第二章 カエデ 3

          * 3 *



 俺の前に並んでいるのは塩焼きにした川魚と、深皿に入っているスープは何度味わってみても味噌汁、それから野菜かと思ったらにんじんやキュウリや白菜の浅漬けで、そして何より白米があった。

「美味い……」

 ソイソース――醤油まである上に、箸もあって、入っている器は洋風だけど、完全に和食としか思えない料理を、俺は味わっていた。

「これが、料理というものなのですね、タクト」

「そうだ、トール」

「納得しました。貴方がどうして調理を望んだのか、いまはっきりとわかりました」

 さすがに箸は使えないようだけど、骨も頭も丸ごと塩焼きの魚の三匹目を食べているトールは、呆然というか、恍惚とした顔をして食事を進めている。

「飲み物をどうぞ」

「ありがとうございます、リディさん」

 空になったカップに、どう見ても日本茶を注いでくれたのは、形こそトールのと同じだが、黒いメイド服のリディさん。

 トールの様子にたまに噴き出しそうになってる彼女は、一度に一〇人ほどが食事できそうな食堂で、兵士たちから遅れて夕食を摂っている俺たちの給仕をしてくれている。

 リディさんの話によると、米は小麦と並んでこの地域の特産物だそうで、味噌や醤油も保存食や調味料として一般的なんだそうな。

 さすがに元の世界で食べてたご飯とはちょっと違う感じがあったけど、気候的にも日本に近いらしいこの地域は、育つ植物も日本と変わらないのかも知れない。

 少し話をしていたら夕食の時間になってしまい、まずは食事だということで食堂に連れてこられた。

 先に自室で食事を終えてやってきた姫が、大きなテーブルの向かいの席で楽しそうな笑みを浮かべている。

 姫からはいま俺とトールがいる場所や状況を、軽くだけど聞いていた。

 いまいるのは姫ことカエデ・エディリア第三王女の国、エディサム王国。島国であるエディサムがある地は端から端まで旅をすると何ヶ月もかかるそうだがそれほど広いわけでなく、海を隔てて大陸があるそうだ。

 エディサム王国の他にも西や北に国があり、交流はあるものの深い絆で結ばれているとは言い難く、緩い緊張関係にあるのだという。

 俺や姫がいるのは王国でも北東に位置する辺境で、リーリフの町の外にある、王家の別荘。さらに北にはメイプル要塞という要塞都市があり、現在そこは魔王スイミー率いる魔王軍が支配してしまっている。

 王都までは一週間ほどの距離で、メイプル要塞より北は人間族はほとんど住んでいない。その辺りの地域には元々スイミーの魔王軍と、ライム竜族という竜族が住処にしていた、山深い地域ということだった。

 ただ、スイミー魔王軍とライム竜族は数百年来の険悪な関係で、ついに二年ほど前に支配領域の競合か何かで敵対し、全面戦争になってしまったのだという。その激しすぎる戦いは北の山々を荒廃させ、火山の噴火もあって、ライム竜族を滅亡させるに至ったものの、戦いにより勢力を大きく減少させた魔王軍は、メイプル要塞を乗っ取り人間族から搾取をするようにしたと姫は推測していた。

「さて、タクト。それにトール。トールはお前の眷属で、元はこの近くに移り住んできていた暴風のオルグというのは、本当か?」

 食事を終え、リディさんに食器を下げてもらった後、お茶が配り終えられたタイミングで姫がそう声をかけてきた。

 眉間にシワを寄せ困り顔をするトールは、俺としばし見つめ合ってから、姫の問いに答える。

「暴風の、という二つ名は知りませんが、わたしが先日までオルグだったことは確かです」

「割と有名だったぞ? かなり昔からな。こちらから手を出さなければ襲ってくることは希で、どこの魔群にも属さずひとりで行動するオルグのことはな。暴風の、という名がついたのは最近のことだが、魔王軍から派遣された兵隊も、屈服させようと襲ってきた魔族も暴風のような身の熟しで打ち倒すたったひとりで行動するオルグのことは、少ないと言っても北の地にも人間は住んでいるからな。妖精族などから伝え聞く話もあって、よく知られていたよ」

「はぁ、そうだったのですか……」

 さらに眉根のシワを深くするトールに言われても困るだけだろう。

 姫の言葉の通りなら、トールはオルグだった間、本当にひとりで行動して、歪魔とも交流せずそうした情報を仕入れる機会もなかったのだろうから。

「暴風のオルグについては念のため後で生存の確認をするつもりだが、――タクト」

「ん? はい」

 トールから視線を移した姫に突然呼ばれ、俺は反射的にそんな返事をしてしまった。

 緑がかった瞳に楽しそうな色を浮かべる姫は言う。

「オルグを権能によって眷属にしたというなら、お前の正体がわかったぞ」

「俺の、正体?」

「あぁ。お前はジョーカーの使徒だ」

「ジョーカーの使徒?」

「そうだ」

 突然そんなことを言われても困る。

 たぶん、俺を包丁で刺して殺した美少女がジョーカーという名前なんだろうが、少なくとも俺の中で自分は人間で、使徒とかいうよくわからないものになった感じはしない。

 いや、トールの魂を解放した権能は、たぶんそのジョーカーの使徒になったから得られた力なんだろうけど。

 緑茶の入ったカップを口元に寄せた姫は、リディさんに視線を向ける。

 それに応えて姫の後ろに控えていたリディさんは、半歩前に出て教えてくれる。

「タクト様。この世界には数多くの神がおり、信仰を集めたり眷属や氏族を生み出すことにより勢力争いをしています」

「それはちょっと、トールからも聞いた」

「はい。人間には特定の種族神というものはおらず、人間に協力してくださる多くの神々のうち、己が望む神を信仰し、日々暮らしています」

 そういうのはちょっとゲーム的で、わかるかも知れない。

 ゲームの神官系のキャラは、神に仕えるというだけじゃなく、特定の神を選択することで、その神の信者だけが使える特殊な神聖魔法を使えたりする。

「じゃあ姫やリディさんは、特定の神様を信仰してたりするんだ?」

「いいえ、それは違います。例外を除き、神は多くの神を信仰することを許していて、それぞれ人の資質により三柱から一二柱、通常ならば五柱程度の神を信仰しています」

「五柱……。けっこう多いんだね」

「はい。神を信仰することで、我ら人間は神から加護を得ることができます。例えば商人ならば商売の神や計算の神を、農民ならば天候と豊穣の神を、といった形で。神々からの加護は小さな恩恵ですが、あるのとないのとでは違いがあるものです」

「……へぇ」

 お茶をすすりながら、俺はなんとなく親しみに近い感情を抱いていた。

 加護というのが実際人間に感じられるほどあるのだから元の世界とは違うんだろうけど、御利益に応じた神を信仰するってのは、本当に日本的な宗教観に近いように感じられた。

「また神にとくに愛された者は、能動的な能力として、祝福を与えられます。エディリア王家の血筋の者のほとんどは祝福を与えられるほど神に愛されておりますし、もちろんカエデ様も祝福を与えられています」

「うむ。私は治療の祝福を持っている。私自身の体力を使って成す祝福だからな、あまり多用はできないし、死者を生き返らせられるほどには強力ではないし、あまり大きな傷を癒そうとすると自分の命が危うくなるがな。それからもうふたつ、護身の神により、一日一度程度であるが、あらゆる攻撃を弾く祝福というものなどが使える」

「そもそも祝福を与えられる者というのが非常に希で、エディリア王家の者でも三柱の神から祝福を与えられた者はカエデ様の他になく、神に最も愛されている王女です」

「まぁ、それによって苦労もするのだがな」

 呆れたように肩を竦める姫と、小さく息を吐きながら険しく眉を顰めるリディさん。

 この世界が神の影響の大きい場所だってのはわかったけど、俺はひとつ疑問が浮かんでそれを訊いてみる。

「全部で三つって言ったけど、もうひとつはなんなんだ?」

「それは、な……。まぁ、豊穣の――」

「カエデ様」

「……詳しくは秘密だ」

「そ、そうか」

 苦々しげな顔をしつつも言おうとした姫はリディさんにたしなめられ、口を閉ざしてしまった。

 怒っているのではない、困っているというのともまたちょっと違う複雑な表情を浮かべているふたりに、俺はそれ以上の追求をやめた。

「それで、ジョーカーの使徒というのは?」

 微妙な雰囲気になって話が止まっていたのを、トールの言葉が払拭した。

「そうだったな。いまはそちらの話だった。この世界には時折異なる世界から人間ないし人間に近い者が突如現れることがある。転世者と我らが呼んでいる者たちは、偶然この世界に訪れることが、多くはないが、確かにある」

「転世者?」

「うむ。転世者は異なる世界の、場合によっては進んだ知識を持っているが故、国や人々に多大な影響を及ぼすことがある。ただまぁ、手に異世界の道具を持って現れるものはおらぬし、知識や技術で影響を及ぼすためには時間がかかるのが常であるから、影響は限定的なことが多いがな」

「なるほど……」

 俺のように転生してきた奴のことはここでは『転世者』と呼び、俺以外にもいることはわかった。

 たぶん近代から近世辺りの文明と科学力だろうこの世界に、俺みたいな現代の知識を持ち込んでも影響が大きくないというのも、まぁわかる。

 もし俺がこの世界にスマホを持ち込むことができていたとしても、電波が届かないなら内蔵の機能とデータしか使えないわけだし、充電が切れればゴミにしかならない。分業が進んでる現代で、素材の発掘からスマホを造り出せる個人なんてのもあり得ない。

 農業とか工業の方面で仕事してる人ならもうちょい違うかも知れないが、農機具も農薬もないから現代農法をそのまま実現もできないし、工場と設備が整わなければ工業だって生かし切れない。

 発明とか技術には発想が重要だったりするから、転世者の影響がまったくないわけではないだろう。でも生かし切るための状況をつくるには、人間の寿命は短すぎるんだと思う。

「そしてジョーカーだが、転世者の中には祝福よりも強力で、魔族共が使う魔法よりも不思議な、特殊な能力を使う者がいる。この世界に来る際に神から与えられたというその能力を権能(チート)と呼び、それを持つ者をジョーカーに遣わされた者、使徒と呼ぶ」

「トールをオルグから俺の眷属にしたから、俺はジョーカーの使徒だと?」

「あぁ、そうだ。妖魔を女にするなどという祝福は聞いたことがないし、お前は転世者だ。まず間違いなくお前はジョーカーの使徒だよ、タクト」

「ふむ……」

 遣わされたというが、自分が天使のように役目を負っていたり、役割を持っているという感じはしない。

 意地悪な笑みを浮かべていたさっきと違って真面目な顔を、むしろ不快感を覚えているのかのように眉を顰めている姫が、嘘を言ってるようには思えない。

 元々たいした人間じゃなく、トールをいまの姿にした力を持ったことを考えると、使命や役割がなくても俺はジョーカーの使徒ってことなんだろう。

「ジョーカーの使徒って人は、他にもいるものなのか?」

「いるな。あまり広言している者はいないが、転世者自身がそれなりにいる。会ったこともない者も含め、五人ほど知っている転世者、もしくはその疑惑がある者の中で、ひとりは確実に、あとふたりはおそらくそうだろうと思われる。歴史を振り返ると、三〇〇年ほど前の我が王国建国の際に活躍した、建国の英雄はジョーカーの使徒だと目されているな」

「建国の英雄って、なんかちょっと格好良いな」

「ふふっ。確かにな。三〇〇年前、この地の東、いまの王都よりももう少し東に流れてきたエディリア王家とその家臣は、この地を開拓しようとしたが、困難を極めた」

「いまでもそうですが、確か三〇〇年前というと、妖魔で溢れていた時期でしたよね? 大魔王グラム・スパイズの影響で」

「よく知っているな、トール。その通りだ。王国建国よりもさらに一〇〇年以上昔、ここより北の広い地域を手中に収めていた大魔王グラム・スパイズ。妖精族、巨人族、人間族、それどころか大魔王に反旗を翻した魔族によって討伐されたが、多くの歪魔は分散して各地に流れ、この地も危険地域となっていた。それを自ら建築したメイプル要塞を拠点に討伐して回ったのが、建国の英雄カエデ・ヤマトだ」

「カエデ・ヤマト?!」

 オルグとかオークは翻訳されて認識してる感じがあったし、リディさんとかはファンタジー世界っぽい名前だ。姫の名前だけなら偶然かと思っていたけど、カエデ・ヤマトは馴染みが深すぎる。明らかに日本人名だ。

 漢字にすると「大和楓」とでもなるんだろうか。

 日本人にしても若干違和感の拭えない名前であったけど。

 ふと考えると、メイプル要塞もそうだし、このリーリフもリーフからなまってつけられた、カエデ・ヤマトの命名かも知れない。人のことは言えないが、ネーミングセンスはあまり感じない。

 大声を上げてしまった俺の反応に、ニヤニヤした笑みを浮かべ始めた姫は話を続ける。

「お前の名前の音から予想はしていたが、やはりタクト、お前には馴染みのあるものであったか」

「まぁ、たぶん俺と同じ国の出身じゃないかと思う。生まれた時代は、かなり違いそうだけど」

「おそらくそうであろうな」

「じゃあ姫は、そのカエデ・ヤマトの子孫、とか?」

「いや、まったく関係はない。おそらくな。カエデ・ヤマトは英雄ではあるが、王国平定後の政治ではあまり強くなくてな。政争に敗れメイプル要塞に戻り、死んだとも旅に出たとも伝えられ、王都では英雄ではあるが敗走者として軽んじられている。私はいわゆる英雄名を付けられた形だな。軽んじてる英雄の名を付けるくらいだから、まぁ私の扱いもわかるというものだ」

 唇の端をつり上げ、姫は皮肉を込めた声を吐き出すように言った。

「しかしながら彼女のゆかりの地であるメイプル要塞、リーリフでは絶大な人気があるからな。私の名前もここでは有用でもあるのさ」

「なるほど……」

 瞳に籠められた複雑な色合いに納得しきれないものは感じるが、とりあえず突っ込まないでおく。

「話を戻そう。ジョーカーの使徒は各々に様々な権能を発現し、世界に対し様々な影響を与えている。ひっそりと暮らす者もいれば、技術の発展に貢献したり、英雄になる者もいる。人間族はジョーカーの使徒により、いびつな発展を遂げているとも言える」

「いびつ?」

「うむ。転世者だけでもこの世界にはない技術や発想をもたらしているが、個人個人異なる権能は、その者の望みを実現しやすくする形で発現するらしい。故に使徒たちは己が特徴を伸ばしやすく、世界に影響を及ぼしやすい。……ただまぁ、エディサムの現王は低能だな。ひとりひとり見極めなければ有用か、害悪かわからぬジョーカーの使徒を、十把一絡げに無価値と断じて遠ざけている。自身が様々にジョーカーの使徒のもたらした恩恵を受けているというのに、な。しかし――」

 現王と言えば、おそらく姫の実の父親のはずだ。

 それを低能と斬り捨てる彼女はずいぶんと尊大な態度に思えるが、名付けの段階で扱いが微妙な立場のようだから仕方がないのかも知れない。

 そんなことを考えて少しうつむいていた俺の視界に、椅子から立ち上がりテーブルを回ってきた姫の黒い靴が入ってきた。

 顔を上げると、いまにも泣きそうにも、悲しそうにも見える表情の姫がいた。

「タクト。お前の、妖魔のソウルコアに干渉する権能というのは珍しいものだな」

「そ、そうなんだ?」

「あぁ。過去にはそうした権能を持つ使徒がいたという記録はあるが、現実に出会ったことはなかった」

 まだ十四歳で、俺より頭ひとつ分くらい小さな美少女、カエデ・エディリア。

 椅子に座っている俺の顔に、キリリと整った端正な顔をずいと寄せてくる彼女。

 後ろに立つリディさんの視線が刺さりそうなほど鋭いが、突然のことで俺は逃げたり、後ろに下がったりとかの反応をすることができない。

「お前の権能はソウルコアに、魂に干渉するだけのものというわけではあるまい。トールとも話したが、お前は彼女の望みと、お前の望みを寄り添わせることで、女の姿の眷属を生み出したのだろうと思う」

「そう、なの、かな?」

 緑がかった綺麗な瞳に、俺が映ってる。

 吐息がかかるほど顔を近づけられて、身体が硬直してしまっていた。

「おそらくお前の権能は、魂解放(ソウルアンリーシュ)だ。お互いの望みを沿わせることにより、魂を解放することができる。それならば――」

 言って姫は、俺の右手を取った。

 そして、自分の胸に押し当てる。

 黒いドレスに包まれた、姫の胸。

 決して大きくはなく、しかしもう女の子らしい膨らみと、まだ蕾のような硬さが、服越しでも感じられた。

 素晴らしいプリンセスおっぱい。

 姫自ら、俺の手を自分の胸に強く押しつけている。

 姫の心地よい香りと、綺麗で、でもどこか深い闇を感じさせる瞳と、右手に感じる未来に期待できる柔らかさに、俺は動くことなんてできなかった。

「私のことも、お前の権能で別の姿に造り替えることはできるだろうか?」

「え? いや、それは……」

「少々、姫であることに疲れた……。別の姿になって、別の人間として歩めるならば、それも良いものかも知れない」

 俺のことを見つめてくる姫の瞳は、揺れていた。

 迷いではない、苦しさと、悲しみに満たされた、寂しげな瞳。

 ――俺がもし、いまここで権能を使えば……。

 なんてことを一瞬考える。

 ――いや、無理だ。

 驚いて挙動不審になっていた俺は、姫の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。

 姫が唇を噛むのが見えた直後、俺の視界は大きく動いた。

「タクト!」

「カエデ様!」

 トールに椅子ごと背中から抱きかかえられ、姫から距離が大きく離れる。

 怒った顔をして姫と俺の間に割り込んできたリディさんの手には、食事用のナイフが握られていた。

「どういうつもりですか! カエデッ」

 どうやら姫のことを敵として認識したらしいトールは、彼女のことを呼び捨てにして睨みつける。

「カエデ様を呼び捨てになど――」

「良い。私がやり過ぎたのだ。済まなかったな、トール。それに、タクト」

「あぁ、うん。……とりあえず下ろしてくれ」

 姫の謝罪を受け入れ、まだ抱きかかえられて脚をぶらぶらしていた俺は、トールに声をかけて下ろしてもらう。

「戯れが過ぎます、カエデ様」

「そうだったな。済まぬ。冗談だった。さすがに姫という立場を捨てるわけにもいかないからな」

 冗談、という言葉が本当なのかどうか、意地悪そうに唇の端をつり上げて笑う姫からは、よくわからなかった。

 でも、何か言おうと思って、少し考えた俺は、姫に言う。

「トールのときがそうだったし、俺の眷属になっても、姿が変わっても、記憶が消えることは、たぶんないよ」

 ショックを受けたように目を見開いた姫。

 小さく「そうか」とつぶやき、彼女は俺に背を向ける。

 まだ姫のことを睨みつけてるトールに微笑みかけてやると、少し不満そうに口を尖らせながらも、諦めたようにため息を吐いた。

「さて、ここからが私にとっての本題だ。お前たちに頼みたいことがある」

「頼みたいこと?」

「あぁ」

 にやりとした笑みを浮かべ、姫は背中越しに俺とトールに視線を投げかけてくる。

「メイプル要塞は魔王軍に占拠されている。私はその討伐、もしくは撃退を目的としてこの辺境に派遣されている」

「そんな……、無茶な。昼間だって連れ去られそうになっていたんだし。そもそも、一国の姫がすることじゃないだろう」

「当然の話だ。いまこの屋敷にある戦力ではどうやっても魔王軍に敵うはずがない。私はまぁ、先遣を任された形だ」

 身体ごと振り向き、両手を腰に当てた姫は得意げに言う。

「私に遅れて、王都から討伐軍の本隊が派遣されてくる手はずとなっている」

「だったら姫は、その討伐軍と一緒に来れば危ない目に遭わなかったんじゃ……」

「そこはいろいろ事情があるのだ。追々説明してやる。話の腰を折るな、タクト」

「はい」

 ついさっきの手折れてしまいそうな様子はなく、姫はずる賢そうな笑みを浮かべている。

「お前たちにはその本隊が到着するまで、屋敷の護衛を頼みたい」

「護衛、ですか……」

 その言葉に、トールは難しそうな表情を浮かべ、俺の顔を見つめてくる。唇の端をつり上げて笑う姫の後ろのリディさんは、不満でもあるのか、かすかに眉を顰めていた。

「うむ。屋敷の警備は一二人いたのだが、度重なる魔王軍の襲撃により減ってしまった。リーリフの町にはもう少し手勢がいるのだが、あちらはあちらで魔王軍に住人が怯えていてな。王都からの兵士がいるというのは平安につながるので数を減らすわけにもいかない。流れの傭兵でも冒険者の類いでもいればと思ったが、さすがに魔王軍がすぐ側にいるここにはそうした奴らもやってこないのでな。そんなときにお前たちがやってきた、と」

 姫の言い分はわかるが、信用されすぎな気もした。

 そして何より、元暴風のオルグであるトールはともかく、俺は戦うこともできないお荷物だ。

「ふふんっ。疑念を抱いているようだが、私はこれでも人を見る目はある方だぞ?」

「考えを読まないでくれよ」

「ふふふっ。だいたいわかるのさ。タクト、お前は顔に出やすい。さて、トールの力は見せてもらったし、タクトの権能も使いようによっては充分強力だ。こんな場所で得られる戦力としてはこの上ないほどと言える。最初にも言った通り悪いようにはしない。報酬は勢むし、いま王国では魔石は高額で取引されてるからな、それも買い取ろう。さらにこの屋敷の書庫は自由に読んで良いし、時間があればお前たちの知りたいことはすべて教えるし、必要ならばその他の便宜も図ってやる」

「んー」

 姫の提案は、正直凄く魅力的だ。

 この世界に来たばかりの俺には、情報は何よりも重要だ。金だって持っていないから、人間の世界を旅することを考えるとつらい。

 だけど護衛の仕事はトールに負担をかけることになる。それだけは気がかりだった。

 そう思ってトールの顔を見上げると、俺の肩に手を置いてくれた彼女は、微笑みかけてきてくれた。俺の考えてることは、口に出さずとも伝わっているらしい。

 それでもいくつか残っている疑問を、姫にぶつける。

「もし、魔王軍の襲撃がなかったら?」

「気にせずとも良い。護衛は本隊が到着するまでの期間で支払おう。もし襲撃があれば手当も出す」

「それじゃあもうひとつ。本隊が到着した後は、どうするつもりなんだ?」

「それは……」

 言葉を濁らせた姫は、リディさんと視線を交わす。

 それから唇を引き結んで少し考えた彼女は、床に落とした視線を俺に向けた。

「私としては護衛を続けてほしいところではあるが、本隊到着後は魔王軍との戦いになるからな。この場を離れたいというならば引き留めはしない。ただ、いまはまだ保留ということで良いか? 本隊が到着してから、改めてどうするかを決めるということで」

「……わかった」

 嘘偽りないと感じる姫の想いと提案に、俺は答える。

 トールが肩に乗せてくれている手に自分の手を重ねてから、姫のことを見て言った。

「俺とトールで、本隊が到着するまでの間、この屋敷と姫の護衛を受ける。……まぁ、俺は戦力にはならないだろうけど」

「ふふんっ。確かにお前は男としては軟弱そうだから、鍛える必要があるな。しかしお前の権能は有用かも知れぬしな。それではしっかりと頼む」

 言って姫が差し出した右手に、俺も右手を出して握手を交わした。

 この世界に来てまだすぐというのに、偶然とは言え姫に出会えたのは幸運だったろうと思いながら、トールと笑みを交わし合った。



            *



 天井まで五メートル近く、左右には太い柱が並びつつも走り回ることができそうなその広間には、大扉に向かい、奥手のひな壇がありそこに豪奢に飾り立てられた椅子が置かれていた。

 王の謁見の間として使うには狭めだが、それにふさわしい造作のその場所には、何故か実用的な大きな机が据え付けられている。

 椅子の左右には、疲れ切り、死んだ魚のような目をした女性がふたり。

 椅子に座り机に並べられた書類と向かい合い、眉間に深いシワを刻んでいるのは、まだ一七、八歳ほどの少年だった。

 しかしそのクセの強い髪の左右には、羊か何かのような、ねじくれた角が二本、生えている。

 羽ペンをインク壺に投げ込むように挿した少年は、厚手の生地を使った豪華な服の胸元を緩め、頭をガシガシと掻きながらもう片方の手で書類を持ち上げた。

「えーっと、なんだって?」

 不機嫌そうな顔を見せて書類の内容を読み、乱暴にサインをする。

 右の女性にそれを差し出すと、すかさず左の女性が新たな書類を少年の前に差し出した。

「クソッ。終わりゃしねぇ……」

 少年が悪態を吐いたとき、大扉が開き、ひとりの男性が入ってきた。

「おいガルド! なんだってこんなにやることが多いんだっ」

 玉座に向かいゆったりと歩を進めてくる男性に、少年は怨みを籠めた声をぶつけた。

 怯むことのない男性、ガルド。

 細身のスーツを乱れひとつなく纏い、襟を立てたシャツを着る一見執事のような男性は、髪をキッチリと整えた頭から獣と思しき三角の耳を生やし、細く長い手の指からは鉄のように鈍い輝きを放つ爪が伸びていた。

 少年も男性も、人間にはない特徴を持つ、魔族。そして魔族の中でも人に近い姿を持つ、魔人と呼ばれる歪魔。

「何故と言われましても。この要塞都市の全権は自分が掌握するとおっしゃったのは貴方です、魔王」

「だからってなんでこんな細かい書類まで……。これじゃあせっかく下の街で集めた女たちと遊ぶヒマもないじゃないかっ」

 調子の悪い下水路の調査と修繕の書類を投げ出し、魔王と呼ばれた少年は隣に立つ女性に手を伸ばす。

 手を伸ばされた、明らかに人間族の若い女性はすり足で逃れ、投げ出された書類の上に新たな書類を重ねて置いた。

「これでもさらに細かな書類については、元々の要塞の役人などを動員して処理しております。魔王に見ていただいているのはごく一部の、充分にこの都市の支配者と呼べるような書類のみです」

「だっつってもなぁ。もうこんな仕事とか街の視察だとかで三ヶ月以上だぞ? もうちょいおもしろおかしく過ごせるかと思ったのに、毎日仕事漬けって、いったいどうなってんだよっ」

「支配者とは忙しいものです。そろそろ冬の準備も進めなければなりませんし、夏の終わりのいまはまだマシな方ですよ、魔王」

「マジかっ……」

 口をあんぐりと開けて驚く魔王は、そのまま机に突っ伏した。

「しかし、そんな小言を言いに来たんじゃないだろ、ガルド」

「はい」

 陰鬱とした表情のまま顔を上げた魔王は、右手を胸に当て、机の前に直立不動の構えを取っているガルドを睨みつける。

「姫の屋敷に本日派遣したゴブリンを中心とするオークの部隊が全滅した模様です」

「なんだと?」

 驚きの声を上げた魔王は、しっしと手を振り女たちを追い払い、彼女たちが奥の扉から外に出たのを確認してからガルドに問う。

「その前もさらにその前も失敗したから、今回はハウリングウルフもつけたんだったろ? 姫んとこの手勢も削れてたんだ、それでなんで負けるんだよ」

「はて、そこまでは戦闘の様子を見ておりませんのでわかりませんが。つい先ほど確認したところ、屋敷に大きく壊れたところもなく、どうやら普段通りに過ごしているようです。兵士の代わりに流れの傭兵でも雇ったのかも知れません」

「ぬぅー。王都から来るっていう本隊が着く前に姫を確保したかったってのに……」

 椅子を引いて高く脚を組んだ魔王は、眉根にシワを寄せながら腕を組む。

「もう一度、今度はオルグでも入れて派遣するか? 例の草原近くにいたっていうオルグが勧誘できていればよかったんだがなぁ。ハウリングウルフも大していないし、魔族……は、ここんとこで減らしちまったからこれ以上は厳しいよなぁ」

「本隊の戦力はまだ不明です。手持ちの戦力は減らしたくありませんね」

「だったら魔王自ら出向くか? そうすりゃ姫のひとりくらい確保できんだろ」

「そうですね。早速出立の準備を」

「……てめぇ、本気かよっ。ガルド!」

 冗談で言った言葉を真面目に受け取って背を向けたガルドを、魔王はため息を吐きながら呼び止めた。

「戦力の随時投入も非効率ですので、それもよろしいかと」

「冗談に決まってるだろ、バカか。もし姫んとこにいる戦力が魔王を倒せるくらいだったら、魔王軍のことはどうするんだよ」

「魔王と称するほどの力を持っているならば、人間族ごときに破れることなどないと思いますが。そもそもあのとき、魔王様があの場で姫を掠っていれば、戦力を削ってまで手間をかける必要もなかったのですし」

「あーっあーっ、うるせぇな! あんだけの本数の剣を向けられたら誰だって一瞬とは言え怯むだろ? くそっ、三ヶ月も前のこと持ち出しやがって……」

 顔色ひとつ変えずに言い放つガルドに、魔王は悪態とともに頬杖をついた。

「もういっそ、面倒臭ぇ……。こいつを使ってやるか」

 言って魔王は自分の後ろを顎でしゃくって示した。

 柱や机に据えられたランプの光がほとんど届かない壁際。そこに立っている人影。

 鎧。

 身動きひとつせず、中に人が入っている様子のないその鎧は、人間が身につけるものではなかった。

 金色の金属地を青や白で彩り、美しくも禍々しい雰囲気を放つ。左右の腕の他に肩から二本の腕が生え、全高は椅子から立ち上がった魔王と変わらぬほどであったが、その肩幅や胴回りはオルグと遜色がないほどの体格がある者が身につけるものと思われた。

 怒りの表情をしている面防の上、額の高い位置には兜であるにも関わらず角が生え、他にも刺々しい造作のその鎧は、中身が入っていないにも関わらず魔王である少年よりもよほど風格と恐ろしさを放っていた。

 異形の鎧をニヤニヤと眺め、魔王は言う。

「一度命令したら破壊されるまで止まらなそうだが、まぁそろそろちったぁ安定したし、使えないことはないしな」

「しかしながら、これは姫を捕らえるどころか、殺してしまいかねないのでは?」

「そうなったらそれで構わねぇよ。もうこれ以上手間をかけて姫を捕まえるのも面倒臭ぇ。こいつならどーせ他の奴らと一緒に前線には出せねぇんだ、戦力低下にもならない。まぁ、あれくらいの女なら、広いこの世界を探しゃ、他にもいるだろうからな」

「なるほど。そうですか」

 表情を変えずに言うガルドは、それ以上魔王の少年に追求することはなかった。

 ニヤニヤと笑みを漏らした魔王は、ここにはいないカエデに向かって言う。

「待っていろ、姫。これを見て命乞いでもするなら、許してやるからよ」

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