【短編】黒猫の魔法
風雅ありす
第1話
「俺……医者になるの、やめるわ」
榎本 一哉は、白い息を吐くと共に呟いた。
「何言ってるのよ。もうすぐセンターでしょ。
後ちょっとくらい、がんばりなよ」
広井 結未は、一哉の言葉をほんの浪人生の戯言だと思って答えた。一哉は、黙って前を見ながら歩き続けた。
「一哉? ……本気なの?
大丈夫だって、次は絶対受かるよ。
一哉こんなにがんばってるんだもん」
一哉の顔が曇る。医者という夢を目指して、予備校とバイトの日々に耐え、ここまでがんばってきた。
しかし、それに何の意味があるのだろうか。
次第に一哉の歩くペ―スが上がっていく。
「医者になるのが夢なんでしょう?
一緒に医者になって病院開こうって、約束したじゃない!」
結未と一哉は、高2からの付き合いで、同じ医学部を目指していた。
しかし、結未だけが大学に受かってしまい、自分は浪人生というレッテルを貼られて取り残された。
一哉は無言のまま、歩幅を広げ続ける。その後から早足で着いてくる結未の説得が続いた。
「そうだ! ねえ、また昔みたいに、一緒に勉強しようよ。
夜、バイトが終わってから、一哉のアパートで。私、夜食作ってあげる」
ね、そうしよう、っと明るく励まそうとする結未に、一哉はいきなり立ち止まって怒鳴った。
「何をしようと俺の勝手だろ!」
結未の身体が硬直する。今まで何度か喧嘩をしたことはあったが、こんな一方的に怒鳴られた事はない。
「初めから医者になる気なんてなかったんだ。
お前が医学部受ける、って言うから……
特になりたいものもなかったし、別にいいかなって思っただけで……
お前はお前で、大学のサ―クルでも何でもやってりゃいいだろ!」
一哉の怒りに対し、結未は、返す言葉がない。確かに、大学へ行ってからの結未は、サ―クルで知り合った新しい仲間と過ごす時間が楽しくて、一哉と過ごす時間がめっきり減っていた。一哉の勉強の邪魔をしたくない、というのは建前で、本当は、自分だけが大学に受かってしまったことへの後ろめたさと、そんな一哉に向かって大学生活の話をしづらいというのもあり、自然と二人の間には距離が出来るようになっていた。
これまでもそれに気付いていて、気付かないフリをしてきたが、もうこれ以上隠し通すことは出来ない。結未は、今にもこぼれ落ちそうな涙を赤い顔をしてぐっと堪えていた。お陰で、一哉の見たくない顔を見なくて済む。
「もう、ほっといてくれよ」
一哉は、結未に背を向けてそう言い捨てた。結未の泣き顔を見るのが辛かった所為でもあった。背後で、小さく「ばかっ」っと呟く声がして、一哉は全てを失った。
(くそっ……)
背後に走り去るブ―ツの音を聞きながら、一哉はゆっくりと歩き始めた。まだ、これからどうするかは考えていない。ただ、考える時間は、これからたくさんある、そう思っていた。
その時、一哉の背後から耳を裂くようなブレーキ音と共に、何かがぶつかる鈍い音がした。振り向くと、一台の車の前に横たわる結未の姿があった。
「ゆみ!!」
一哉は横たわる結未に駆け寄ると、上半身を抱き寄せた。真っ赤な血が結未の頭から滴り落ち、一哉の腕を伝った。
「結未? 結未、ゆみぃ……!」
何度名前を呼びながら揺さぶっても、結未の反応はない。自分の吐息だけが白く濁っては消えていく。
でも、不思議と寒さは感じなかった。
一人の男が車から降りてきて何かを叫んでいたが、一哉の耳には入らなかった。周りを走る車の騒音やクラクションの音も、いつの間にか消えていた。
腕の中で結未の白い顔がひどく印象的だった。口を開く度に染まる白い息。
ただただ、真っ白な世界だった。
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