¡テキエロ! ワインとタパスとギターとあなた

イカワ ミヒロ

第1話 クリスマスの休出

 ひっきりなしに爪がキーボードにぶつかる音が聞こえる。それもかなりのスピードだ。

 フロアには向かい合わせに並んだ机の列が幾つも広がっている。それを何列も隔てた向こうから響いてくる指先の音。カタカタと休みなしに響くキーボードの音は怒っているようだ。

(イライラしているんだろうな……。こんな遅くにまで休日出勤に付きあわせてしまって申し訳ない……)

 罪悪感で自分の仕事の手が止まる。作業する私たちの頭上の蛍光灯だけを残して、フロア全体の明かりは消されている。省エネのためだ。薄暗いフロアの向こうで、スポットライトに照らされたように彼の姿が浮かんで見える。私はそのまましばらく彼に見入っていた。その視線を感じたのか、彼が目を上げる。私は慌てて手元の書類に目を戻し、自分の仕事を再開する。

(ぼんやりしない! 悪いと思うんだったら、さっさと仕事を終わらせること!)

 そう自分を叱咤し、残りの仕事に集中した。


 今日は十二月二十四日、土曜日。

 今年のクリスマスは週末だったので、前日からオフィスには浮かれた気分が漂っていた。私も土曜日は仲の良い友達三人と集まって、夕方からクリスマスを楽しむつもりだった。そのために金曜日は少し残業をした。

 ……これが悲劇の始まりだった。午後六時過ぎ、クライアントが突然の仕様変更を依頼してきたのだ。それも、月曜日までに。

 私が担当しているプロジェクトは小さなものだが、いわゆる戦略的プロジェクトだ。うちの会社では過日、特殊なセキュリティー システムを開発したある海外ベンチャーを買い取ることに決まった。それにしたがって、このシステムの所有権はうちの会社が持つことになり、日本でもこのシステムを利用した事業を展開するほか、特許も申請する予定になっている。

 私が受け持っているのは、この新セキュリティー システムの販促用のプロジェクトなのだ。

 システムを起用するクライアントは美容業界では名が知れている中堅だが、IT にはとことん疎い。このクライアントが我が社のセキュリティー システムを導入することで、クライアント、うちの会社、そしてうちの傘下となるベンチャー企業の三社の企業価値が上がることを狙っている。この発表が新年に控えているのだ。それまでに少なくとも仕様を固めて、営業が問い合わせに対して円滑に回答できるようにしておかなくてはならない。

 変更はざっと見積もっても一日仕事だ。緊急であれば残業や休出も仕方がないと思えるが、今日はもう七時近いし、明日は土曜日のクリスマス イブ。なぜ、このタイミングで……、と目の前が暗くなってしまった。

 既に帰宅していた朝岡あさおか課長に電話をかけて、せめて自宅で作業させてもらえないかと相談したが、結果はノー。このプロジェクトのセキュリティー システムはお正月までは完全社外秘の代物だからだ。そして、そのシステムには USB ドングルと呼ばれる物理的なキーがないとアクセスできない。さらに、このキーは総務が管理していて、社外持ち出し禁止はもちろんのこと、社内にいても逐次申請して利用するようになっている。

 朝岡課長が総務の平橋ひらはし課長に掛け合ってくれたおかげで、私のために総務の人が休出してくれることになった。それが柾木まさきさんだった。ただし、柾木さんには土曜日の午前中にどうしても外せない用事があるということで、作業は十二時から十七時半までということになった。

 柾木さんとは、仕事で用事があるときだけ話をする。なんとなく雰囲気が独特で周りからちょっと浮いている。右手の爪だけ伸ばしていて、なんとカルジェルまでしている。ごくごくプレーンでちょっと厚めの長爪だ。女子の間では、それがカッコいいという人と、不潔な感じがするという人に分かれている。オシャレのつもりなんだと思うが、どうせするなら少しはデコったらいいのに、と私は考えている。

 とはいえ、私が持つ柾木さんの印象は、可もなく不可もなく。以前は、爪でさえも意識に留めていなかったのだが、ある日キーを借りに行ったときに、柾木さんの耳にピアスの穴が空いているのを見つけてしまった。さすがに仕事にピアスはして来ないが、休みの日にはピアスを付けて出かけたりするんだ、と思ったら少し興味が湧いた。ただ、会社にいるときはいかにもメガネのサラリーマンという風体なので、このリーマン カットに似合うピアスと洋服はどんなのだろうと、用事で柾木さんの机に行くたびに想像するようになった。

 私が十二時少し前にオフィスに着くと、柾木さんは既に来ていて自席で作業をしていた。九十度に腰を曲げてお詫びをする私に、柾木さんは平静そのものだった。「私も月曜日までにすることがありましたのでご心配なさらず」と言ってキーを机の横にある保管庫から取り出すと私に手渡した。

「名前を書くのを忘れないでくださいね」

 キーを握りしめて、その場を立ち去ろうとした私に、柾木さんは声をかけた。仕事を早く始めることに気を取られていて、キーの貸出帳に部署名と自分の名前を書くのを忘れていた。慌てて貸出帳に紐で繋がれているボールペンを手に取った。

「製品企画 1 課 三枝さえぐさあかり」

 そこまで書くと、私の手元を見ていた柾木さんは左腕の時計に目を移して「今……十二時六分ですね」と言った。

(相変わらず固いなぁ……)

 休出で私と柾木さんしかいないのだから、時間ぐらい適当でいいと思うんだけど、そうは行かないのが柾木さんだ。今日も普段着で来ればいいのに、きっちりスーツで来ている。ちなみに私は、仕事が終わったら友達とのクリパに直行予定なのでピンクのチェック柄の A ラインの膝丈スカートにクリスマスの定番、オーバーサイズ気味の白のハイネックのセーターだ。

 席に戻った私は猛然と仕事を始めた。一日仕事を半日で終わらせるために、午前中に自宅で変更内容はまとめてきた。後は、既存の仕様を書き換えて、論理テストに合格すれば完了だ。

 夢中で作業していると、午後四時頃になって朝岡課長が来た。驚いて課長を見る私に「クライアントに送る前に私もチェックだけしておこうと思って。三枝さんに任せっぱなしじゃ悪いでしょ」と朝岡課長は笑った。

「でも……今日はご家族皆さんでクリスマスの予定なんじゃないですか」

「大丈夫、大丈夫。準備は済ませてきたし、子供は旦那が見てるから。うち、ここから歩いて十五分くらいで、定時で終わっても六時前にはうちに着くの」

「……すみません」

 朝岡課長はてきぱきと、私が変更し終わった箇所からテストを始めた。一人で変更もテストもする覚悟で来たが、手伝ってくれる人がいるのはとてもありがたい。思ったより、早く終わって二人でほっとしながらクライアントに修正した仕様書と簡易なテストができるリンクを送る。クライアントからはすぐに返事が来て、これから向こうでも確認するのでしばらく待ってほしいとのことだった。

「あちら様もクリスマス返上で働いてるのねえ」

 朝岡課長は溜息まじりに笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る