バビルサ

古博かん

前日譚 地獄の沙汰もガチャ次第

一、地獄より愛を込めて

「これより、死刑囚バビルサ・バルソビアの刑を執行する」


 淡々と死刑執行を宣言した執行人の合図と共に足元の土台が抜け落ち、全体重が余すことなく頸椎を圧迫したのは一瞬のことだった。


 これが中世なら見せ物として押し寄せた見物人たちの歓声に沸き立つところだが、二十一世紀の世の中ともなれば、監獄の一空間で粛々と行われた刑事罰の一つに過ぎなかった。

 引き取り手も居ない死刑囚のか細い骸は手筈どおりに簡素な棺に収められ、監獄に隣接する小さな教会の裏墓地に静かに埋葬された。


 バビルサ・バルソビア「元」伯爵令嬢、十三度目の鬼籍入りである。


「……」


 ポーンと放り出される感覚のあと芒洋とした仄暗い瞳を開くと、そこは、この十三度の間にすっかり見慣れた空間であった。


 ぼこぼこと不穏な音を立てて沸き立つ粘度の高い沼地に垂れ込める硫黄の臭気と鬱蒼とした視界の悪さにも、もはや驚きはない。

 この先に何が待っているかも熟知している。

 身にまとっているのは生前最期に着ていた囚人服ではなく、埋葬時に着替えさせられたと思しき死装束のようだ。胸元に刺繍された、由緒だけは正しいバルソビア家の家紋「有翼の乙女像ハルピュイア・コレー」ばかりが、虚しい自己主張をしている。

 野垂れ死んだ時は、ボロボロの衣服のまま薄汚れた姿でこの場所へ辿り着いたから、今回は一応、それなりに弔われたらしい。

 バビルサは静かに溜め息を一つ吐いた。


「少しは怖がるなり恐れ慄くなりしてもよいだろうに。すっかり常連の風格を纏いおって」


 沼地の奥から響いてきた重低音の声は三十年ぶりだが、懐かしさを覚える程度には聞き慣れたものだった。


「泥炭パックしながら言われましても」


 この異臭を放つ沼地が、温泉であることも承知だ。

 そこに浸かるごつごつとした岩のような双肩と、たわしと見間違うばかりのもじゃもじゃした頭髪、更にはずっしりと生える二本の大角は完全なる異形のそれだ。

 地響きのように轟く豪快な笑い声はビリビリと周辺の空気を振動させるが、慣れてしまえば恐ろしいとも感じなくなった。

 沼の主にして、この地獄世界の王。

 サタンだか、ルシファーだか、悪魔だか、魔王だか、さまざまな呼び名こそあれど、総じて抽象的絶対悪の象徴とされているアレだ。


「今回は随分とマシな格好じゃないか」

「そのようですね」


 まるで他人事のように答えるバビルサの反応は、回を重ねるごとに擦り切れて薄くなっているのか、もはや表情筋も最低限の仕事しかしないらしい。何の感慨も湧かないといった様子で、ただ静かに異音を奏でる泥温泉を漠然と視界に捉えているだけだ。


「まるで屍蝋しろうだな、面白味のない」

「屍蝋に面白味を求めないでください」


 視線の先で不規則に人頭大の気泡を噴き上げる泥面を眺めて手を差し出すバビルサは、何のてらいもなく沸き立つ泥炭に片手を突っ込んだ。

 途端、しゅうしゅうと耳障りな音と共に蒸気が立ち上り、青白い手が泥に染まる。生身の生物なら今の一瞬で溶けてしまうであろう地獄世界の泥温泉も、死んだ身には、さしたる脅威にはならないということを既に学んでいる。


「やれやれ」


 沼の主はガシガシと大袈裟に自身の剛毛を引っ掻くと、そのまま鋭い爪を持つ岩のような掌で軽々とバビルサを沼に引き入れた。

 心構えもなく引っ張られたバビルサは刹那、痩身を強ばらせたが、いざ首から下が泥に埋まると諦観した様子で、じっとされるがままになっている。頭から滔々と泥を浴びせられても、少々不満げにしながら大人しく黙っていた。


「かけらも驚きもしないか」

「今更ですから」

「今更だったな」


 泥の塊と化した元伯爵令嬢の頭をわしわし撫でる掌だが、一つ間違えばアイアンクローをかましているようなものだ。死んでいるからこそ無事でいられる矛盾にも、とっくに慣れてしまった。


「いったい、いつまで繰り返せばいいんでしょう。わたしのごうとやらは、どこまで深いんでしょうか」


 過去十三度の死を振り返り、バビルサは少々嫌気がさした声音で呟いた。


 一番最初は、確かに業と呼べそうだった。

 些かの理不尽を被ったとはいえ、恋敵となった身内を完膚なきまでに叩きのめして追い詰め、あと一歩のところで逆襲を受けて命を賭した。

 犯してしまった罪の数々に対して弁明するつもりはない。


 だが、なぜか二度目のチャンスが与えられ、同じ轍を踏むことのないよう慎重に振る舞っても結果は同じだった。

 改心したと言うつもりはない。

 気に入らないものは、どうしたって気に入らない。そこを譲るつもりは毛頭なかった。


 三度目、四度目と繰り返す中で、逐一、目の敵を追い回すことにも飽きてしまい、対応を少しずつ変化させながら軋轢を生じない程度に友好的に接しようが、極力接触を避けようが、結果はどれも大差ないことを痛感した。

 唯一、僻地に送られ幽閉先で老衰を迎えた時以外は、概ね獄中死、刑罰死、暗殺、時々事故死のいずれかに集約されてきた。


「喜べ。次が正真正銘の最後だ」

「本当ですか」


 屍蝋人形の如し芒洋とした両眼に俄かに光が宿った刹那、それは疑りの眼差しに変わった。


「状況をお伺いしても?」

「逐一、説明するのは七面倒くさい」


「それが、仮にも地獄世界の王とやらの言動ですか」


 肯定すれば、ただただ沸き立つ泥温泉に浸かりながら泥炭パックをしている巨大な異形の岩塊でしかない。


 じっとりと生気のない目で睨みつけてくるバビルサを横目でチラリと一瞥してのち、抽象的絶対悪の権化は長い爪で虚空に何やらを指し示すと、濃く立ち込める霧で閉ざされた空間がポッカリとスクリーンさながら、似たような地獄絵図を展開し始めた。


 そこには、鋭い牙と角を持つ鬼女か雌型めがたの悪魔かという異形のものが浮かび上がり、似たような溶岩温泉に、首までとっぷり浸かりながら火の粉を散らして喚き倒している亡者がいた。

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