07 寝室 ~カエルは投げるもの2~
マリーは風呂から上がったあと、寝室に戻りメイドに髪を乾かしてもらっていた。光沢のある金色の髪はくすみをおびて赤茶色っぽくなっている。
今日のメイド、ルイス・アステリカは恐る恐る質問する。
「あの、マリー様。近衛の件、本当に私でよろしかったのでしょうか?」
ルイスはヴィルヘルムから冠花の儀を執り行う通達を受けていた。
冠花の儀、王宮に正式に仕えるメイドが花の名前を授かる儀式。ファーストネームの前の名前となり、
フラワーロードで有名なマルガレーテ・カタリナ・アルスバーンでは、マルガレーテが冠花となりカタリナ・アルスバーンが実名となる。
「正しかったと私は思うわ。カルネラは何も悪くないし、指を切り落とされる道理なんてないもの。理不尽、不条理って私、大嫌いなのよね。なにより、ルイス、あなたは私が女王と知りながら私を対等に扱ってくれた。あなたはいい人よ」
ルイスはすこし面映ゆくなった。
マリーはルイスに髪をとかされながら、ヴィルヘルムに渡された紙をざっとみる。明日に執り行われる冠花の儀の手順と女王の口上が記載されていた。
『汝はエスカリエの剣となり、我は最高の権力によってそなたを守る盾となる。剣と盾が揃ったときエスカリエは無敵の存在となろう。誉れ高きエスカリエに黄金を』
ふと、今日喋った言葉と似たものを感じるのだった。
「ねえ、学院ってどんなところ? 今度、カルネラに学院を案内させましょう」
「学院はですね。そうですね、なんと申せばよろしいのでしょうか。いろんな人間が集まるところといいましょうか」
「いろんな人間?」
「尊敬する人もいれば、敵対視する人もいる。剣が得意な人もいれば、絵が得意な人もいる。そんなところです」
「つまり可能性の数だけの人間がいるってことね。いいわね、面白そうじゃない」
「しかし、王宮と違って統制はされておりません。どちらかというと、とがった人が多い印象です。陛下には王宮が相応しいかと」
「ちょっとルイス。陛下っていうの禁止」
「失礼しました。ま、マリー様」
「学院で流行っていることを知りたいな」
「そういえば、このあいだ喋る猫の話を聞きました」
「喋る猫?」
「噂程度ですが、魂を食らう猫と呼ばれています。どこからともなく現れて人の言葉を使う黒猫の話です。曰く、お前は完全なる世界を望むか、不完全な世界を望むか、それともありのままの世界を望むかと質問してくるようです」
「喋る猫ね……」
喋るカエルを知っているから喋る猫がいてもおかしくないと思った。
「で、その質問に答えるとどうなるの?」
「ありのままの世界を望むと答えたものには去っていくようです。完全なる世界を選んだものは消息不明になり、不完全な世界を選んだ者は魂を食われたように動かなくなるらしいです。それは人形のように」
マリーはすこしおぞましさを感じた。
「マリー様?」
「いや、なんでもないわ。全然怖くないんだから!」
マリーはその日、眠れなかった。ルイスは退出と同時に灯りを消し、マリーの寝室は静寂と漆黒に包み込まれていた。
ルイスを呼び戻すかと一瞬思ったけど、流石に大人げないと迷ったのち、窓から見えるどこかの部屋の灯りが消えたのを見て、もう手遅れだと思って毛布にくるまった。
夜目に慣れて月のあかりでも家具の配置がだいたい見えるようになった頃、ふと窓の外からピシャリピシャリと不気味な音が聞こえてきた。
「え? 何、なんの音?」
ルイスから聞いた『魂を食らう猫』。人形となり果てた人間を想像してしまう。
全然怖くないんだから、と見栄をはった過去の自分を殴りたい。
その不気味な音はだんだんマリーの寝室の窓に近づいて、ガチャガチャと窓をゆすったのち、窓を開けて入ってきた。
その音はピシャリピシャリとマリーに近づいた。
マリーは身を震わせ、毛布に隠れていた。
ピシャリピシャリとそれが水をはじく音だと気づいた頃には、音の主はマリーのベッドに登って止まった。
記憶のない世界で目覚め、女王となり、ルイスともカルネラとも知り合った。
なのに、こんなところで『魂を食らう猫』の力で人形にされて終わるなんて、到底、受け入れられない。
マリーは運命に抗うことに決めた。何も分からないまま終わるのが嫌だと。恐怖はいつの間にか、運命に抗う意思に変わっていた。
だからこそ、勇気をもって立ち向かう。
毛布を翻し、音の主に指を差し出す。反射的に指が出たが、どうでもいい。この指で何ができるのかは分からないが、牽制になっていることを祈るしかない。
月がくれの雲が晴れて、月の明かりが差し込み、音の主の姿がみえる。まるっとしたシルエットに短い手足、水の音は音の主がずぶ濡れだからだろう。
そして、そのシルエットはマリーの記憶にあった。
喋るカエルがそこにいた。
「いやはや、渓谷の底は温泉が湧いておりましたぞ。今度、アガルタへいって温泉巡りもいいかもしれませんな」
「ってお前かぁぁぁぁぁい!」
マリーはカルヴェイユを鷲掴みにして問いただす。
「あんた何やってんのよ!」
掴みあげられたカルヴェイユはなされるがまま四本の足をだらんとし、それでもまだ水は滴り落ちていた。皮膚はスポンジのようになっているようだ。
「何とおっしゃられても。大浴場でマリー様に投げられたあと、城壁をよじのぼり、ここまでやってきた次第です。いやーなかなかの体験でしたな。五千メートルの高さからの落下は初めてでした。ワタクシはすぐに終端速度に達し、無傷で着地しました。重力というものを肌で感じましたぞ」
終端速度だからといって無傷で着地できるわけではない。ああ、そう、とマリーは冷ややかな目を配る。魂を食らう猫ではなく、喋るカエルだった。
怯えていた自分が情けなく思う。
マリーは冷静さを取り戻し、今、自分がやるべきことを思い出した。まずは、このカエルに然るべき報いを、と。
「アガルタといいますと、温泉たまごが有名ですな。温泉につかりながら卵を食べるのも一興」
マリーの耳にはカルヴェイユの言葉は入ってこない。
マリーはカルヴェイユの入ってきた窓が開いているのを確認して、鷲掴みにしているカルヴェイユを窓の外に放りなげた。
「そんなに重力を感じたいならまた味わうがいいわ! 今度はじっくりと、存分にね!」
マリーはカルヴェイユを、また放り投げたのだった
カルヴェイユは落下中、
「マリー様ぁぁぁぁ。やはり、マナーがなっておりませんぞぉぉぉぉ。しかし、このままではワタクシ、空を飛べそうな気が致しますぅぅぅ。翼が生えてきますぞ。翼がぁぁぁぁぁ」
なんて言いながら、暗闇の底へと消えていった。
「カエルに翼なんて生えてくるもんか」
マリーはようやく眠りについた。
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