第6話 まずは乾杯

 その側から先程の若い給仕の男性がやって来た。彼が良太くんに違いない。

「失礼しまーす。席お作りしまーす」

 元気よくそう言うと、どこからか調達してきたスツールを私の前に置いた。それから、カウンターの端に押し込められていたもう一つのスツールを引き出して、上に乗っていたストローやナフキンの箱をどけると、座面を雑巾で拭いた。カウンターの上に残っていた細々としたものをどけて、そこも拭き終わると「彼女さんは、お飲み物どうしますか?」と私に向かって尋ねた。

 予期しない言葉に私は赤くなった。そこに店長さんが「注文はもう頂いてるから」と声をかけるのと、戻ってきた柾木さんが「彼女じゃねえ」と言いながら良太くんの頭を後ろからチョップで叩くのが同時だった。

 柾木さんのきっぱりとした言い方に思わずはっとした。確かにそうだ。彼女でもなんでもない。ただ、ちょっとそれが寂しかった。こんな店長さんと良太くんだったら、柾木さんの彼女をとても歓迎してくれそうだったからだ。

「痛て!」と良太くんが頭を抱えた。

「失礼だろ、企画課の才媛に。俺みたいな事務畑とは違うバリキャリだぞ」

 柾木さんは、手を休めずに良太くんの手元にナフキンなどの箱を積んだ。

「だって、先輩のどスト……」

 柾木さんは、ストローの入ったビニール袋で良太くんの鼻をつついた。

「へえぇ、今日は良太が奢ってくれるんだぁ。何頼もうかなぁ。あ、カヴァのパラへ カリフィカード頼んじゃおうかなぁ」

「えっ、勘弁してくださいよぉ」と良太くんはストローの袋を箱の上で受け取ると、へへっとイタズラそうな笑いを浮かべて荷物を運んで行った。柾木さんはそんな良太くんの後ろ姿を胡散臭そうに見送った。

「はい、サングリアおまちどうさま」

 店長さんの声に私は振り向いた。

「あ! ありがとうございます」

 スツールに腰掛けようとする私に、柾木さんは「コートお預かりします」と両手を出した。見上げた柾木さんはいつの間にかワイシャツに緩めたネクタイの姿になっていた。眼鏡もかけていなかった。箱と一緒にコートやジャケットも置いてきたのだろう。私はコートを脱いで、柾木さんに渡した。

「俺のと一緒に置いてきていい? 心配だったら荷物を入れるバスケット持ってくるけど」

「いいえ、大丈夫です」

「じゃ、かばんはカウンターの下にあるフックにかけちゃって」

 そう言うと、柾木さんは私のコートを持って、また従業員用のドアを抜けて行った。

 私はバッグをかけるために、カウンターの下を覗きながら考えた。

(「俺」! 柾木さん、今、「俺」って言った! それに口調がくだけてる! ホーム グラウンドに来たって感じなのかな?)

 すぐに戻ってきた柾木さんに向かって店長さんが言った。

「カイはどうする? ビールにするか? ワインだったら、今はペネデスの赤が入ってるぞ」

女王様の涙ラグリマ デ レイナじゃないでしょうね」

「アホか。あれに手を出すくらいだったら、自分でガメリョンでも大量購入して来るわ。カン カウスの若いやつだ」

 柾木さんは席に着くと、カウンターの上に置いてあったドリンク メニューを取り上げた。私がさっき見ていたものだ。思案顔の柾木さんに店長さんは言った。

「そうだ、ティトが今日持って来たヘテの白があるぞ。お前、あれ好きだろう」

 柾木さんは嬉しそうにメニューから目を上げたが、遠慮したように言った。

「でも、開けてないんでしょう。勿体ないですよ。どうせトレス レイエススペインのクリスマス用に持ってきたんだろうし……」

「それも、そうだな!」と店長さんがあっさり応えたので、柾木さんはずっこけた真似をした。

「じゃあ、六日までとっておいてみんなで開けよう」

 店長さんはにかっと笑った。柾木さんは、ちょっと照れくさそうに「楽しみにしてます」と言った。

 それから柾木さんはドリンク メニューに目を戻して「ハウス ワインは何ですか?」と尋ねた。店長さんは、苦笑いをした。

「シュヴァルツ カッツとボルドーの安いやつ」

 柾木さんは何っ?という顔をして店長さんを見た。

「スペイン バルのくせに……」

「無茶言うなよ。日本人だったら白はリースリング、赤はボルドーだろうが。だからって『女王様の涙』出すのも恥ずかしいだろ」

「なるほど、カン カウスは苦労の賜物ってことっすね」

「当たり前だ。企業努力してんだ」

「それじゃあ、俺は更なる努力の賜物らしいテラ アルタのロカ ブランカにします。ちょっとヘテのワインの風味が刷り込まれちゃったんで……」

 私は、ワインなんて白か赤かの違いしか意識したことがなかったので、柾木さんと店長さんの会話の意味はほとんど分からなかった。でも、柾木さんがワインに詳しいことはわかった。そしてそんな柾木さんをついカッコいいと思ってしまった。思いながら、(先輩に憧れる新社会人か!)と自分に突っ込んだ。

 店長さんは、柾木さんの白ワインのグラスと一緒に、大きくて淡い緑のオリーブの入った小皿を「お通しです」とカウンターに置いた。オリーブの大きさに目を丸くする私を見ながら、柾木さんはグラスを持ち上げて「それじゃ、休出お疲れさまでした」と言った。私はオリーブから目を上げ、慌てて自分のグラスを持ち上げて「お疲れさまです。お付き合いいただいてありがとうございました」と頭を下げた。柾木さんはちょっと微笑んで、私のグラスに自分のグラスを軽く当てた。それからグラスを揺すってワインをぐるりとグラスの中で回し、香りを嗅いでからワインを一口飲んだ。私もそれに倣った。その様子を見て、柾木さんはくすりと笑ったが、それがどうしてかはわからなかった。

 サングリアは赤ワインの渋みに果物の甘さが混じって飲みやすかった。喉を通り過ぎたワインからは、シナモンやクローブなどのスパイスが香った。

「わあ、クリスマスっぽい! 美味しいぃ!」

 思わず私は声を上げた。

「クリスマスだからね」と柾木さんは笑った。

 そうだった。私はグラスをもう一度持ち上げて「……メリー クリスマスです」と言った。

 柾木さんも「メリー クリスマス」と言って、私とグラスを合わせた。

 ふふ、ちょっといい感じ。私は、いい気分でもう一口サングリアを飲んだ。

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