タイマーの鳴らない世界

反田 一(はんだ はじめ)

転移

ゆっくりと目を開けると、カーテンの隙間から外の光が漏れているのが見えた。

身体を起こし、導かれるようにカーテンを開ける。

先ほどとは比べ物にならない光量に目を細めた。

うんざりするほどの青空。

一身に暖かみが感じられた。

またこの世界だ。


窓を開け、キッチンへ向かう。

小さな冷蔵庫には、お気に入りの炭酸ソーダ。

一つ取り出し、栓を開ける。

ボトルを傾けながら身体へ流し込む。

そう、この感覚だ。

この世界に来た実感が湧いてくるのを感じながら、またベッドの方へ戻る。

今まで色々な世界へ行ってきた。

ただ、この世界ほど「物語」の充実した世界はなかった。

それ以来、この世界を「物語の世界」と呼ぶことにした。


ソーダのボトルを持ちながら本棚の前に立つ。

本棚には、物語が記された書物が整然と並べられている。

ソーダを持っていない方の手で本の背表紙をなぞると、一つ一つの本の存在感が指の腹を通じて伝わってくる。

この世界へ来ると物語に触れたくなる。

それとも、物語に触れたくなるからこの世界へ来るのか。

いずれにしても、この世界へ来てやることは一つに決まっていた。

本棚から適当に一冊を抜き取り、ベッドに身を沈め、パラパラとページをめくり始める。


遠くからセミの鳴き声が聞こえてくる。

背中とベッドの接している部分がじんわりと汗で滲む。

ただ、今はそれすら心地いい。

テーブルに置いたサイダーのボトルが、陽の光を浴びてキラキラ光っている。

綺麗だと思いつつ、陽の光が当たらない位置にボトルを置きなおす。


今まで色々な世界を旅してきた。

僕は、幸運にも、世界がいくつも存在していることを知ることができた。

その事実を知ることができて心から良かったと思う。

もし世界が一つしか存在しないと思っていたら、たった一つの楽しみを堪能することすらできずに、身動きが取れなくてなっていたに違いない。

押しつぶされていたに違いない。


世界は同時に複数存在する。

この事実は僕に希望を与えてくれた。

ただひとつ問題があるとしたら、時間だ。

一つ一つの世界で、僕が面白いと思うものを見つけることができるのは一つが限界だった。

ただ、逆に言うと、どんな世界でも必ず一つは面白いものを見つけることができた。

この世界で物語を見つけることができたように。


ぺらり、とページをめくった。

本を読んでいるのか、考えているのか、本を読むふりをしてただベッドに横たわっているのか、曖昧だ。

「ピピピ!」

アラームの音に意識が覚醒する。

そのときになって初めて自分が寝かけていたことに気づく。

ただ、睡眠の時間は他に確保しておいてある。

今は次の世界への転移だ。


ベッドから起き上がり本棚の前に立つ。

いつの間にか西日が本棚を赤く照らしている。

手元の本を元の位置にゆっくりと戻す。

また今回も穏やかなひと時だった。

ベッドに横たわり、目を閉じる。

この世界としばしのお別れ。

セミの声はもう聞こえなくなっていた。

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