第19話 詰んだ……
ホールに戻った私は絶望的な気持ちで、ざわめく人々の間をふらついた。朝岡課長が気が付いて私に声をかけてくれた。
「三枝さん、来てたのね。間に合ってよかった。ご飯食べた? 美味しそうなものたくさんあるでしょう。三枝さん、喜びそうだなって思って」
私は作り笑いをしてうなずいた。だけど、頭の中は心配でぐるぐるしていた。
柾木さんと飲みに行った事をオルティス氏が知ってしまったという事は、柾木さんとあんな風になってしまった事もすぐに公になるという事ではないか。どうしよう。処分の対象になったりしたら。私より男の柾木さんのが責められてしまうかもしれない。私のせいで柾木さんが懲戒処分とかになったらお詫びどころでは済まない。私は自分のしたことを今度こそ後悔していた。
(もしかして、今のうちに朝岡課長に相談した方がいい? 事が大きくなる前に自分から言った方がいい?)
意を決して私が朝岡課長に声をかけようとすると、トントンとスピーカーを通じたノイズがした。見ると、壇上で総務課の平橋課長がマイクを持っていた。平橋課長の声がホールに響く。
「えー、皆さまご歓談の最中ではありますが、そろそろ時間となりました。オルティス氏の飛行機の時間が迫っております。ここで最後に磯谷社長とオルティス氏からそれぞれ一言頂いて本日のパーティーを終了させていただきたいと思います。それでは、最初に磯谷社長からお願いいたします」
壇上の社長に送る拍手の音に会場は包まれた。カメラマンがパシャパシャとシャッターを切るたびにフラッシュが明るく焚かれる。ステージの端にはオルティス氏と柾木さんも既に立っていた。オルティス氏はにこやかに磯谷社長を見ていたが、柾木さんはしかめ面をしてオルティス氏を睨んでいた。
磯谷社長とオルティス氏が挨拶をしている間に、平橋課長が私と朝岡課長に話しかけた。
「オルティス氏が退場する際にですね、戦略プロジェクトの皆さんには出口の側で見送っていただきたいんですね」
朝岡課長は「分かりました。じゃあ、設計部署の皆さんにもちょっと伝えてきます」と答えて、その場を離れようとした。
「私が行きます」
私が代わりに行こうとすると、平橋課長は「三枝さんには別にお願いしたい事が……」と手に持っていた花束を私に見せた。朝岡課長は「私、ちょっと行ってくるわね」と言ってその場を離れた。平橋課長は私に向き合って、花束を私に差し出した。
「実はですね、三枝さんにはオルティス氏への花束の贈呈をお願いしたいんですよ」
は? 何故に私?
「……あの、そういうのは加藤さんのお仕事では……」
「うん、加藤さんは、柾木さんと社長と一緒に空港までオルティス氏のお見送りに行くんでね。残る人からお渡しした方がきれいだし、ほら、やっぱり若い女性からお花もらった方がオルティス氏も嬉しいでしょう」
近年のコンプライアンスでは完全にアウトな発言をしながら、課長は私に花束を押し付けた。
……詰んだ……。完全に詰んだ……。
プロジェクトの面々と一緒に私は出口に並ばされた。オルティス氏が出て行く時に一人ひとりと握手をして、最後に私が花束を渡すらしい。私は生きた心地がしなかった。
オルティス氏は丁寧に一人ずつメンバーの苗字を呼んではスペイン語で一言添えながら握手をして行く。その背後では柾木さんがそれを通訳して行く。私は走って逃げ出したくなる衝動をなけなしの理性で抑えて、引きつった笑いを顔に貼り付けながらその光景を眺めていた。
オルティス氏が私の前に立ち止まる。
「Akari-san」
隣に並んでいる朝岡課長が変な顔をする。当たり前だ。課長の所まで全員苗字で呼んでいたのだから。
「It was pleasure talking to you. I’m looking forward to working with you soon!」
背後で鬼のような形相をしている柾木さんをよそに、オルティス氏は満面の笑顔で「君と話せて嬉しかった。一緒に働くのが楽しみだね!」などと私に宣う。私はぎこちない笑顔で「サンキュー」とだけ返し、爆弾を渡す気分で花束をオルティス氏に突き出した。
オルティス氏は大げさに驚いてみせながら、「This is very beautiful. Thank you」と言って、私の両肩に手を置いた。私は気付いた。例のあのスペイン式の、頬を合わせながら大仰なチュッという音を立てる挨拶が迫ってきていることを。しかし、衆目に晒された中、私に何ができよう。
柾木さんの噛み付くような視線を感じながら、そちらを見ないようにして私はオルティス氏の挨拶を受けた。オルティス氏はあろうことか、私の頬に本当にキスをした。柾木さんの視線が氷点下のつららのように突き刺さる。私は早くこの儀式が終わることを祈った。右頬のキスが終わり、左の頬にオルティス氏の顔が近づいたとき、彼は小さな声で囁いた。
「I’ll make sure that the magic word would work」
(魔法の言葉が絶対に効くようにしてくれるの? どうやって?)
疑問に思いながらも、私はうなずいた。
「But」
オルティス氏は私の肩を離さない。
「If it doesn’t work, call me」
(効かなかったら電話するの? そしたらまた何か考えてくれるの?)
「Call me. Then “I” will take care of you」
(……は? アイ ウィル テイク ケア オブ ユー? 「私があなたの面倒を見ます」? それって……)
オルティス氏は盛大に私の左頬にキスをすると、私を花束ごと抱きしめた。その場にいた全員がその光景に息を飲んで赤面した。柾木さんだけが冷静だった。
「ミスター オルティス。イッツ タイム トゥ ゴー」
オルティス氏は私から花束を掴み取ると、笑いで顔をいっぱいにしてうちの社員全員を振り返った。
「ミナサン、アリガト! サヨナラ!」
盛大な拍手に送られて、オルティス氏がホールを立ち去る中、氷点下三十度の柾木さんが私の横に立ち止まった。
「これからオルティス氏を空港まで送ってきますが、戻ってきたらお話があります。定時内には戻るつもりですが、もし私が遅くなっても待っていてください。必ず戻りますので」
「……はい」
私は小さく答えた。
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