第5話

五話


「ここは、どこじゃ?」


平蔵はどこからか、自分の名を呼ぶ声が聞こえてきたと思った後、しばらくすると長いトンネルを潜り抜けるような感覚に襲われた。


そして気がつくと平蔵はモヤのかかった空と薄暗いところに立っていた。砂利が敷かれた河川敷のようなところだと理解できたのは目の前に大きな川が流れているのが見えてからだ。


「も、もしや、あれが、さ、三途の川か?」


平蔵は川のそばで立ち往生し、周囲を見渡してみる。


三途の川はとても大きな川でまるで一級河川のようだ。


「ここを渡れば、もう戻れんのか……」


まだ死ぬのはいやじゃ、


平蔵はどうにか地上世界に戻れないかと後ろを振り向いてみるが、その向こうは薄暗く先が見えない。迫り来る闇、そして周囲は霧が立ち込めており、とても元の場所、かつての自分の家に戻れる気がしない。


仕方なく平蔵は再び三途の川に目をやった。


「もうこの川を渡るしかないんか……しかし、濡れるのは嫌じゃのう」


平蔵が川を渡るためにはそのまま川に入らなくてはならない。しかし直接川に入りたくない平蔵は周囲を見渡した。


「渡舟はないのかのう」


平蔵はそのまましばらく川のそばをウロウロして砂利道を歩き続けた。


そしてようやく舟を見つけた平蔵は船頭に乗せてくれと頼むと、船頭は金を払えと言う。


平蔵は白装束を着ており、袖や懐のあたりを弄るが、金らしきものはまったくもって見当たらない。金はないと言った矢先、なら諦めなと断られてしまう。そして気がつけば舟はすーっと川のむこうへ渡っていってしまった。


「ふんっ!なんとケチな奴じゃ!」


タダで乗せてくれてもよかろうにと平蔵は不貞腐れながらおもむろに小石を拾い、腹いせとばかりに石を川に投げつける。


小石は三度水面を跳ねるとそのまま川の底に沈んでいった。


平蔵がまたしばらく歩くと三途の川に架かった橋を渡る人が見える。


「おー!渡る橋もあったんか!」


平蔵は喜び勇んで橋の方に向かって走り出した。


しかし、平蔵がいくら走り続けても、橋にはまったく辿り着けない。


「な、なんでじゃあ!?」


平蔵はくたびれたのか走るのをやめてヨタヨタと歩き続けた。


そしていつのまにか川に霧が立ち込めると橋は姿形なく消えてしまった。


「もう、川に入るしかないんかのう」


平蔵は仕方なく諦めて、とうとう川に我が身を投げ入れる。


「つ、冷たいのう」


水の中はひんやりと冷たいが川の流れは穏やかで川底もそこまで深くはないようだ。

平蔵が少し川を歩いたところでふと川底をみるとなんと自分の持っていた財布や預金通帳が沈んでいるのが見えた。


「わ、わしの財布じゃ!なぜこんなとこにあるんじゃ?」


平蔵は川の中に潜り財布を取り戻そうと躍起になる。


しかし、いくら川底に手を伸ばすものの、財布にはいっこうに届かず、通帳も指先すら触れることができない。


平蔵は小一時間ほど潜り続けていたが、財布に気を取られ過ぎたせいか、今度は足を滑らせて溺れてしまった。


「がっ!がふっ、お、だ、誰か、た、助けて、くれえ!」


平蔵はすでに死んでいるのだから溺死することもないのにも関わらず、そんなことも忘れてしまったのか、藁にもすがるように手足をばたつかせて独り足掻いていた。


たとえ大声で叫んでも誰も助けにも来ない。

そして水の中に沈んでも死ぬことはない。

気がつけば川の底に沈んでいた。


平蔵は起き上がるように川底に足をつけると、なんとかつま先立ちで移動できることがわかった。


昔は泳ぐことができたはずなのだがと平蔵は呟く。

今の平蔵には泳ぐことさえできない。

身体が重たくて水に浮かばないからだ。


平蔵は仕方なく川底を歩くように川を渡ることにした。


向こう岸まであと十メートルあたりで、誰か知らないが平蔵を呼ぶ声が聞こえてくる。


「おーい、早くこっちへ来いよおー!」

「だ、誰じゃ?」


平蔵は川の向こうを見るとうっすらと霧が立ち込めているものの、手を振る人影が見える。


「平蔵!早くこっちへ来いよおー!」


姿はハッキリ見えないものの、声だけは鮮明に聞こえてきた。

しかも、どことなくだが、平蔵にとってこの声は懐かしい声に感じる。


「ん?あの声は、まさか」


平蔵が目を凝らして川岸を見ると手を振っていたのはなんと平蔵の祖父であった。


「じ、じいちゃんやないか!!」

「平蔵、こっちじゃあ!はやくこっちへこいよー!」

「おお!じいちゃん!今行くぞ!」


平蔵はずぶ濡れになりながらも何とか手足を動かして少しずつ川を渡り、長い時間を経てとうとう川を渡りきった。


「ぜえ、ぜえ……」


全身ずぶ濡れで服はびちゃびちゃと平蔵の細い体に張りついている。


「平蔵、さっさと服を脱いでこの木にかけてあけ、さあここに来て焚き火に当たると良い。寒かろう」

「じいちゃん、ずいぶん久しぶりやな。なんでここに来とるんじゃ?」

「平蔵が死んだから迎えに来たんじゃ。まあ、ここから先はまた一人で行かんといかんのだがな」

「えー!?そうなんか!?」

「まあ、仕方なかろう。これも死者の決まりじゃからな」


平蔵の祖父竹蔵は木の枝にかけた平蔵の服を見た。

枝は平蔵の服の重さに耐えかねるかのようにグニャっと下の方に曲がっており、それを見た竹蔵は大きくため息を吐いた。


「平蔵、オマエ、ずいぶんと苦労したんじゃな」

「そうじゃ、いやあ、さすが、じいちゃんはわかってくれるか!」

「うむ、苦労が滲み出とる。まあ、この先も少し大変かもしれんが頑張るんじゃぞ」

「おお!じいちゃんにも会えたからな。まあ、一人でも大丈夫じゃ!今までも一人で頑張ってきたんじゃ!これくらいどうってことないわい」


平蔵は祖父の前だからか、威勢を張ってふんぞり返った。


それを見た竹蔵は優しそうな目で、そして少し憐れむような、どこか寂しそうな表情かおをしている。


平蔵は祖父と話終えた頃には服はすっかりと乾いていた。普通に考えれば乾くのが早いと思うのだが、平蔵はそんなことも気にせず再び白装束を身に纏う。


「平蔵や、オマエさん、これからこの道を行きなさい。そうすれば次の関所が見えてくるじゃろう」


竹蔵はいくつかある道のひとつを指差して平蔵に道案内をしてくれた。


「おお、わかった。じゃあ、じいちゃんまたな!」

「おお、平蔵も達者でな」


平蔵は祖父と別れを告げると祖父の言われた通りの道を進んでいった。


竹蔵は平蔵の勇ましく歩く後ろ姿を見送りながら小さな声で呟いた。


「あの馬鹿息子もまだ地獄から帰ってこれんからなあ。平蔵だけでも、早く戻ってきてくれるといいんじゃが」


竹蔵は平蔵の行く末を案じた。

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