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神崎秋夜

プロローグ

「初めまして、君が星倉夕樹だね」


新暦86年9月13日午後5時。夏が過ぎ、金木犀の香りが弱く漂う秋の夕方。人気のない学園の中庭で、夕樹は急にそう呼びかけられた。周囲を見渡すが、人影が見当たらない。


 いや、影ならあった。長く伸びた木の枝の影の辺りに、不自然な大きさの影が。影の主の方へ視線を向ける。


「初対面なのに、高い所から一方的に話しかけるってどうなんだい? 逆光で顔も見えないじゃないか」


「これは失礼。中々君が見つからないものだから高い所から探していたんだ」


そう言って彼は身軽に木から飛び降りる。そして夕樹の方へ歩み寄ってきた。遠くからではわからなかったが背丈は高く、女子の中でも背が低い方である夕樹は結局見おろされることに変わりはなかった。多少影がかかっているものの顔がよく見えた。


「綺麗な目だ」


思わずそう零していた。そう言いたくなるほどに、空色がかった美しい薄紫の瞳だった。彼は一瞬ハッとした表情を見せると、顔を綻ばせ言った。


「ありがとう。僕もこの紅碧色の瞳は気に入っているよ」


 軽やかで風のようなテノールの声。中性的な顔には微笑が浮かんでいる。耳の少し下で切り揃えられたやや色の抜けた黒髪が、傾いた夕日に照らされて金色に光っていた。一筋の髪が左頬辺りで揺れている。真っ白なシャツに黒いネクタイを締めている。夕樹と同じ紫紺のブレザーの制服についた赤いバッジが、同じ1年生であることを示していた。これで自惚がなければなぁ、と夕樹は密かに溜息をついた。そんなことは露知らず彼は手を差し出した。


「僕の名前は神崎秋夜。宜しく」


宜しく、と言って夕樹も手を差し出す。しかし秋夜は握手を交わすのではなく、手をそっと掴み甲に接吻を落とした。


 ほとんど反射だった。彼が不思議そうな顔で頬を擦っているのを見て、夕樹はようやっと自分が彼を叩いたのだと気づいた。


「初対面だよな?」


口から出たのは、それだけだった。


「あぁ……会うのは初めてだが」


秋夜は未だに頬を擦っている。彼の言い方に何か引っかかりを感じた。


「会うのは、ってどういう意味だ」


「単純な話だよ……君のことは前から知っている。こうして話すのが初めてなだけで、」


最後まで聞けなかった。この男は危険だと、脳が発していた。夕樹は弾かれたように走り出した。後ろから「待ってくれ」と叫ぶ声が聞こえたが、止まることなどできなかった。


「何なんだ、アイツ――」


恐怖が全身を支配していた。




「……逃げちゃった」


初めてのことに秋夜は困惑した。自分がこうして置いていかれたことにまだ実感が湧かない。


「軟派な振る舞いが駄目だったんだろうな。珍しくはない」


夕樹の走り去った方角を見つめる。追いはしなかった。焦らなくても、どうせまた会う。


「次は、もっと硬派に――」


そう呟いた彼の顔からは既に笑みは消えていた。

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