地獄変

芥川龍之介/カクヨム近代文学館

 堀川の大殿様のような方は、これまではもとより、後の世にはおそらく二人とはいらっしゃいますまい。うわさに聞きますと、あの方のご誕生になる前には、だいとくみようおう(いっさいのどくじやあくりようを降伏させるふんぎようそうの仏)の御姿が御母君の夢まくらにお立ちになったとか申すことでございますが、とにかくお生れつきから、なみなみの人間とはお違いになっていたようでございます。でございますから、あの方のなさいましたことには、一つとして私どもの意表に出ていないものはございません。早い話が堀川のおやしきのご規模を拝見いたしましても、壮大と申しましょうか、豪放と申しましょうか、とうてい私どもの凡慮には及ばない、思い切ったところがあるようでございます。中にはまた、そこをいろいろとあげつらって大殿様のご性行を始皇帝(中国最初の統一国家・秦の第一世皇帝)やようだい(大運河をかいさくした隋の第二代皇帝)に比べるものもございますが、それはことわざにいう群盲の象をなでるようなものでもございましょうか。あの方のおおぼしめしは、けっしてそのようにご自分ばかり、えい耀よう栄華をなさろうと申すのではございません。それよりはもっと下々のことまでお考えになる、いわば天下とともに楽しむとでも申しそうな、だいふくちゆう(太っ腹)のご器量がございました。

 それでございますから、二条大宮の百鬼夜行におあいになっても、格別お障りがなかったのでございましょう。またみちのくしおがまの景色を写したので名高いあの東三条のかわらのいん(宇治平等院を営んだ平安初期の貴族・みなもととおるが築造した邸宅)に、夜な夜な現われるといううわさのあったとおるの左大臣(源融のこと)の霊でさえ、大殿様のおしかりを受けては、姿を消したのに相違ございますまい。かようなご威光でございますから、そのころらくちゆうの老若男女が、大殿様と申しますと、まるでごんじや(民を救うために仮にあらわれた仏の化身)の再来のように尊み合いましたも、けっして無理ではございません。いつぞや、内の梅花の宴からのお帰りにお車の牛がはなたれて、おりから通りかかった老人にけがをさせました時でさえ、その老人は手を合せて、大殿様の牛にかけられたことをありがたがったと申すことでございます。

 さような次第でございますから、大殿様ご一代の間には、後々までも語り草になりますようなことが、ずいぶんたくさんにございました。おおあえ(大宴会)の引出物にあおうまばかりを三十頭、賜ったこともございますし、ながの橋の橋柱にごちようあいわらべを立てたこともございますし、それからまた(漢末・魏初の名医)の術を伝えたしんたん(古代インド人による中国の異称)の僧に、おんもももがさをお切らせになったこともございますし、──いちいち数え立てておりましては、とても際限がございません。が、その数多いご逸事の中でも、今ではお家の重宝になっております地獄変のびようの由来ほど、恐ろしい話はございますまい。日ごろは物にお騒ぎにならない大殿様でさえ、あの時ばかりは、さすがにお驚きになったようでございました。ましておそばに仕えていた私どもが、魂も消えるばかりに思ったのは、申し上げるまでもございません。中でもこの私なぞは、大殿様にも二十年来ご奉公申しておりましたが、それでさえ、あのようなすさまじいものに出あったことは、ついぞまたとなかったくらいでございます。

 しかし、そのお話をいたしますには、あらかじめまず、あの地獄変の屛風を描きました、よしひでと申すのことを申し上げておく必要がございましょう。

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