね。

 「竹取物語」など、昔話から題材をとったと思われる古典もまた、文字文学としてのおもしろさへと変換しているものです。

 語りそのままを文章に起こして保存しようとするのは学術的なものだけでいい。とは、拙作「エッセイ」でも語ったことです。それはそれでもちろん意味あること。そこから知的探求を深めるために。でも、大人はそれでもいいかもしれませんが、子供ならなおのこと、語りを読むのでは退屈。


 語りでのリズムと、文字でのリズムは変えなければ楽しめません。

 昔話は突拍子もないファンタジーゆえに、現代のすれた目線には耐えがたい。

 文字にして読めば、なおのことそれが際立ちます。

 そのうえ語り聞かせさえも少なくなっているなら、昔話がすたれるのも道理でしょう。

 それを寂しいと嘆くだけでなく、語りを文字物語に変換して昔話の楽しさそのものを伝えることも必要ではないでしょうか。


 今回、私は「千夜一夜物語」風で描いてみました。


 ちょっとブレイク。

 「千夜一夜物語」を簡単にご説明すると……


 昔、女性不信の王様がいました。

 不信はつのり、ついに夜毎、生娘を召しあげ、純潔を奪った挙げ句に殺してしまいました。

 このままではいけない。

 娘がいなくなる。

 ひいては国がほろびる。

 とある大臣の娘は案じました。

 秘策を胸に、意を決して王様のもとへ。

 ねやに入れば、おとぎばなしを語る。

 そして、いいところで朝が来たと終わらせて、

「続きを聞きたくないですか?」

 と、翌晩へ。

 あるいは、夜のうちに話を終わらせてもすぐに次の話へ。

 劇中話の、そのまた劇中話なんかもあったりして。

 のちに妹もまじえますが、千と一夜ぶっ通しで語ったわけではありません。

 子供も出来、生まれて、中断期間もありましたから実際には千夜よりもっと長い。


 自らの命を長らえさせようとしただけではありません。

 物語には王としての立ち居振舞いを訓戒くんかいするようなものも含まれていました。

 それを聴けば、自然と…… 

 王様のかたくなな心を長い時間かけて解きほぐしていたのです。

 悔い改めた王様は良き王となり、めでたしめでたしの結末に至ったというわけです。


 これを「はるひな」にも取り入れてみました。


 訓戒じゃないですよ?

 短く刻んで気をもたせ、かつ泣き虫鬼と女の子と、一日ごとに場面を交互に入れ換えました。

 飽きさせない演出としましたがいかがでしたでしょうか?


 最後はでも、あっさり。

 ある意味拍子抜け。


 それも昔話。


 過程は濃厚でも、玉手箱開けておじいさんになっておしまいとか、鬼退治して宝物持ち帰ってめでたしめでたしとか。今の目から見るとツッコミどころありまくりも、昔話の特徴の一つでしょう。


 その先はきっと、語りの外。

 「千夜一夜物語」のように、物語の外にも物語はあったはずです。


 続きをせがんだり、終わりに納得していなかったりする子に、


「おまえはどう思う?」


 と、語りのおばあは共に考えてくれていたはず。「千夜一夜物語」を語った彼女の思惑のように。


 日本の昔話は、農村の暮らしや山の掟のことを教える、伝える、教育の意味があったといわれます。それならなおさら、「めでたしめでたし」で終わりではなかったと、私は考えます。その先を共に考えることもワンセットで昔話として成り立っていたのではないでしょうか。子守唄かわりのお話もありますし、もちろん内容によりけりではあったでしょうが。

 授業だって、教科書開いて各個人が読んでおしまいでは何の理解も出来ない。答えの導き方の解説、それを先生が教えることこそ必要です。教科書読むだけで理解出来ましたってなるなら苦労はしません。


 しかし、それを文字文学でもとお仕着せすることはやはりできません。

 語りには語りの、文字には文字の良さがあります。

 リズムを同じには出来ないのです。


「そんな終わり、納得できるか!」


 語りと同じように「語りの外」をにおわせても、怒られてしまうでしょう。


 そこの反応は気になりました。


 レビューに「絵本のような」といただきましたが、まさにそれは意識していました!

 でもやっぱり、「カクヨム」様では絵を載せることは出来ない。


 この終わりでいいのだろうかと……。


「楽しかった」


 読後にそう言ってもらえると、ほっと胸を撫で下ろすのですが。


 web上で公開すると反応は返信でダイレクトにもらえるとはいっても、語り聞かせのように対面ではありません。

 子どものキラキラした笑顔で「おもしろかった!」と、それが見えるわけはないのです。


 今後も同様に、昔話の、語りのリズムを読み物でも何とか再現……、するかどうかは分かりません。ですが、昔話のおもしろさを伝えようとすることは続けます。口承ならではのそれを、どうすれば読み物としておもしろく出来るか、現代の目でも耐えられるものと出来るか。

 昔話と前置きするだけで、鬼が出てきても、犬猫がしゃべっても受け入れられる。

 理屈をいうとかえって不粋。

 その世界観は大切に伝えていきたいですし、それを純粋に楽しんでもらいたいからこそ。

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