奸計

夏檸檬

奸計

 東京郊外にある職場の近くの小さな酒場には、無秩序な騒音が満ちていた。俺は六杯目のチューハイを飲み干し、意味もなく笑みを浮かべる。少し気持ち良くなってきた。

 六人掛けのボックス席には、俺の他に三人の人間がいた。入店してから一時間半が経過しているので、卓上には冷めた焼き鳥が残り、空き皿も積み重なっている。止むことのない談笑を続けている彼らは、全員が同じ会社の同僚だった。プロジェクトにキリがついた打ち上げ、ということらしいが、そもそも酒飲みが多い会社である。いつ何時でも、何か理由をつけては飲みに出かけていた。俺たちの会社は数年前に立ち上がったばかりの小規模なベンチャー企業だが、最近ようやく事業が軌道に乗り始めたところだった。それもあってか、一人で酒を飲むことが多い俺も今日は少し満足げだった。いつもよりも酒が進んでいる。枝豆をちびちびと頬張りながら、また注文したばかりのビールを勢いよく流し込んだ。

 ちらりと隣の席を見ると、この店の名物らしい牡蠣が入った雑炊が並んでいた。柔らかな香りが鼻腔を突き、なくなりかけていた食欲を刺激する。俺も食べたいな、とぼんやり思い、メニューを開く。

 そんな俺の前の席では、二人の男が大学生のサークルのような会話を繰り広げていた。

「おい櫻井、もっと飲めよ。全然飲んでねえじゃねえか。俺が注いでやろうか?」スーツの袖を大きくまくり、顔を赤くして酔っぱらっている男性——課長は、そろそろ本気で嫌がりだした後輩にしつこく酒を勧めていた。

 課長は三十四歳の若さでこの会社のナンバーツーとして働くエリートだった。有名国立大学を卒業しているため、その気になればもっと大きな企業に就職することも出来ただろうが、「友達が起業するって聞いたからついてきた」と言って今の社長と一緒に会社を立ち上げたらしい。頭の回転が速く俺たちからとても頼りにされているが、酒にはめっぽう弱く、一杯飲んだだけですぐに顔が赤くなる。そのくせ沢山飲もうとするから、いつもどこかで吐きそうになっていた。この前も路地裏で吐きかけていた課長を俺が介抱したばかりだ。

「俺酔わないだけでそれなりに飲んでます、ってさっきから何回も言ってるんですけど。……というか課長はいつも飲みすぎです。また駅とかで吐かないでくださいよ」

 詰め寄られていたのは、後輩である櫻井だ。入社三年目で俺より二つ年下、彼も仕事が早く、またコミュニケーション能力も高い。そして、飲み会の度に酔った課長の相手をする係だった。最近は慣れてきたようだったが、止まない攻撃に少し苛立ちが見え始めている。

 ちなみに、櫻井が言う「課長」というのは愛称だった。彼は実際に課長という役職についているわけではなく、そもそもこの会社にそんな位は無いのだが、以前誰かが社長に「先輩はこの会社でどういった立場なのですか?」と訊いたところ、「まあ、課長みたいなものじゃないか?」という適当な返事をされたのがこの呼び名の由来である。彼はいつの間にか課長になっていたことに最初は困惑したようだったが、今はもう全く違和感もなくなってしまった。社長も今日はお呼びしたかったのだが、いつものように忙しいらしく「別に僕のことはいいから楽しんできてね」と言われた。社長以上に酔った課長の扱いが上手な人間はいないのだが。

 櫻井の言葉を聞くと、課長は頬を火照らせたまま天井を仰いで笑った。「ハッハッハッハ、吐くわけねえだろ櫻井、俺今日はそんなに飲んでねえよ。ほらほら枝豆も食べろ」そう言って課長は枝豆の皿を櫻井の前に寄せる。俺が食べていた枝豆なのだが。

「いつもと同じくらい飲んでますし、呂律も回らなくなってきてますよ、課長。その枝豆も伊藤さんが食べてましたし。あと周りの人に迷惑なので大きい声で笑わないでください」櫻井は言う。

「え? ああ、ごめんごめん。伊藤もすまん」そう言いつつも課長は皿を櫻井に押し付け続ける。こちらの話を理解しているのかすら怪しい。

「……課長、もう帰った方がよくないですか、伊藤さん」

「ああ、そうみたいだな」

 時計を見ると、時間は深夜10時半を回りかけていた。そろそろ終電も近い。さすがに課長がこれ以上飲んだら歩けなくなりそうな予感がした。俺は最後にもう一品頼もうかと思っていたが、櫻井の言葉を聞き、メニューを開いていた手を止める。

 しかし、ここで口を挟んだのは俺の隣に座る天使だった。

「えー、まだいいじゃないですか。あとちょっと飲みましょうよー」

 俺たちの会社の天使——谷町紬希は、駄々をこねる子供のように言った。櫻井と同期入社の彼女はこの課の紅一点で、快活で几帳面だが天然なところもあり、社内のマドンナとして人気である。そして何より——。


 抜群に可愛い。


 整った目鼻立ちは言うにも及ばず。睫毛が綺麗で長い所も、背が小さい所も、酒に酔った時に「にへらっ」と気の抜けたように笑う所も、存在そのものが愛嬌に満ち溢れている。そもそも俺は紬希と一緒に飲むために飲みに来ているといっても過言ではない。

 だが俺はそんな感情はおくびにも出さず、「あ、そう? 谷町さんがそう言うならもうちょっと飲んでも良いけど」と言い、仕舞いかけたメニューを開く。

「いや伊藤さん、もう帰りましょう。課長死んじゃいますって」俺が急激に手のひらを返したせいか、櫻井が裏切られたかのような目で見てきた。

「課長が急性アルコール中毒になりかけているのはいつもの事じゃないの?」

「いやそれはそうですけど……っていうリアクションが出てきちゃ駄目なんですけどね。課長、もうちょっとお酒セーブすればいいのに……。まあそれだけじゃなくて、紬希もそろそろ出来上がってますよ。ただでさえいつも二日酔いで次の日グロッキーになってるのに」

 確かに、紬希の口角は伸び切ったゴムのように緩くなっていた。紬希も課長と同じく、自分のキャパシティと後先を考えずに飲むタイプだ。こんな状態になるのも珍しいことではない。まあ、そこが可愛いのだが。

「いや櫻井くん、私酔ってないよー。最近お酒セーブしてるもん」そう言って彼女は怒ったように頬を少し膨らませる。自覚なく俺の心臓を確実に射止めにきた表情だった。

「確かにそうかもしれないけど、それでもしっかり酔ってるよ。終電逃しちゃったら面倒だし、そろそろ帰ろう。……ちょっと課長、ここで寝ようとしないで下さい!」気付くと、課長は背もたれに全体重を預けてアルコール由来の睡魔に飲み込まれそうになっていた。

「えー、もうちょっとだけー」櫻井が新たな問題に襲われたことは気にも留めず、彼女はまさに天使のように上目遣いで訴える。

 しかし、そろそろ収拾がつかなくなってきたので、俺は櫻井に助け舟を出した。

「はあ……。まあ、もういい時間だし、帰ってもいいんじゃないか?」

 そう言うと、櫻井は明らかにほっとしたような顔をした。

「ほら、伊藤さんもこう言ってることですし、帰りましょう、二人とも。ほら、とりあえず紬希は水飲んで」

「あー、んー」

 櫻井は俺の前に置かれていたコップ一杯の水を取り、紬希に飲ませた。

「んー、これお酒ー?」

「違うよ。やっぱり酔ってるし……」櫻井は呆れと、少しの慈愛で満たした溜息を吐いた。最近聞いた話なのだが、櫻井と紬希は同じ大学で知り合いだったらしく、そのおかげで仲が良いそうだ。嫉妬しないことも無いが、仲睦まじい二人のやり取りを見るのはいつも少し楽しかった。

 しかし、次に櫻井が発した言葉は俺の全く予想外のものだった。「そういえば伊藤さん、薬は飲まなくていいんですか?」

 突如自分に向けられた言葉に、俺は少し動揺した。閉じたままのカバンを持ち上げたまま、俺は思案する。

「薬……って何の話?」

「いや、今日会社で先輩のカバンをちらっと見た時、薬がたくさん入ってるように見えて。胃腸薬か胸焼け用の薬かと思ってたんですけど。……あ、別に見ようと思って見たわけではないんですけど……」勝手にカバンの中を見た、ということを自白していることに気付いたからか、途中から櫻井は少し言葉に詰まった。

「ああ……。いや、別にいいよ。胃腸薬ってわけでもないし」

「そうですか。それならいいんですが。……立てますか、課長、紬希。もう帰りますよ」

 櫻井は何事も無かったかのように二人を立たせ、レジへと向かい始める。俺はカバンを大事に抱え、櫻井の後に続いた。

 会計を終えて(課長が到底金を出せる状況ではなかったので俺が立て替えた)外に出ると、生暖かい風が顔を撫でた。熱帯夜だ。もう九月だが、まだ残暑は厳しい。肌に纏わりつくような湿った空気に、汗が流れそうである。

 ギリギリではあったが、何とか二人とも駅までは歩けるようだった。やはりもう一杯頼まなくて正解だったようだ。課長は割と大きい音で鼻歌を歌っているために通行人の注目を集めているが、まあいつものことだ。これでも普段は活躍しているのだが、きっとそうは見えないでしょうね、と櫻井は言って苦笑した。

 しかし、先ほどから明らかに紬希の様子がおかしかった。足取りが全く覚束ないのだ。まるでただ酔っているだけではないような、そんな歩調だった。気を抜くと車道に飛び出してしまいそうである。駅はもう近いのだが、見かねた櫻井が言った。

「おい紬希、大丈夫? すごいふらついてるけど」

「うん……。ちょっと眠くって……」そう答えた紬希の目は殆ど開いていなかった。意識がはっきりしているかも怪しかった。

「谷町さん、このまま帰らせると危ないかもしれないな。俺、送っていこうか?」俺は、心配そうに紬希を見る櫻井に提案した。彼は答える。

「そうしてくれたら助かりますけど。でも伊藤さん、紬希の家知ってるんですか?」

「まあ、大体の場所くらいは。何かあった時のために住所は控えてるから、送っていけるけど」

「でも、先輩の家って逆方向じゃありませんでしたっけ」

「まあそうだけど……。お前も疲れてるだろうなと思って」

 俺がそう言うも、櫻井は難しそうな顔をした。

「いや、さすがに申し訳ないです。俺は同じ方面なんで、俺が送っていきますよ」

 そうか、と俺はすんなり引き下がった。「課長はどうする? 俺が一応ついていった方がいい?」

「課長は帰巣本能強いので大丈夫だと思いますけど、もし行方不明になったりしたら社長にキレられますね……。お願いしてもいいですか?」

「ああ、了解した」

 そんなことを話しているうちに、駅はすぐ近くまで近づいてきていた。俺と課長はJRに、櫻井と紬希は地下鉄に乗る。

「じゃあな、二人とも」「お疲れさまぁ……」別れ際、俺と課長は二人に向かって言う。時間が経つにつれて鼻歌が小さくなっていったことから、どうやら課長もシャットダウン寸前のようだ。

「ありがとうございました。また明日ですね」俺たちの挨拶に返事をしたのは櫻井だけだった。紬希は今にも倒れ掛からんとするほど朦朧としている。もう俺の声は届いていないらしい。

「本当に大丈夫ですかね、紬希。さすがに不自然すぎる気もするんですけど」櫻井は最後まで心配そうである。

「酒を飲んでいればそんな経験をすることだってあるだろ。疲れが溜まっていたのかもしれないしな。まあ、しっかり家まで送り届けてやれ」

「……はい、分かりました。それでは」釈然としない様子ながら、彼は紬希の手を引いて去っていく。櫻井の肩に頭を寄せて歩く紬希を、俺は見送る。やっぱりちょっと嫉妬するな、と思いながら。




 私、島田望が「相談があります」と紬希に呼び出されたのは、会社の皆(私と社長以外)で飲み会を開いたらしい、その次の日の事だった。

 オフィスに申し訳程度に備え付けられた、小さな休憩室である。大きく開けられた窓の外では、ようやく秋らしくなり始めた気温のもとで多くの車がエンジンをふかしていた。

「急に相談なんて、何かあったの?」コーヒーをわざわざ二人分入れてきてくれた彼女に私は問いかける。前に座る紬希は、あどけなさの残る可愛らしい顔を二日酔いの頭痛にしかめながら、おずおずと口を開いた。

「こういうことを言うのもどうかと思うのですが……。なんか、ちょっと怪しいと思っているんですよ。櫻井君のこと」

 櫻井? 予想していなかった第一声に、私は、今日も熱心にパソコンに向かっていた彼の横顔を思い出す。

「どうしたの、藪から棒に。怪しいって何が? 仕事の出来?」私には、特に思い当たる節はなかった。

「いや、それは申し分ないと思いますけど……」そう言ったところで、紬希は少し口ごもった。きょろきょろと辺りを見回する。誰もいないことを確認しているようだった。

 言いにくいことか、と私は少し身構えた。紬希がこのようなことを言い始めるのは珍しい。誰もいない事を確認し、ようやく決心がついたらしい彼女は、おずおずと口を開いた。

「望さんも知っていると思いますが、昨日皆で飲みに行ってまして。私と課長はまた酔ってしまって、それを櫻井君と伊藤さんが介抱してくださいました」

 ここまではいつも通りの飲み会である。私は滅多に行かないが、三か月ほど前に一度行った時もそのような構図だった。

「正直なところあまり記憶は残っていないのですが、いつもと比べて少し不自然だったような気がするんです」

「……毎回のように記憶を失くすほど飲むのはどうかと思うけどね」私が率直な意見を述べると、紬希はばつが悪そうに

「……至極もっともです」と言った。

「で、何が不自然だと思ったの?」私は続きを促す。

「あー……この会社に入って、頻繁に飲み会に行くようになってからそろそろ三年半なんですけど。そろそろ私も、飲みすぎるのは良くないという事に気が付きまして。最近はお酒の量を制限するようにしてるんです」そう言って紬希はコーヒーを啜った。この前聞いたところ、少しは頭痛を収めるのに役に立つらしい。

「あ、そうなんだ。まあ、仕事にも影響するしね。その割には、今日も二日酔いみたいだけど」

「あー、はい、違和感はそこなんです。私、本当に飲む量を減らしているんです。昨日だって、私はジョッキ二杯しか飲んでいません。経験上、その量では、酔いはしても記憶を失くすまではいかないはずなんです」彼女は力説する。

「はあ……。それが、違和感なの? たまたま昨日は調子が悪かっただけなんじゃなくて?」それだけでは違和感という程でもない気がするのだが。

「その可能性もあると思いますが、違和感はもう一つあります。実は私、昨日店を出たところまでは覚えているんですよ。記憶が無いのは帰り道の途中からなんです」

「……それが何かおかしいの?」

「よく考えてみてください。もしも酔い潰れて記憶が無くなったのだとしたら、店の中から記憶が無くなるはずじゃないですか。自分の限界を超えた段階か、眠りに落ちた段階で。でも、私の記憶は帰り道を歩いている途中から抜け落ちてるんです」

 私はあまり酒が好きではないため、紬希の感覚はあまり理解できなかったが、それでも言いたいことはなんとなく分かった。「歩いてる途中で寝た……っていうのはさすがに厳しいか」

「はい、多分それはないと思います。さっき伊藤さんに店を出た後の話をそれとなく聞いたら、結構眠そうだったらしいですけど。で、ここからの話はあくまで推測にしか過ぎないのですが、酒を飲んだ後ではなく店を出た後の記憶がないということは、今回の記憶喪失はアルコールが理由ではないんじゃないか、と思うのです」

「うーん。それで? それがどう櫻井と繋がるの?」私は続きを促す。

「朝起きたら、ベッドの上で裸でした」

「…………」

 その一言で、私は紬希の懸念を察知する。酔いつぶれた状態で、自分が自ら服を脱ぐだろうか、と考えているのだろう。

「……まあ事情は分かったよ。で、何で櫻井が怪しいってことに? 大学の同級生なんでしょ?」

「これも伊藤さんに聞いた話なのですが、駅に着いた後は櫻井君が送ってくれたみたいで……。でも、さすがに一人で家に入って下着まで脱いで寝てるなんて、そんなことないと思うんですよ」

「自分はそんな人間ではない、と」

「そういうことです。酔って完全に記憶失くした状態でもちゃんと服着て寝てましたし」

 ふむ、と私は考え込む。紬希が言っていることが本当であれば、櫻井だけではなくこの会社自体の存亡に関わる大問題である。

 ——本当であれば。

 きっと彼女は今、疑心暗鬼の毒に心ごと毒されかけている。ナイーブに包んではいるが、きっと身体自体にも何か異変があるのに違いない。その気持ちは痛いほどに理解できた。だが、生憎私は感情だけで話せるような人間ではなかった。

「……紬希ちゃんの言いたいことは分かるよ。すごく不安なのも想像できる。でもね、それはちょっと被害妄想が過ぎるんじゃないかな、って私は思う」私は彼女を傷付けないよう言葉を慎重に選び、優しい声色で言った。

 だが、彼女の顔に陰が差すのはやはり止められなかった。「……どうしてですか?」

「紬希ちゃんは、飲んでる最中に何か——まあ例えば薬を盛られるとかして——その上で君を家に送り届けるふりをして家に侵入され、そう……まあ……ふしだらな行為をされた、と。そう言いたいわけでしょ?」

「平たく言えばそうです」

「んー……。正直なところ、私は櫻井がそんな奴だとは思えないんだよね。大学からの付き合いの君に比べればまだ浅いかもしれないけど、一応私もこの会社の人間として彼を三年くらい見てきている。その上での判断だよ。もちろん、紬希ちゃんを信用してないわけじゃない。でも、彼は法を——というか君を、犯すような人間じゃないと信じてる」私はきっぱりと言った。「というか、紬希ちゃんも今日いきなり櫻井を疑い始めたわけじゃないでしょ? きっかけは何だったの?」

 紬希は逡巡し、少し経ってから口を開いた。

「……最近、私ストーカーに遭ってるみたいなんです」

 私は息を吞む。とうとう、会社内にすら収まらない事件性を帯びてきた。

「……いつから? 警察に相談は?」

「一か月ほど前からです。警察にはまだ、言ってません。ストーカーと言っても実際に見たわけではなくて、そこまで被害が大きくはないので……」

「被害の大きさどうこうとかじゃないよ。内容は?」予想外の告白の連続に、私はつい言葉を急かしてしまう。

「それが、最近やたら匿名で物が送られてくるようになったんです」

「物って? まさか凶器とか爆発物じゃないよね……」

「いえ、スナック菓子とか、風呂掃除用の洗剤とか、四色ボールペンとかでした。ですが……」

「ですが?」

「その全部に『愛してる』と何回も、何回も書かれた紙が同封されてました。二日に一つくらいのペースで送られてきますが、気味が悪くて最初の三つを開けた後は全てそのまま捨てています」

 私は嘆息する。急にこんなことを相談してくるなんておかしいと思ったのだ。彼女にとってこの事件は昨日今日の話ではなく、一か月前からずっと続く悩みの種だったのだ。その種が今日の朝、一気に発芽した、ということだ。

「でも、それが何で櫻井に繋がるの? 紬希ちゃんの住所くらい知ってる人もたくさんいるでしょ?」

「確かに、住所だけなら、確かに知っている人はそれなりにいます。ですが、最初は宅配便だけだったのが、一週間くらい前から電子メールやFAXでも送ってくるようになったんです。『愛してる』と何回も打った文章を。私の住所と電話番号とメールアドレス、全部知っている人はそんなに多くいません。家は数か月前に引っ越したばかりですし、固定電話もメールも櫻井君を含めた大学の友達数人にしか知らせてないのに……」

 話に熱中する紬希を前に、私は休憩室の周囲に誰もいないことを確認しながら考える。確かに、状況証拠は全て櫻井を示しているように思える。最初の話だけでは、櫻井犯人説はさすがに論理が飛躍しすぎているように思えたが、この話を聞くと、彼女が彼を疑うのも無理はないと、そう感じる。

 私は再び午前中の彼の顔を思い出す。仕事の速さはいつも通り、変わったところはないように思えた。それは彼が無実だからなのか、あるいは——。

「そして、極めつけは一昨日のラジオです」

「ラジオ? ……ああ、そういえば紬希ちゃん、よくラジオ聞くって言ってたっけ」

「はい、そうです。で、最近私がよく聞いている音楽系の番組があるんですけど、その番組のコーナーの一つにリスナーのリクエストした曲を流すっていうのがありまして……。ちょっと、とりあえずこの音源聞いていただけますか」

 彼女はそう言ってスマートフォンを開き、素早く操作すると、ある録音を流し始めた。どうやらこれが、一昨日流れていたその番組らしい。

 落ち着いた雰囲気の音楽の中、ロマンスグレーを想起させる魅力的な声の男性が喋り始めた。

「……さて、今回のリクエストは、恋に恋する二十代男性の方から。『私には数年前から、愛する女性がいます。今まではこの気持ちを抑えてきましたが、もうこの想いは止まりそうにありません。数年前に彼女と出会い、一緒に過ごしてくる中で、私の中で愛の風船は徐々に膨らんできました。そしてこの風船はもう破裂寸前です。きっと彼女もこのラジオを聴いていることと思います。愛するT・Tさんに向けて、この歌を送りたいです。愛しています』……と。ラジオネーム『愛してる』さんからのお便りでした。……この方はなかなかの情熱をお持ちのようですね。愛の風船、とはいい表現をお持ちになっていることです。ラジオネームからも溢れるほど相手の方を想っていれば、その愛もきっと届くと思いますよ。もし『自分の事かも?』と思ったそこの貴女は、ぜひ自分に向けられる愛に気づいてみてくださいね。それではリクエスト曲……」

 そういって流れ出したのは、十何年前に流行ったガールズバンドのラブソングだった。数少ない携帯電話を持っていた友達がこぞってこの曲を着メロにしていたことを思い出す。懐かしいな、と一瞬思ったが、紬希は歌いだしの前に音源を止めた。部屋に沈黙が訪れる。コーヒーを飲もうと紙コップに手を伸ばすが、中身は入っていなかった。無意識に飲んでしまっていたようだ。

「……ちょうど一週間前です。オフィスで櫻井君にこの番組をよく聞いてる、っていう話をしたのは」

 ふと見ると、紬希の目の周りは赤くなっていた。溢れ出そうになる涙を必死に堪えているようだ。怒りのせいか、握りしめたスマートフォンが震えていた。

「もちろん、私だって櫻井君を疑いたくて疑っている訳ではありません。でも、櫻井君以外いないんです。もう、耐えられなくて……」絞り出すように零したその一言は、悲痛に満ちていた。

 私は、自分を呪った。いつも笑顔で仕事をし続けてくれていた紬希の中に、これだけの痛みがあったこと。私はそれに気付けなかった。先輩として、一人の人間として、これほど苦しいことは無かった。彼女をここまで苦しめた人間を、心の底から罰してやりたいと思う。そして、全ての状況証拠は、その犯人が櫻井であるということを示唆していた。

「……紬希ちゃんはどうしたいの?」今からでも、私が彼女にできることはないか。その一心で、紬希に問いかける。

「……次の飲み会、望さんも来ていただけませんか」

「私が? それだけでいいならもちろん行くけど……」私はもっと告発の手助けなんかを言われるのかと思っていたから、少し拍子抜けではあった。

「もし、櫻井が犯人なのだとしたら、また次行った時にもう一回私を狙うと思います。だから、その時に私を家まで送ってほしいんです。もしかしたら、今回の件は櫻井君は関係無いかもしれません。確証を得るためにも、力を貸してください」お願いします、と続け、紬希は頭を下げる。

「別にそれくらいならなんてことないけど……本当にいいの? 本当に櫻井が犯人なんだとしたら、それだけじゃ何の解決にもならないよ。確かに次は家に入られたりしないかもしれないけど、私だって毎回飲み会に参加できるわけでもないし、ストーカーの被害が無くなる訳じゃないじゃん。もっと、警察に助けを求めるとか、証拠の映像を撮るとか、他にできることが……」

「いや、いいんです」彼女は私の返事に安堵したような顔を見せたが、そこで私の話を遮った。

「犯人が櫻井だとしたら、会社にとてつもない迷惑が掛かります。ようやく経営も軌道に乗り始めたのに、ここで社員が逮捕されるなんてことになったら、一人減るだけではなく、信用や評判もガタ落ちです。望さんも、それは分かっていますよね?」

 私は言葉に詰まった。確かに、たった六人しかいないのに、ここで社員を一人失うのは相当な痛手だ。会社の責任問題にもなりかねないし、そうなるとこの前成功させ、今後も上手く進みそうなプロジェクトの前途にも暗い暗雲が立ち込めることになる。

 だが……。

「それでも、一人の人間としてこの問題を放置することは出来ないよ。櫻井は仕事も出来るし、失うのはマイナスだけど、何か被害を最小限にできる方法があるはず。それを二人で探して、どうにか……」

 望さん、と再び紬希は私の口を止めさせた。そこで私は我に返り、少し声が大きくなりすぎていたことに気付く。部屋の外に視線を向けるが、幸い誰かが向かってくる様子はなかった。

「大丈夫ですよ、本当に。私、望さんにこの事を話せて、少し気が楽になりました。ストーカーの被害も、私が我慢すればいいだけですし、飲み会に行く頻度も減らせば大丈夫です。私、会社の足枷にはなりたくないんですよ」

 そう静かに話す紬希の目には、深い優しさが宿っているように見えた。何もかも包み込むような、おおらかな眼差しだった。だが、その優しさは、彼女の自己犠牲の精神から成り立っている。そう思うと、その目を素直に好きになることは出来なかった。

 だが、その静かながら有無を言わさぬような口調に、私は従う事しか出来ない。そんな自分に、私はまた自己嫌悪を覚える。

「……分かった。でも、櫻井がどうであれ、少しでも困ったら私に相談してほしい。力になれるか分からないけど、出来るだけサポートするよ」

 私の言葉を聞くと、紬希は太陽のような笑顔を浮かべ、「ありがとうございます」と言った。これほど笑顔が眩しいと感じる人には、この子以外に会ったことが無かった。

「あー、それで? 次の飲み会はいつの予定なの?」そう訊くと、紬希はスマホを取り出した。

「えっと、先程伊藤先輩が仰っていたのですが……。あ、来週の金曜日です。今回の件があったので、行くかどうかはまだ伝えていなかったのですが、望さんに来ていただけるのであれば安心ですね。また伊藤さんに伝えておきます」

「了解。私も、その日は開けておくよ」

 私がそう言った時、突如、何の前触れもなく休憩室のドアが開いた。がちゃん、とドアノブが捻られる音に、紬希が肩をびくんと震わせる。

 ドアからは、穏やかな顔が顔を覗かせていた。

「ああ島田、こんなところにいたんだ。谷町も一緒?」

「あ……社長。お疲れ様です。何か御用ですか?」

 もしかして櫻井か、と思って一瞬警戒したが、入ってきたのは社長だった。その様子からするに、どうやら私の事を探していたらしい。

「いや、頼みたい作業があったんだけど、もう昼休みも終わるのにオフィスにいないなんて珍しいなと思って探してただけ。何か話してたの?」

 そう問いかける社長に、私は「いや……」と口ごもったが、先に話し始めたのは紬希だった。目の周りが少し赤いが、社長がそれに気づいた様子はない。

「社長もご存じかと思いますが、昨夜飲み会を開きまして。次は望さんも一緒に、とお誘いしていたところです。良ければ、社長もいらっしゃいますか?」

 紬希の言葉に私は驚き、紬希の顔を見つめたが、彼女の目はしっかりと社長の顔を見つめていた。もしかすると、社長がいれば櫻井も手を出しづらくなる、という考えかもしれない。もしそうなら、私も賛成しない理由はなかった。

「そ、そうなんですよ、社長。どうやら昨日、とても盛り上がったみたいでして。私も社長も久しく参加しておりませんし、久しぶりに行ってみるのもいいのではありませんか?」

 そう言った私に、社長は思案顔になる。いつになる、という問いに、来週の金曜日だそうですよ、と私が返すと、スマホでスケジュールを確認した社長はしばらくすると頷いた。

「分かった、予定は入ってないみたいだから、何とか金曜までにひと段落できるように仕事するとしよう」

 その返事に、紬希はパッと顔を輝かせた。相変わらずの無邪気な表情で、私は愛しさとともに安心も覚える。楽しそうに雑談を始めた社長と紬希を横目に見ていると、こんな純粋な娘を汚そうとする人がいるということに、とてつもなく腹が立った。

 確証はない、と言っていたが、紬希は櫻井が犯人だとほとんど確信しているようだった。もし本当にそうなのであれば、会社への損害をある程度許容してでも制裁を与える必要がある。

 だけど、とどこかから声がした。他でもない、自分の声だ。

 どうも腑に落ちない。もう一人の私は続ける。紬希が言ってることに嘘や間違いはないはずだった。だが、未だに櫻井の事を疑い切れない私がいる。それは私が今まで見てきた彼の性格を思っての事でもあるが、それ以上に芯の部分で「彼らしくない」ような気がした。

 しかし、その違和感の正体を掴むことができないまま、この話はここで打ち止めとなる。

「よし、そろそろ仕事戻るよ。一応定時退社目指してるんだから」

「社長の口から定時退社なんて言葉が出ることあるんですね。私たちはともかく社長が定時で帰ってるところなんて見たことが無いのですが」

 そんな話をしながら部屋を出ていこうとする二人に無言で続きながら、私はぼんやりと社長の横顔を眺める。

 その笑みが少し邪なものに見えたのは、きっと気のせいだと思う。




・ある男の手記


 東京、九段下にある十二階建てのビル。その十階で、俺は目を覚ました。付けっぱなしの腕時計の針は午前二時を指している。

 疲れからか、うたた寝してしまっていたようだった。俺はゆっくりと目を擦り、眠気覚ましに傍らのエナジードリンクを飲み干す。眠りたいのは山々だったが、依然終わりそうにない仕事の山が机には積まれていた。誰もいない職場で、俺のパソコンはまだせっせとブルーライトを発している。本当にうんざりだ。社長に押し付けられたこの仕事のせいで、ここ数日間、俺は家に帰ることができていない。

 微睡みから解放されたばかりだからか、少し身体に浮遊感を感じる。夢を、見ていたようだった。俺がこんな状況に陥る羽目になったあの日の情景に、似ていた。

 仕事は終わらないが、その日の事を忘れないように、俺は今、筆を執ることにした。きっと明日——いや、今日の朝、お叱りを受けることになるだろうが、そんなことはどうでもよかった。この最悪の現実から、少しでも逃避出来る何かが欲しい。その一心で、俺はあの日のことを書き綴る。あのまま続くはずだった日常が突如として崩れたあの日を。

 眠っている脳味噌を叩き起こして、俺はあの最後の夜を思い出す。


 気持ち悪いほどの静寂が、辺りには満ちていた。住宅街だからか、深夜に走っている車はほとんどいなかった。傍から見たらただ夜遅くに散歩をしている人間に過ぎず、怪しまれることは無いはずだ。そう分かっていながらも、俺は警戒せずにはいられなかった。

 なんせ、あの行為が発覚すれば、俺の人生は本当の意味で終わる、と俺は考えていたからだ——まあ、そのスリルすらあの頃は楽しくなってきていたが。俺は浮足立ちそうな気分を隠して、足音を忍ばせ歩いた。

 目的地は駅からほど遠くなかった。何度も歩いた道だ。木造二階建てのアパートの前で、俺は足を止める。八部屋あるが、人が住んでいるのは五部屋。その中の一人は少し浮ついた雰囲気の大学生で、時折遅くまで家で騒いでいることもある。だが、明かりがついていない所を見ると、あの日はもう就寝しているようだった。俺は安堵する。

 俺は一層足音を忍ばせ、錆びた階段を登った。あの場で周辺住人に見つかって通報される可能性を考えての事だったのだが、今となってはそうなった方が良かったとも感じる。とは言え、あの時の俺がそんなことを知る由もない。人と出くわさなかった俺は、心の中でほっと一息ついた。

 間違っているはずはないが、念のため、表札を確認する。「谷町」の字が暗闇の中でかすかに見えた。玄関先に立て掛けられた傘も見覚えのあるものだ。俺は音を出さないよう細心の注意を払いながら、ポケットの鍵を取り出した。

 いつも、ここが一番緊張するタイミングだった。俺は鍵を慎重に鍵穴に差し、回した。ガチャリ、と乾いた音が鳴る。全身の間隔を研ぎ澄ませて部屋の中の様子を探った。一分、二分が経つ。音はしない。起きてくる様子は無かった。大丈夫なものと思い、ドアノブを回す。正直なところ、音に気付いて起きた紬希がフライパンか包丁かを持って立っている可能性はあった。そうなっていたら終わりだ。俺は恐怖感と共に、心の奥が高鳴るのを感じた。たとえ死ぬことになったとしても、愛する人に殺されるのである、何が悲しいだろうか。その気持ちは今でも変わらない。

 だが、やはりそうはならず、ドアの先には誰もいない短い廊下が伸びているだけだった。何度も見た光景だ。俺は素早く部屋に上がり、これまた最後まで慎重に扉を閉めた。

  あの日はいつもより時間が遅かった。それが、自分がいつもより慎重に行動していた理由だった。驚いたのは、突如社長と島田先輩が飲み会に来ることになったこと——しかも、へべれけの紬希を島田先輩が家まで送ると強く主張したことだ。完全に予想外で、とうとう自分の行いがばれたか、と思ったのだが、飲み会は普段と変わらず進み、むしろ久しぶりにフルメンバーで飲んだこともあってかなり楽しかった。人数が多かった分細工には手こずったが、緩みかけていた自分の緊張をもう一度引き締める良い機会になっただろう。

 万に一つの確率で、中に島田先輩がいる可能性も考えていたが、やはりそれは無かった。さすがに、俺が紬希の家の合い鍵を持っていることを予想できている人間はいないだろう。それは恐らく、今でも変わらないと思っている。作るのに苦労した甲斐があった。

 ワンルームの紬希の部屋は、一人暮らしとは思えないほど片付いている。俺は狭い部屋の中をグルグルと歩き回った。化粧水が今まで見たことのないものに変わっていた。新しいのに変えたらしい。それに、キッチンのごみ入れにはカップラーメンの空き容器が捨てられていた。帰ってきた後食べたようだ。そんな夜遅くに食べて、太らないかが心配である。

 最早来た時のルーティーンと化していた部屋の物色を済ませると、俺はベッドの前に立った。紬希はいつもと同じ、壁の方向を向いて寝ている。化粧をしていないとは思えないほどの美しさだった。俺と紬しかいない空間で、彼女の寝息だけが響いている。俺にとっては、どんな音楽よりもリラックスできる音だった。ゆっくりと動き彼女の毛布に手を掛けたところで、その毛布が前来た時よりも少し厚くなっていることに気が付く。もう少し寒くなれば、彼女の体に触れることは難しくなるかもしれない。

 毛布を剥がすと、彼女のパジャマが見えた。上下とも紺色……初めて見る服だ。新しく買ったのだろうか。毛布を畳みながらそんなことを考える。

 俺はしばし観賞の時間に入った。自分の吐息すら紬希にかからないように注意しながら。ほっそりした足首。すべやかで美しい手。周期的に上下するなだらかな肩。暗闇の中でも際立つ濃い黒の髪の毛の隙間から見える艶めかしい純白のうなじ。そして、少女のようなあどけなさが残る、まるで化粧をしていないとは思えないほど清らかで可愛い寝顔。どの部分を切り取ってもそのまま芸術作品になりそうなくらい、彼女の身体は完成されていた。その美しさは、今でも鮮明に思い出すことができる。

 暗さのために時計は見えなかったが、大体十分ほどひたすらに紬希を眺め続けた。彼女が寒そうに身体を丸めながら寝返りを打つ度に俺の心は痛んだが、もはやこのまま帰るという発想に至ることは出来なかった。ここで大人しく毛布を被せ去っていたら、俺の未来は違っていたのかもしれない。いや、今までならそうしていた。だが、前回その一線を越えたこともあり、俺はここで止めることはできなかった。

 起こさないようにそっと、パジャマの前ボタンに手を掛ける。紬希は反応しなかった。そのまま、一つずつボタンをはずしていく。一つ一つ。彼女の柔肌に手が触れる度に、自分の心臓はうるさいほどに高鳴った。段々と、中の黒のキャミソールが見え始める。紬希は寝苦しそうに何かを呟いた。

 確かに、この前服を脱がせてしまったのは本当に申し訳なかった。翌日出勤してきたときの紬希の不安な顔を、今でもよく覚えている。紬希を愛する自分として、あの時は本当に心が傷んだ。こんなことをしている自分は本当にクズだと思う。

 でも、俺がこうして紬希の体に触れているのは、触れたいと思っているのは、同じく紬希を心から愛しているからなのだ。

 他人からは理解してもらえなくていい。愛なんて所詮、自分勝手なものでしかないのだから。

 俺はそのまま紬希のパジャマを脱がせた。真っ白で弾力のある二の腕に俺は心を奪われる。あの日の前も一度見たはずだったが、俺の感動と興奮は留まるところを知らなかった。声を出さないよう必死に抑えながら、俺は息を呑んだ。紬希が起きる気配はない。効き目を失っていないことに、安堵を覚える。

 吸い込まれそうなほど真っ白な首元に、俺の視線は引き寄せられる。本当に美しかった。なだらかな肩に、形のいい鎖骨、キャミソールの隙間からちらりと見える腋、その全てが俺を魅了していた。感情の昂りを抑えられなかった俺は、まるで彼女の肌を傷つけることを恐れているかのように、そっとその喉に唇を近づけた。紬希は目を覚まさない。俺は、紬希にとっての王子様ではなかったようだ。でも、それでいい。たとえ君が求めていなかったとしても、俺は未来永劫君を想い続ける。たとえそこが地獄だろうが獄中だろうが、この気持ちに変わりはない。もちろん今も。

 そして、ここまで来れば、後はそう複雑なことではない。ここまでして起きなかったのである、もう何をしようと目覚めるまい、という短絡的な思考を本能の高まりとともに展開した俺を止める術は、もうあの場には無かった。頼りなさげに彼女を守っていたキャミソールの裾に手を掛け、一気に動かす。控え目な乳房が露わになる。俺はとうとう声を漏らさずにはいられない。そしてそのまま、ズボンにも手を




「おはよう。また徹夜でやってくれてたんだね」

 そこまで書いたところで突然、オフィスのドアが開いた。この声は社長だ、と俺はそちらを見ることもなく判断する。こんな早朝から出社してくる阿呆など社長くらいしかいない。俺はそっと、乱雑な字が並んだ紙を裏返す。

「……おはようございます。今日も早いですね。さすが仕事人間です」

「ハハ、朝から皮肉をありがとう。でも、もう朝五時だ。そんなに早くはないさ」

 ちらりと、ブラインドでの隙間から外の様子を眺める。確かに、いつの間にか空は白み始めていた。書くのに熱中していて気付かなかったようだ。

「それで、昨日頼んだ分の進捗は?」社長は毎朝お決まりの質問を発した。

「……七割は終わらせました」

 俺がそう言うと、社長は分かりやすく眉をひそめた。きっと、俺の傍らに積まれた書類を見て、ある程度予想していたのだろう。いつも通りの反応に、俺は吐き出しかけたため息をすんでの所で飲み込む。

「七割? たったの? お前は昨日俺が帰ってから何をしていたんだ?」

 お前への恨みを書き連ねていたのだ、とは言えない。俺はただ押し黙ったまま、休憩中のパソコンを叩き起こす。

「お前、自分の立場分かってるの? あの写真なら、何度でも見せてあげられるけど。何なら、今すぐツイッターに載せてもいいんだけどな」

 また始まった。社長はスマホを触りながら俺の方に近づき、眼前にスクリーンを押し付けてくる。表示されているのは明ける寸前の夜空の下、紬希の部屋から出てくる俺の写真だった。いつの間に撮られていたのか、なぜ俺が紬希の家に居ることを知ったのか、それは全く分からないのだが、社長の手の中に映る人間は見紛うことなく俺であった。

「ほらほら、よく見てみろよ自分の姿を。『谷町』の表札もばっちり撮れてるし、言い逃れできないよね? ……って、何度言ったら分かるの? 警察に届け出されなくなかったら、さっさと仕事してくれない?」

 社長はそう吐き捨てると自分のデスクに座り、仕事を始めた。俺も黙ってそれに倣う。少し社長から顔を背けたのは、苦虫を噛み潰したような陰気な顔を、悟られないようにするためだった。

 どうして、察知されたのだろう。

 俺はこの数日間、何度も問い掛け続けたが、答えは何処にも見つからなかった。他人に、まして社長に怪しまれるような行動は決してしていないはずだ。それなのに……。

 そんなことを考えていたら、取引先や顧客からのメールを返信する手も止まる。苛立って、またエナジードリンクに口をつけた。どちらかというと、その苛立ちは自分に向けられたもののように思えた。

 少し大きな音を立てて置かれた空き缶に、社長が反応することはない。代わりに聞こえたのは、「今日、九時から取引先の所に行くから、一応同席してね」という業務連絡だけだった。


「僕、仕事が恋人なんだよね」

 社長が突然そんなことを言い出したのは、午前七時を回る頃だった。そろそろ、他の人が出社してきてもおかしくない時間帯だ。

「……知ってますけど」俺は出来るだけぶっきらぼうに聞こえるように返答する。

「僕はね、この会社を本気で大企業まで成長させたいと思ってる。起業してから間もなく潰れるそこら辺のベンチャー企業と一緒にはさせない。そのためには命以外なんでも投げ出す覚悟だよ。お前も一緒だろう?」

 何がお前みたいな仕事人間と一緒なのか、と俺は思ったが、それを口には出さない。下手に刺激しない方がいい、という事はさすがに学習していた。

「お前は谷町の事を愛していた。勝手に合い鍵を作って何度も家に侵入し、強姦直前まで突き進むくらいには」

「……強姦直前までなんてする訳無いじゃないですか」

「服は脱がしたんでしょ」社長は、狼狽える俺を嘲るかのような笑みを浮かべながら言う。

「見てないですよね?」俺は多少ムキになって言い返した。

「うん、確かにお前が中で何をしていたかは見てない。だけど、谷町が島田にそれを相談していたのは聞いた。というか盗聴した。それでお前を怪しみ始めたんだ」

「……どうやってですか?」

「盗聴器に決まってるでしょ」

 俺は嘆息する。社長は悪びれる様子も無い。どうやら、綻びはその時から現れ始めたようだった。

「盗聴なんて、普通にプライバシーの侵害ですけど」

「お前も、谷町がラジオの話をしてるのを盗み聞いたんだろう?」

 俺は舌打ちを堪える。一体こいつはどこまで知ってるんだ。

「でも、正直なところ、僕はお前が犯罪者であろうが、性欲の塊であろうが、それを警察に告発したりすることは無い。何故か分かる?」

「……会社にとって不利益になるからですよね?」

「うん。実は、お前の考えてることに気が付いた時、僕はますますお前の事を手放したくなくなったんだ。ここまで狡猾な人間は、そういないからね。だけど、お前の事だからここでやめるとは思えなかったし、もしそうなれば谷町が会社を辞める可能性もあった」

 どうやら、俺や紬希の人格は、社長の考慮に含まれていないようだった。そもそも社長に人の心が備わっているとは思えないので、小さくため息を吐くだけにとどめる。

「つまりそこで、頭のいい僕は思う訳だ。これ、上手く使えばお前を飼い殺せるんじゃないかな、ってことに」

「……ド屑ですね」

「お互いにな。残念だけど、会社経営に良心は必要ないんだ。大切なのは、何を犠牲にしても会社を成長させる、という仕事への『愛』だけ。逮捕されて人生がめちゃくちゃになるリスクを冒してまで谷町に触れようとしたお前と一緒だよ」

 ブラインドの隙間から差し込んだ朝の陽光が、社長の顔をちらちらと照らす。その眼に光が宿っているのが、なおさら気持ち悪かった。まるでこの瞬間すらも楽しんでいるかのような——。

「おはようございまーす」「おはよう」

 そんな重い雰囲気を打ち払うかのような明るい声でオフィスに入ってきたのは、何も事情を知らない課長と……櫻井だった。

「あ、伊藤、今日も早いなあ。急に仕事熱心になったみたいだけど、何かあったのか?」酔っている時とは違い、どこから見ても頼りになりそうな出で立ちの課長は俺に訊く。

「いえ、別に……。大した理由がある訳じゃないですよ」

「そうか? ……よく見たらクマまで出来てるみたいだけど。ちゃんと寝てんの?」

 そう言われて、俺は自分の目の下を触る。そういえば今日は寝不足を誤魔化す化粧を忘れていたのだった。洗顔すらしていないし、今の自分の顔は相当やつれた顔をしているだろう。

「大丈夫ですよ。遅くまでゲームしてただけです」本当はほとんど二徹目なのだが、俺は無理やり笑顔を作ってそれを悟られないようにする。「ちょっと顔洗ってきますね」

「あ、じゃあ僕も行くよ」そそくさと立ち上がり部屋を出ていこうとする俺を引き留めたのは社長だった。

「僕も今日はちょっと早く着いちゃったんだ」

「……一応、俺たちも早く来たつもりなんですけど。出社時刻って八時半じゃありませんでしたっけ」櫻井は少し呆れたような笑みを浮かべながらドアの方に向かう社長に言った。


「なんでわざわざ一緒に来たんですか」

 備え付けの水道と自前の洗顔料で俺よりも先に顔を洗う社長に、俺は問い掛けた。彼は答えることはせず、ただ淡々と顔を洗い続けている。勢いよく流れる水の音だけが、狭いランドリー室にこだまする。

 やがて社長は蛇口を閉め、脇に積まれた白いタオルで顔を拭くと社長は言う。

「お前に感謝したいことがあるんだ」

 また急な話だ。俺は黙ったまま、続きを促す。

「お前が櫻井を犯人に仕立て上げようとしたおかげで、実に僕に都合のいい状況を作ることが出来た。確かに巧いやり方だったよ。ちょっと目を盗めば社員の住所録くらいなら見れるわけだし——島田も完全に谷町に絆されてたしね」

 社長は、家事を手伝った子供を褒めるような口調で俺に向かって言う。張り付いたような笑みが、吐き気を催すほどに俺を苛立たせる。

「しかも、今回はちゃんとお楽しみの後に服を着せてあげたみたいじゃないか。そのおかげで、谷町も辞めずに済んでる。……まあ、睡眠薬を飲ませすぎてアイツが体調を崩したのは良くなかったけど」

 嬉しそうな顔だった。当たり前だ。終わってみれば全員が会社に残り、その上俺をこき使うことが出来るのだから、一番得をしたのはこいつなのである。

「……何が言いたいんですか」しびれを切らした俺は、そう問いかける。

「別に何も。今言ったことが全てだよ。……ただ、愛っていうのは凄い力を持っているんだな、って思っただけだ。本当は僕だってね、多少無茶なことをしてるのは分かってるんだ。君だって、それは分かっていただろう?」

 そこで社長は初めて、俺の目をまっすぐに見た。吸い込まれてしまいそうな、深い、深い眼差しだった。

「でも僕はね、もうこの道を往かずにはいられないんだ。お前がそうだったように。なぜなら仕事を愛しているからだ。……きっと、『愛』は『飢え』と同義なんだよ。僕たちは、腹が減ったら食べるのと同じように、尽きるまで愛の対象を求め続けるんだ」

 俺は黙って社長の話を聞く。怒りは消えないが、一理ある、と少し思ってしまったことは事実だった。俺はただ、社長の顔を眺める。彼も依然、俺の目を見つめていた。その顔が、いつもの自信があふれるような表情とは少し違って見えたのは、気のせいだろうか。

「……ちょっと無駄話をしすぎたね。じゃあ、僕は戻るから。クマとニキビ、ちゃんと隠しとけよ」

 社長は、俺の返答を求めてはいないようだった。一方的に言うと、さっと部屋のドアを開ける。老朽化した蝶番が、さびた音を立てて開く。俺は、ただ去るその背中を見ているだけだった。

 愛とは何なのだろう。俺が紬希に抱いていた感情は、いったい何と言うのだろう。なんだかよく分からなくなってきた。ぼんやりとそんなことを考えながら、俺は洗面台の栓を抜く。

 渦を巻いて流れ出した水面に、歪んだ自分の顔が映っては消えた。

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奸計 夏檸檬 @naturemon

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