第四章 アーシャ 4

          * 4 *



「ふむ」

 ラキが見ているのは、玄関ホールの片隅、二階へと続く階段下にひっそりとかけられた小さな黒板。

 それにはその日の入浴スケジュールが書かれていた。

 すでに今日の分が書かれているそれには、夕食前に兵士が二交代での入浴、夕食後にカエデとリディ、それからトールとラキとアーシャが続き、最後にタクトとなっていた。

 毎日昼前には掲示される入浴予定は、カエデの仕事量や人と会う予定などにより夕食後の順番は度々変わる。

 タクトが単独であるのは、人が苦手な彼をカエデが配慮してでのことだと、ラキは聞いていた。

「ふむ……」

 ラキは耳が肩に触れるほど大きく首を傾げ、じっと黒板を見つめている。

 そんなとき、声が聞こえてきた。

「何をしているんですか!」

 両開きの玄関扉の外からでもよく聞こえるその声は、トールのもの。

 直後に扉を開けて入ってきたのは、トールとタクト、それからタクトの身体によじ登っているアーシャだった。

「危ないから、アーシャ。それに汗臭いし……」

「大丈夫だよっ、タクトさん! 良い匂いだよぉ」

 ここのところ、午前中はトールと一緒に走ったり、筋肉を鍛えたりと、運動をしていることの多いタクト。

 他にも兵士やリディの手ほどきで身体捌きや剣の扱い方を習っていたりしている。

 後者は力任せが基本のトール、武器を振っているだけだったラキも参加していたりする。

 トールとともに午前中の鍛錬をやっていたらしく、微かに汗と土の匂いをさせているタクトは、どうやら待ち構えていたらしいアーシャに捕まってしまったらしい。

「重いぃー?」

「いや、重くはない、けどね……」

「けれど危ないですからっ」

 緑を基本に何種類かの布地を使い、人間ならばおそらく可愛らしいと表現するだろうデザインのワンピースを着たアーシャは、上手い具合にタクトの身体をよじ登り肩車の位置に納まっていた。

 落ちないようタクトはアーシャの細く白い脚を支え、トールは目尻をつり上げ、臆した風もなくニコニコとした笑顔を睨みつけている。

 ――トールは、アーシャが来てからよく叫ぶようになった。

 そんなことを考えるラキは、ふと天井を仰ぎながら考え直す。

 ――タクト様の膝で本を読んでいると、ワタシも叫ばれた。

 思い出してみれば、ラキやアーシャがタクトにくっついているときにトールは叫んでいる。逆に同じ場所にいても、それぞれの席に座って食事をしているときは叫んだりはしない。

 タクトに触っていることが問題ならば、トールも同じように彼に触れば良い。タクトの眷属という立場は同じなのだから、困った顔は見せても彼はおそらく拒否しない。

 それなのにトールは、タクトにあまり触れようとしない。

 力が強くて怪我をさせてしまいそうだから、というのはあるかも知れない。

 だが料理や裁縫ができるようになったトールは、力加減も上手くなったと聞く。

 そんなトールなのに、いつもタクトに触れようとしたとき、一瞬ためらったり、ためらったまま手を引っ込めたりする。そんな場面を、タクトやトールと過ごすようになってから、ラキは幾度も見てきた。

 ――その心理はなんだろう?

 まだ怒りの声を上げ続けているトールと、少しも気にせず、困った顔をしたタクトの頭にしがみつくように身体を密着させているアーシャ。

 自分もあそこに寄っていってタクトに抱きついたら、どんな反応をするだろうか、と考えつつ、ラキは腕を組んで思い悩む。

 困りながらも気にかけてくれたり、心配してくれたりするタクトは、おそらく優しい人。彼から向けられる視線はどこか心地よく、いつまでも見ていたいという気持ちを湧き起こさせる。不思議。

 身体をくっつけたときが一番表情の変化や身体の動きが激しくて、とくに胸を押しつけると反応がさらに凄くなる。

 ダメだと口では言うタクトだけど、全力で拒絶したりはしない。男という生き物はそういうものらしいと、本で学んでいた。

 トールもまた凄い。

 アーシャやラキがタクトにくっついていくと大きな声で叫び、場合によっては力任せに引き剥がしにかかってくる。

 叫んでいるときは目尻がつり上がっているのに、そうでないときにタクトを見つめるトールは、まるで別のパーツに取り替えたように目尻が大きく下がって、柔らかい表情をしている。

 脆いものを扱うようにタクトに接しているトールは、たまにその背中を押してみたらどうなるだろうか、と考えたりもする。

 どうやら玄関ホールでのやりとりは終わったようで、アーシャと手を繋いだタクトが階段を上がっていくのが見えた。

 トールは、半歩後ろからタクトの手に自分の手を伸ばしたのに、触れることなく引っ込めてしまっていた。

「ふむ……」

 ラキに気づかず三人は二階に上がっていき、静かになった玄関ホール。

 そこでラキは首を傾げながら考え込む。

 タクトの心理は、屋敷にあったり彼に買ってもらった、英雄や戦争を描いた物語に出てくる主人公の男性たちとは大きく違う。

 強いて似ているものがあるとしたら、ほんの数冊しか読めずにどこかに隠されてしまったが、男同士の恋愛を描いた物語の登場人物のものに近い。

 トールの心理もよくわからなかったが、個性が男性に惚れる物語の、女性主人公が見せる反応に近いと感じていた。

 首を傾げたラキは、もう一度順番表を見つめる。

「背中を、押す……」

 しばらく考え、そうつぶやいたラキは、黒板のところにあったチョークを手に取った。



            *



 姫の話によると、屋敷の地下にある大浴場は、ジョーカーの使徒がつくった可能性が高いのだという。

 元の世界にあった銭湯や温泉ほどには広くないが、一〇人くらい同時に入れそうで、洗い場も相応に大きく、脱衣所もしっかりしている地下浴場。

 上の建物は何度か建て直されてるけど、浴場に使われている相当地下深くから湧き上がっている温泉の汲み上げ装置は、完成してから変わっていないらしい。

 一説によると建国の英雄カエデ・ヤマトの命でつくられたという話があるくらい古く、同時に正確な建造年代や建造者のわかっていない小規模温泉だった。

 王家の保養地としても使われる温泉に、俺はまったりと身体を浸していた。

 昼前に更新されていた入浴スケジュールによると、今日は俺が一番最後。

 いつもよりもゆっくりとお湯に浸かっていられそうだった。

「なんか、ずいぶん変わったな」

 そんなに高くない、湯気で霞む天井を見上げながら、俺はそんなことを思う。

 ジョーカーに殺されこの世界に来る前の俺は、他人の声を聞くのは週に一回か二回、スーパーかコンビニの店員とか、宅配業者の配達員くらいだった。

 それがいまは、権能によって女体化させたトールやラキやアーシャが傍にいて、姫やリディさんもいてくれる。

 女っ気なんて欠片もなかったのに、凄い変わり様だ。

 兵士の男の人たちとはまともに話せていないけど、鍛錬をつけてもらってるし、人との接触を可能な限り避けてた以前とは大きく違っていた。

 ――生きてるって、けっこう良いものなんだな。

 いまだからこそ俺はそう思える。

 以前ならそんなことは考えることもできなかったし、実行までは移したことはなかったけれど、いつ死のうかってことばかり考えていた。

 周りにいる人の違いで、こんなにも違うんだと思わずにはいられなかった。

「でも、ジョーカーと、ゴローのことは気になるな……」

 救ってほしいと言われ、頷いた俺を転世させたジョーカー。

 ゴローが会ったというお婆さんとは違って、俺が出会ったのは美少女だったし、同一の神なのかはわからない。けれど同じじゃないかと思えるジョーカーは、今後彼女の思惑によって振り回されるのではないか、という予感があった。

 それよりも先に気がかりなのはゴロー。

 スイミーを取り込んだというゴローは、角が頭に生えてたし、おそらく俺の知ってるあいつとは顔は同じでも、力は大きく違うだろう。

 正直、恐い。

 魔王軍と戦うのは討伐軍の仕事で、俺が姫から受けた仕事は討伐軍本隊到着まで姫と屋敷を守ること。ゴローと戦う依頼を受けたわけじゃない。

 だったら本隊が到着したら、入れ替わりにここを離れれば良い。

 それで良いとわかっていても、俺とゴローのしがらみは根深い。

「それに、姫も気がかりなんだよな」

 ゴローと話していたとき、あいつと差し違えるような、身体を差し出してもあいつを倒そうとしている様子があった姫。

 それには何か理由が、それも王女だからとかではなく、個人的な理由があるような気がしていたし、姫はもしかしたら討伐軍とともにメイプル要塞に入り、ゴローと戦うつもりかも知れない、とも思っていた。

 大魔王討伐に参加して生き残り、ライムの竜王を倒したスイミーの力をゴローが持っているなら、あいつと直接対峙した姫は、瞬殺されるだろう。

 痛いのはイヤだし、恐いのも嫌いだが、姫には死んでほしくないとも、俺は考えていた。

「どうするべきかな」

 決めきれない俺は、ほんの少しだけぬめりを感じる温泉の湯を両手で掬って顔を濡らし、大きなため息を吐いた。

 明日か明後日になる予定の討伐軍本隊到着までには、答えを出さないといけない。

 トールとラキは一緒に来てくれそうだし、アーシャも離れたくないと言いそうだった。でもそれってことは、彼女たちを危険に曝すことになる。

 せっかく俺のことを想ってくれる女の子たちを、俺の勝手な想いで戦いの場に連れ出したくはなかった。

「――!!」

「……」

「……! ――っ!!」

 そんなことを考えていたとき、脱衣所の方から声が聞こえてきた。

「え? なんで?」

 俺は思わずそう漏らして身体を硬直させた。

 お風呂のスケジュールはリディさんがしっかり管理していて、ばったり出会ったりすることがないように時間も空けられている。

 今日は最後であるはずの俺の入浴時間に、誰かが入ってくるなんてことはあり得なかった。

 怒ってるらしい声と、それに小さな声で反論してる様子の声、それとはしゃいでる感じの声の、女の子ばかり三人分が聞こえる。

 誰が入ってきたのかは、考えるまでもない。

 ――逃げよう。

 トールはあの洞窟で過ごしてたほんの短い時間のとき、裸を見せても恥ずかしがらなかったくらいだし、大丈夫だろう。

 ラキも女体化した直後、みんなに裸を晒したけど恥ずかしがる様子はなく、羞恥心の感情が理解できていないんだと思う。

 アーシャはどうだかわからないが、子供をつくろうなんて言ってきてる彼女は、恥ずかしがるどころか駆け寄ってきそうな気がした。

 でも三人の反応より、俺が恥ずかしい。

 美しく、可憐で、可愛らしい三人と一緒にお風呂に入るなんて、俺の精神が持ちそうにない。

 どこか隅に隠れてやり過ごし、逃げだそうと腰を浮かせたところで、脱衣所の扉が開けられた。

 間に合わなかった。

「どうも」

 言いながら洗い場の真ん中まで踏み込んできた、風呂場でもツインテールのままのラキ。

 一度見たけどほんとうにそのままアニメのキャラになってもおかしくないくらい綺麗で、可憐で、髪だけでなくあらゆる毛が金色をしている彼女。

 俺のことをじっと見た後、後ろから入ってきたあとのふたりを、無表情のようでいて微妙に細めた目で見つめる彼女に、俺はこのバッティングの理由を知る。

「あれ? タクトさんだ! 一緒にお風呂ーっ」

 そう言って嬉しそうに笑っているのは、アーシャ。

 お腹がぽっこり出ていたりといった幼児体型ではないし、ラキのように出るとこ出てくびれるとこくびれてるような女性らしさがあるわけでもないが、これからが期待できるほっそりとしていて、でも柔らかそうな身体つきをした彼女は、世界一美しい竜であると言う羽毛竜の美しさを、確かに継承しているようだった。

「え……。タクト?」

 驚いて立ち止まったトールの身体は、やっぱり本当に綺麗だ。

 ラキよりもメリハリがあり、細いとこは細いのに、頼り甲斐を感じる肩幅や腕や脚。そしてなにより、最初のときのように顔を埋めたくなる、大きな胸。

 なんだかもうずいぶん昔のようでいて、まだ二週間と経っていない、久しぶりのトールの裸に、俺はまた見惚れてしまっていた。

 でも、違うことがあった。

 ラキやアーシャに比べると少し浅黒さを感じるトールの肌が、急速に赤く染まっていった。お湯につけたタコのように。

「ふむ、なるほど……。興味深い」

「ラキ?!」

 そんなことをつぶやくラキを睨みつけるトールだったけど、逃げ出すつもりで湯船から半分身体を出していた俺のことを、真っ赤になった顔で見つめてくる。

「わーい、一緒に入ろう! タクトさんっ」

「ダメ!」

 言ってこっちに走ってこようとするアーシャの首根っこをつかみ、俺に背を向けて自分の身体に隠すトール。

 さらにラキの肩をつかんで抱き寄せた彼女は、上ずった声で言う。

「すっ、済みませんっ、タクト! 時間が、何故か……、違っていたみたいで……」

「いや……、あのっ、こちらこそ……」

 ほとんど裸だったときも、本当に裸を見せてきたときも気にしてない様子だったのに、いまのトールは俺に裸を見せないようにしているようだった。

 ――ど、どうしたんだ? トールは。

 恥ずかしがってるようにも見えるトールの様子に、俺はなんか凄く恥ずかしくなって、ぎこちなくしか返事ができない。

「えっと、こっ、今晩はこれで!」

「うっ、うん……。俺もすぐ出るから……」

「はいっ!!」

 怒ったみたいに大きな声で言い、暴れるアーシャを抱きすくめ、俺の顔と真っ赤な顔を交互に見つめてきているラキの手を引き、トールは慌てながら脱衣所へと出ていった。

「はぁ!!」

 大きく息を吐き、俺は湯船にへたり込む。

 考えてみると俺もアラレもない格好だったんだが、それよりも三人の身体が綺麗すぎて、見とれて良いのか、顔を逸らすべきなのかがわからないまま、じっと見つめてしまっていた。

 そしてなにより――。

「トール、可愛かった……」

 俺より身体が大きく、俺よりも遥かに強いトールなのに、顔も身体も真っ赤に染めた彼女は、凄く可愛いと感じていた。

 呆然としたまま俺は動けなくて、力が入らなくなった身体がずるずると滑って湯船に顔まで沈んでいくのを、止めることができない。

 お湯の中で目をつむった俺は、三人の裸を瞼の裏に浮かべていた。



            *



「ありがとうございます、リディさん」

「美味しそうっ」

「……少ない」

 今日の朝食は保存の利く堅めのパンと、塩味がちょっと強めだけどマメや野菜が入った濃厚な出汁を使ったスープ、それからメインとして塩漬けの豚肉を水で戻して焼いて目玉焼きを添えたもの。

 アーシャと俺はその三点だけど、ラキにはスープとパンしかない。

「昨晩は少しばかりいたずらが過ぎたようだからな。ラキ、お前はそれだけだ」

「なるほど……。これがお仕置きというものですね……」

 姫の声にそんなことを言うラキ。

 無表情のようでいて、自分の前に置かれたスープとパンの皿を見つめるラ彼女は、どうやら残念がっているらしい。

 そして、トールはいまここにはいない。

 ほとんど毎日、トールは俺のことを起こしに来てくれていたのに、今日はそれもなかった。

 昨日の晩、あの脱衣所で別れてから、お風呂が空いたことを伝えに行っても、朝食に誘ったときも、顔を見せてくれなかった。

「トールは?」

「今日は寝ていたいそうです」

 パンをスープに浸しているラキに聞くと、そんな声が返ってきた。

 そこそこ豪華な夕食だけでなく、トールはあらゆる食事を楽しんで食べていた。横で見ていて気持ちよくなるくらい、美味しそうな食べっぷりだった。

 そんな彼女が朝食に出てこないなんてのは、よほどのことがあったからだ。

 ――トール、大丈夫かな?

 昨日も、顔も身体も真っ赤にしておかしかったし、今日もおかしいらしい彼女のことが気がかりで、俺は大きなため息を吐いた。

「タクト、どうした。そんなに深いため息を吐いて」

「いや、トールのことが心配で……。何があったんだろう?」

 問われてそう答えると、リディさんと見つめ合った姫は、何故かふたりして肩を竦めていた。

 どういうことなのかわからなくて、でも俺はそれよりトールのことが気になって、早く彼女の様子を見に行くためにもそもそと朝食を食べ始めた。

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