第二章 カエデ 2

          * 2 *



 ハウリングウルフの雄叫びによって身体がしびれ、動けなくなっている兵士。

 そこに迫るのはヨダレを垂らし、舌なめずりをしている三体のオーク。

 黒い風が吹き抜けていったと思ったらオークの姿は消え、まとめて煉瓦の壁に激突して灰色の小さな魔石となった。

 乱れた髪を直しつつ、棍棒を構え直したトールは次の標的に目を向ける。

 睨まれたゴブリンは叫び声で自分の前にオーク二体を立たせるが、壁にもならなかった。

 床を蹴り天井を手で弾いたトールの棍棒が一体を倒し、回し蹴りがもう一体を吹き飛ばす。

 剣を構えたゴブリンは、刀身を叩き折られ、床と棍棒に挟まれて黄土色の魔石となった。

 突然現れたトールにまだ状況を把握できず、指示役だったろうゴブリンも倒され呆然としているオークを、トールは難なく殲滅した。

 ――強い。

 俺を追いかけていた五体以上のオークを倒したと聞いたときから強いとは思っていたけど、彼女の戦いを見るのは初めてだった。

 強く、速く、そして重い。

 蝶のように舞い、蜂のように刺す優雅な戦いも凄いと思うんだけど、トールのそれは直角機動するダンプカーによる突撃のような、直線的ではあるけど回避もできなければ狙われたら止めることもできない力強さがあった。

「タクト!」

「わかった、トール!」

 トールの声にその意図を読み取って、俺は廊下の影から駆け出す。

 姫を抱えていたオークは、別のオークにパスするように彼女の身体を放り投げた。

 しかし着地地点にいたはずのオークは、すでに魔石になっている。

 高く上がった姫の身体が床に激突する直前、間に合った俺は彼女をキャッチしていた。思った以上に軽い姫を抱きかかえて、すぐさまホールの隅まで下がる。

「彼女たちを!」

 女性たちを抱えていたオークを倒したトールは、どうにか動けるようになってきた兵士に言う。

 まだ上手く動かない身体を引きずりながらも女性たちを抱え広間の隅まで待避した兵士たちを見ることなく、トールは最後に残ったハウリングウルフと向かい合った。

 ――さすがに、サイズの差が凄いな。

 逆立ってる体毛のせいもあるけど、本当にゾウほどの大きさがあるハウリングウルフ。

 対するトールは、身長一九〇超えと、俺や兵士たち男性陣の誰よりも背が高いが、人間サイズの女の子だ。

 ハウリングウルフと立ち向かう姿は、あまりに無謀に見える。

 ――でも、大丈夫だな。

 ホールの隅から見えるトールは、口元に笑みを浮かべていた。

 戦いを楽しんでいる。

 赤い瞳には強敵と対峙することへの喜びが浮かんでいた。

 ハウリングウルフ程度ならば、たぶん問題ない。そう思える。

 姫の香しい匂いに鼻をくすぐられながらも、俺はトールの戦いに見入っていた。

 先に動いたのはハウリングウルフ。

 至近距離で雄叫びを上げようとしたのか、鋭い牙が並ぶ口が大きく開かれた。

 黙って見ているはずのないトールは、大股で近づき掬い上げるように棍棒を叩きつける。

 ――マズいっ。

 まるで金属を叩いたような音とともに、元から造りが粗雑で、長く使っていたらしくボロボロだった棍棒がへし折れた。

 さすがにハウリングウルフも無事ではなかったらしく、下あごを力なくだらりと開けたままになってる。だけどまだ魔石になったりはしない。

 ――大丈夫だろうか。

 棍棒はトールの最大の武器。

 素手でも強そうだけど、金属にも見える剛毛と、皮下脂肪が分厚そうな毛皮に通用するかどうかは、微妙に思えた。

 兵士やオークが使っていた剣や槍が落ちていたりするが、トールの力で使うにはあまりに弱々しいものに見える。

 姿勢を低くし、前脚による攻撃に切り換えたと思われるウルフ。

 それでも笑みを絶やさないトールに、閃光のような素早い爪が振るわれた。

 だが、そのときにはすでに彼女の姿はそこにない。

「おおぉ!!」

 歓声を上げたのは兵士たち。

 同時に聞こえたのは、苦しげな吐息。ハウリングウルフからの。

 トールは右腕をウルフの首に回して左腕をつかみ、奴の首を締め上げていた。

 裸締めだ。

 トールの腕の長さでもギリギリの首回りだけど、彼女の力は強く、暴れようとするハウリングウルフを完全に押さえ込んでいる。

 引き締まり、細いとすら思えていたトールの腕の筋肉が盛り上がる。

 ゴキリ、という大きな音の後、動かなくなったハウリングウルフは俺のこぶし大の黒い魔石へと変わった。

 トールの勝利だ。

 思わずニヤリと笑った俺に、魔石を拾ったトールもまた柔らかく笑みを返してくれる。

 けれどその直後、彼女の笑みは硬直した。

 硬直したのは俺の身体も同じだ。

 元々起きていたのか、目が醒めたのか、俺の首に回された姫の両腕。

 それと同時に、トールに押しつけられたものと似ているが、そこまでボリュームのない柔らかいものが背中に押し当てられ、さらに首筋に冷たいものが触れていた。

 いつの間にか、さっき姫を守っていたメイドさんが、短剣を手に背後に立っている。

 ふたりのことを睨みつけるトールにも、剣を構えた兵士たちが遠巻きに取り囲む。

「さて、まずは我ら全員を助けてくれたことに礼を述べよう、タクトとやら。それからそちらはトールと言ったか? 危ないところを救っていただき、ありがとう」

 俺の腕の中からいたずらな、というにはあまりにずる賢そうな、意地悪な笑みを浮かべてそんなことを言う姫。

 こんな状況にありながら威厳を失わず、緊張も感じさせない彼女の様子から、どう見ても年下なのに、修羅場をかいくぐってきたかのような人生経験の豊富さを感じる。

「しかしながらそちらのトールが履いているズボンはうちの兵士に支給しているものであろう? シャツもそうであろうし、羽織っているシーツもおそらく。屋敷の主たる私に許可なく踏入ったことも含め、盗人は我が国では厳罰に値する。見逃すことはできぬな」

 トールが戦闘の構えを取るが、俺は首を小さく横に振ってそれを制し、姫の身体を下ろして両手を上げた。

「なぁに、ずいぶんと込み入った事情がありそうなお前たちのことは悪いようにはしない。王族である私を助けた功績は、報償を与えるに充分なものであるしな。少しばかり話を聞きたいのだが、それくらいはつき合うてくれるであろう?」

 俺の前に立ち、腰に両手を当て、前屈み気味に俺の顔を覗き込んでくる姫様は、助けられたら惚れてくれるような、チョロい女の子でないことだけを、いまの俺は理解していた。



            *



 テーブルや仕事ができそうな大きな机があるこの部屋は執務室だそうで、現在姫の私室として使っているという。

 茶器が置かれた丸テーブルを挟んで向かい合う姫は、紅茶のカップを優雅な仕草で口元に寄せている。

 臭いと言われて風呂に入らされ、白いシャツとベスト、綿のパンツをもらった俺は、、トールとは引き離され、姫とふたりきりでこの部屋で待機中だった。

 姫の言う「悪いようにしない」というのは本当だったようで、傷の手当ても改めてしてもらったし、つまむ程度の簡単な食事ももらった。服だってそのままくれると言うし、今日は泊まれと言われ部屋も準備してもらっていた。

 姫の真意は、いまひとつわからなかったが。

 ――この姫様はいったい何を考えてるんだか。

 男と部屋でふたりきりだというのに、物怖じせず、王女らしい風格を漂わせて俺に笑みを投げかけてきている姫に、俺は眉を顰めていた。

 まぁ、こちらから話しかける気も、行動的に何かしようという気も起きないし、外には兵士が立ってる気配もあったから不穏なことができるわけでもなかったが。

「入れ」

 ノックの音に応じて、姫がそう扉の向こうに声をかける。

 入ってきたのはさっき姫を守ろうと短剣を構えていた、リディさんという女性。

 それから、トール。

「うむ。思った通りなかなか似合うではないか」

「……」

 恥ずかしいのか、それとも単純に動きにくいのか、少しうつむきながらしずしずと入ってきた、俺の眷属であるトール。

 胸と腰だけを覆う鹿革でも、男物のシャツとズボンでもない、いまの彼女の服装。

 メイド服。

 濃い緑の膝下丈のワンピースに、胸から腰下までを覆うフリル付きのワンピース姿。

 どう考えても彼女サイズの服なんてないと思うのに、小一時間ほどでどうやって用意したというのか。

 靴はさすがに男物っぽい革のブーツで、ふくらはぎから白いフリルが見えるスカートの裾までは靴下にしては薄手の、タイツだかストッキングっぽいものを履いている。

 肌が見えるのは手と、けっこう大きく開いてる胸元から顔だけになったのに、何でだろうか、いまのトールは鹿革だっただけの時よりも、なんでか可愛い。そしてエロい。

 エプロンとワンピースの上からでも彼女の大きな胸ははっきりとわかるのに、比較的地味なデザインと色合いに隠され、さらに不快そうにも恥ずかしそうにも見える微妙な表情が、欲望を禁じられたのに抑えきれないものがにじみ出てるような、そんな雰囲気があった。

「ほら、お前も何か言ってやるといい、タクト」

「あ……、うん。すごく……、似合ってるよ」

「――似合ってる? というと?」

「えぇっと、トールはその、最初から綺麗だと思ってたけど、そういう服を着ると、なんというか……、女性らしい、美しさが際立つっていうか――」

「あっ、ありがとうございますっ」

 これまでもトールのことは何度となく綺麗だと思ってきたけど、こんな感じの服も凄く似合っていた。

 梳いてもらったのだろう、さらさらと流れる髪を揺らしながら大きく頭を下げる彼女に、俺はなんだか気恥ずかしくなってしまう。

「くくくっ。なかなかに素直な口をしているのではないか? タクト」

「うっ、いや、ちょっと、口が滑って……」

「本心なのであろう?」

「まぁ、そうだけど……。でもなんで、リディさんと同じメイドの格好なんだよ」

 思わずため口を利いてしまった俺に、リディさんが動こうとするのを制し、姫は笑みを浮かべながら言う。

「トールはお前の眷属だそうだからな。主に仕える女の正装と言えばこれだろう。リディの裁縫技術は速度も含めて一級品だし、材料もどうにかなるということだったからな。嬉しいのではないか? タクト」

「うっ」

 思わず頷きそうになるのを我慢し、緊張した様子ながらも嬉しそうな色を瞳に浮かべているトールと見つめ合っていた。

「さて、タクト。話を始めよう」

 立ち上がった姫はそう言い、この場にいる俺とトール、リディさんを見回した。

 リディさんは隙なくピリピリした空気を発しながら姫の後ろに立ち、トールは俺の後ろに立つ。

「改めて名乗らせてもらおう。私はカエデ・エディリア。このエディサム王国第三王女にして王位継承権第六位の、まぁ有り体言えば姫だな。我らを救ってもらったこと、礼を言う。そしてこれから先のことについて、少し相談がしたい」

 相談がしたいといった雰囲気ではない、尊大とも言える口調と声音で言い、カエデ姫は俺のことを睨むように、それでいてどこか弄びそうな目で見つめてきた。

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