第18話 役者が一枚上
それから、オルティス氏は横を向いて煙草の煙を吐いた。そのまましばらく考えていたようだが、ふいに持っていた煙草を消すと、ジャケットの胸元に手を入れて、内ポケットから携帯を取り出した。そして画面を操作してから、その画面を私に見せた。
「Is this you?」
画面には、私の携帯の名前が表示されていた。
「……イエス」
ん? オルティス氏は何をしようとしているの?
「It's not really good that you left Bluetooth on. Especially as a security engineer」
私がセキュリティー システムを扱う会社の社員なのに無線機能を開放しっぱなしだった事に苦言を呈しているようだ。
「すみません……」
私は小さくなった。
「No te preocupes」
しょぼんとした私にオルティス氏が何か言うのと同時に、私の携帯がピロリンと音を立てた。見ると、私の携帯にオルティス氏が何か送ったようだ。
「Did you receive it?」
「はい、何か来てます」
私は画面を見たままうなずいた。
「Accept it」
(え、何これ? もしかして、オルティス氏の携帯の番号? 社長の携帯の番号とかもらっちゃっていいの? て言うかなぜ私に?)
オルティス氏は固まっている私の携帯を覗き込んだ。
「Is this “Accept”?」
日本語で表示されている「受け入れる」のボタンを指で示す。
「イエス」と私が答えると、オルティス氏は「受け入れる」のボタンを指で軽く叩いた。そして、両手で携帯を握ってただ彼を見つめている私に言った。
「Now—I’m going to tell you a magic word. The magic word to charm a man」
(何なに? マジック ワード? マジック ワードを教えてくれるの? 男の人をチャームするマジック ワード?)
「チャームする」という言葉が分からなかったので、辞書アプリを開いて調べる。
「Charm: 魅了する、うっとりさせる」
(ということは、「男の人を魅了する魔法の言葉」を教えてくれるってことだよね? いいの? 社長とこんな会話するのヘンじゃない?)
オルティス氏は不敵に微笑んだ。
「I can see you having some doubt about this... but don’t you want to get Kai’s attention?」
私が迷っているようなので、オルティス氏は「カイの気を引きたくないの?」と私に聞く。
(引きたい! 引きたいです! でも、これ怪しい!)
「It’s nothing special」
「何も特別なことじゃない」と言ってオルティス氏はちょっと咳払いをする。
「I know that this word isn’t for everyone, but I’m sure that this would work for Kai—in the same way as does for most Spanish men」
(長い長い! 何言ってるかわかんないよ、オルティス氏!)
私は首を振った。オルティス氏は「Ok」と言って言い直した。
「I can't guarantee, but this should work for Kai」
(保証はできないけど、柾木さんには効くはずってことね)
私はうなずいた。
「When you use this word, you have to choose the right opportunity, ok?」
(ふむ、この言葉を言うときは、タイミングに気を付けなきゃいけないと)
「オーケー」
「You have to say it with full of emotion—showing that you are desperately wanting him」
(言うときには感情を込めて、どうしても彼が欲しいって顔をしなきゃいけないってことかな? ……ん? 「彼が欲しい?」)
私に戸惑う隙きを与えまいとするかのように、オルティス氏は私の目を覗き込む。
「You practice with me, ok?」
(……ちょっと待って。練習するの? 魔法の言葉をオルティス氏と? 今? いや、これってエッチな言葉言わされちゃうヤツじゃないの? いいの? 社長がこんな飲み会の罰ゲームみたいなことして?)
頭では、これはヘンだと思うのだけれど、オルティス氏があまりに堂々としているので何故か従わなくてはいけない気分になる。オルティス氏は私から視線を外さなかった。
「Ok? The word is…」
ふとオルティス氏が目を上げた。
「Hòstia!」
そして溜息を吐いた。
「Time is up. I will send you the word later. So you have to give me your number」
「……ナンバー?」
「Yes, your phone number. I'll send you the word by Messages」
後で魔法の言葉をメッセージで送るから、私の電話番号をよこせと言っている。えー、社長と電話番号の交換? それってまずいんじゃないの?
オルティス氏はちらちらと私の背後を見ている。気になって後ろを振り返ろうとすると、「Quick, quick!」と言いながら私の携帯の画面をタップした。
「Find my number…」
オルティス氏は勝手に私の連絡先を開いて、さっき私に送った自分の電話番号を探し出した。
「Now you call me」
(……電話しろって?)
「It’s ok. Just tap “Call”」
(強引だなぁ、この人……)
……と思いつつも、柾木さんの気を引ける言葉というのを逃したくなくて、私は「発信」ボタンを押した。
「……何をやってるんですか!」
背後で厳しい声がした。この声は……。
振り返ると柾木さんが恐い顔をして見下ろしていた。その瞬間にオルティス氏の携帯が鳴る。オルティス氏は番号を見てにっこり笑うと、電話を切って言った。
「Hola, Kai」
柾木さんが低い声で尋ねる。
「¿Qué están haciendo?」
オルティス氏は動じない。
「Nada」
柾木さんの眉間にシワが寄る。
「No me parece nada」
「Es privado」
柾木さんは舌打ちして、私を振り返った。
「まさか番号の交換とかしたわけじゃないですよね?」
柾木さんの剣幕に、私は自分の携帯を見下ろした。
「系列会社の社長と?」
畳み掛ける低い声に、怖くなる。
「……消してください」
きっぱりした物言いに私はうなずいた。
「はい」
私は画面を表示させて、オルティス氏の連絡先を探した。それを見たオルティス氏があわてて私に手を伸ばす。
「No, no, no, no, no! It’s ok. You don’t need to worry about it!」
私がオルティス氏を見るのと、柾木さんが彼を見るのが同時だった。
「We became friends」
オルティス氏がしれっとした調子で「私と友達になった」と柾木さんに言う。
「No creo que sea un comportamiento moral para un presidente obtener el número personal de su empleada」
柾木さんは、スペイン語のまま厳しい調子でオルティス氏に何かを言った。オルティス氏は嫌味っぽく返す。
「Entonces ¿es etico salir de copas con una chica en la oficina?」
柾木さんははっとしたようになり、きつい目で私を見た。
「三枝さん!」
「はい!」
思わず私は気を付けの姿勢になる。
「あなたは私と外出したことをオルティス氏に言ったのですか?」
柾木さんの声は冷たかった。私は青くなった。そうだ。写真から私と柾木さんが一緒に飲みに行ったことがわかるはずだ。手のひらに冷や汗が出た。
「……すみません……」
「……あなたという人は……」
「……申し訳ありません!」
柾木さんの口調に涙が出そうになってうつむく私をオルティス氏がそっと慰める。
「Hey, hey... It’s all right. It’s not your fault」
そして柾木さんにきっぱりした調子で何かを言った。
「No te pongas celoso」
「¡No estoy celoso!」
柾木さんの怒鳴るような声に私はびくっと体を震わせた。二人の視線が私に集まる。
「…Akari-san」
オルティス氏が優しく声を掛けてくれた。
「You can go now. I’ll handle this situation. So don’t you worry, ok?」
(私、ここを外していいの? 大丈夫なの?)
私はどうしていいか分からずに、オルティス氏と柾木さんを交互に見た。柾木さんは、私とオルティス氏を敵のように見ていた。
「It’s ok. Go. Go now」
オルティス氏が私の背中をそっと押した。私は険しい顔の柾木さんを横目に見ながらホールに向かって歩き始めた。
背後で柾木さんがスペイン語で何か言っているのが聞こえた。オルティス氏は英語で「子供はいるよ。でも離婚してるからね。僕はフリーさ」と答えていた。
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