砂の惑星

神田朔

#第1小節目



 だから、その夢は冷たいプールの底から始まる。



最初は、どこかトンネルの中に立って、光の漏れる出口を見つめてるんだと勘違いしていた。でもあまりに歪んだ視界の中、すぐに水に囲まれていることに気がついた。私は8メートル近い水深の下、のっぺりしたタイル張りの底面に仰向けになり、ゆらゆら揺れる水面をぼんやり見つめている。


水は酷く澄んでいるけれど、視界には水草が腐ったような色がまだらについている。腕も足も痺れ、身体は浮き上がる気配がない。それなのに、不思議と焦りはなかった。鼻からは、ぽこぽこと連音チェーンを響かせつつ、泡が出ている。鼓膜だけが水圧に深く押し込められている。


起き上がるつもりも無い。起き上がれる気もしない。何もかも怠惰で、私は、普段成層圏でどっぷり身を浸しているはずの生死の狭間の世界を離れて、ただ視覚と冷たさに神経を預けている。


突然、耳の中に深い振動が伝わる。脳にドボンという単音モノが響き、それから一拍遅れて、目の前の水面に飛び込んだ小柄なシルエットが映る。


音の方が光より早い世界。


ゆっくりと、誰か、人間が泳いでくる。


こんなに深いのに、と私は思う。と、同時に、私がこんな薄暗い深みで待っているんだから迎えに来てくれるのも当然ね、と厚かましい考えも浮かぶ。目の前に浮いているのが一体が誰なのかも分からないっていうのに。


私は腕を組んでのんびり待ち続けている。息は苦しくない。


今にもその人の顔が見えそう、というその瞬間、プールの外側で不気味な青い光が飛び出した。発光は指数関数的に強まっていき、一瞬振り返ったその人は危機を察したのか、一気にプールの底の私に向かって距離を詰め、私の体を抱きしめてこようとした。


女の人だ。


あまりの光源の強さに眼を閉じようとしたその末期、女の人の頭の横に、2本の青緑の熱光線が飛び交い、まるでエメラルドグリーンの大振りなツインテールのように見えた。


一瞬で訪れた灼熱に、私は意識を失う。



       ※※※※※※※※※



私は昨日、こんな夢を見た。


いつもは深夜すぎまで修繕をしてから泥のように眠り、夢を一切見ない私が、こんなにも解像度が高くてハッキリと記憶に残る夢を見るのは稀に近い。いや、記憶にある限り初めてだ。

それは、冷たく、苦しく、胸を掻き立て、でも、どこかに安心感もあり、得体の知れない切なさを呼び起こす夢だったから、冷えきったハッチの中で目覚めた時、私はその夢を見たことを少し誇らしく思った。

普段はミキサバルブを歯で無理やり閉めるようなガサツな私にも、時には感傷的で芸術的な朝ってものがあるんだ。たぶん。

今日という何気ない一日が、たまたま、夢のおかげで少しだけ大切な一日になった。そんな気がした。


痛む頭を抑えて起き上がろうとしたとき、頬の上で液体が重力に従って流れ落ちる感覚がした。寝ているうちにドロついた燃料が頬にしたたりおちたのだろうと思ったが、拭き取ってみると、それは驚くほど透明な涙だった。


女々しさ、という言葉が頭に浮上した。中隊長が、ミスをした隊員を叱る時によく使うワードだ。

いや、ミスをしたことをひた隠そうとした卑怯な隊員を叱る言葉と言った方が正確かもしれない。


「女々しい人間になるな。卑怯な人間になるな」


中隊長は海軍上がりだけど、もちろん女性のことを無条件に軽視したりしないし、むしろ中隊のどの男どもよりも女性の扱いを心得てる素晴らしい男性だ。差別もなければ意味もなく持ち上げもしない。

だから、この中隊の中でも数少ない女であることに関しては、誇りも引け目もない…はずだ。でももしかしたら、父が死んで以来、キッパリとメイクやお洒落から遠のいてしまった私の胸の奥には、知らず知らずのうちに閉ざしてしまった少女の私が眠っていたのかもしれない。


あの夢は、まだ12の少女が見た夢。そう考えると納得がいくような気がした。

寂しいくせに素直になれなくて、誰かに気づいてほしいがためにプールの底に隠れた、どうしようもない女の子の夢。


「ここにいるよ、ひとりにしないで」

そう言えたら楽かもしれない。でも、本当にひとりぼっちになったとき、人はそこまで強くなれない。

まして、12歳でたったひとりの肉親がいなくなったとき、私はわんわん泣けるほど強くなかった。怒りも湧き上がらなかった。

そのとき私は、感情を保つのにもちゃんと体力が要るんだな、と初めて気づいた。


誰の目にも止まらない明け方は、誰だって無意識に締めている心の結び目が緩む。私も、世界の一員であるうちは、その法則からは逃れられない。明け方、まだ身体を起こす前、寝床の中での悩みや煩悶の痛切さは、この世全体の切実さに匹敵する。一体何度、冷えた朝焼けのハッチの中で死を心に決めたことか、分からない。でも、うにゃうにゃ言いながら朝飯を食べ終わる頃には、ついさっき決めたばかりの決意はもう溶け去っている。


たぶん、それが正常な人間ってやつなんだろう。死にかけながら、前を向いて生きていくしかない。



※※※※※※※※※



機嫌よく朝の挨拶を交わしていた私は、仲の良い宿舎の整備士たちの約半数が、同じようなプールの夢を見ていた、と教えてくれた時には、狐につままれたような顔で首を傾げるしかなかった。

みんなで一緒にプールに入ったことなんてあったっけ?基地には慰安旅行もないのに?


あの夢は、私だけの特別な夢なんじゃなかったっけ?


同じ愚連隊の中にも、数人同じ夢を見た連中がいた。食堂の端で、私はたまたま例の夢のことをサイトとシンラにむかって話した。すると二人は顔を見合わせ「似たような夢見たぜ」と、疑うような眼でこちらを覗き込んできた。

私は内容を事細かに確認せずにはいられなかった。何度確認しても、私が見たものと内容の大半が一致する。私が詳細な内容を描写できた割には、サイトとシンラの夢は曖昧で細部がハッキリしなかったが、ともかく『女が水の中でこっちに泳いでくる夢は見た』だそうだ。


3人で同じAGアーティフィシャルグラフィック動画を見てそれに影響された訳でもないのに、そっくり同じ夢を見ていなんて、一体どんな確率だろう。

すっかりこの話題に興味を失ったサイトとシンラが回転トルクの不調に文句を垂れ流している間、私は眼を閉じ、早々に夢の詳細な描写を残しておくことを心に決めた。

同じ夢を見ている。全く同じ夢。それは、聞き覚えがある最終楽章の響きだ。



       ※※※※※※※※※



いつもの通りの哨戒訓練を終えてから、私は飛行機の群れを抜け出して、上昇旋回をはじめる

成層圏。

バー型の玄人好みの操縦桿をはねあげると、機首がくくんっと軽く伸び上がり、視界が真っ暗に近づいた。

何も見えない。ただ、ぼんやり発光する恒星が2個、右眼と左眼の両端に映っている。ザ・サンとプロキシマだ。

少し視界を落とせば、僅かな大気が翼に切り裂かれたことで発生している白い摩擦光の軌跡が確認できる。それは時に、宇宙の飛行機雲と呼ばれる。


そこに、噴射を抑えた隊長機体が音もなくくっついてきて、通信を送ってきた。上官機の通信はこちらからブロックすることは出来ない。


「今日は乱流のデシベルが強い。下手に突っ込むと身体のMNAに悪影響が出る」


「"下手に"でしょ?流れに乗らなきゃいい」


「…視覚化樹脂は?」


私が足元のスイッチを指先ではねあげると、放射性乱流が強い空間は、ハッチの樹脂窓に大雑把に赤く点灯して映った。ただ、これだけでは多少の濃淡が分かるだけで、海の波を読むように乱流の流れを見極めて突破口を開くためには不十分すぎる。それは中隊長も分かっている。


「大丈夫です。見えます」


私はむしろサングラスを下ろして、姿の見えない乱流が渦巻く闇に向かって、戦闘機の鼻づらを向ける。眼を細め、髪から突き出した耳に全神経を集中させる。


「お前なら良いだろう。ただし5分経つまでにここから3000フィート降下しろ。他部隊員は、当機と同じ高度を保って着いてこい。これ以上の上昇は許さない」


「了解」


隊長機がロールして落ちていくのを見届けてから、私は放射性乱流の響かせる『音』に向かって耳を澄ませた。


放射性乱流は大気の揺らぎであり、言うなれば有害な音、だ。めちゃくちゃにぶつかり合う乱流が放っている不協和音に長い間さらされた者は、遺伝音素レベルで微細なダメージを受け、髪が抜けたり皮膚がただれた挙句、酷い場合には白血病を併発して死に至る。そして何より問題なのは、子孫の身体や知能にもハッキリと障害を及ぼしかねないことだ。高度の大気でのみ起こる乱流は、基本的に宇宙電波と大気中の音素との反応の結果だと説明されているが、明確な理論はまだ提出されていない。


なにはともあれ、私はこの音を聴き分け、ある程度回避することが出来る。視覚がなくても、音が少なくなった部分に突入し、反対に音が急に濃さを増した部分から遠ざかるよう心がけるだけで、本来乱流の中を飛んで受けてしまうハズの不協和音を0.3パーセント程度に抑えられる。何度も飛んで確かめた数値なので間違いは無い。

こんな耳を持っているのは、今のところ私だけ。本当はこの惑星のどこかにもっと逸材が眠っているのかもしれないが、今後30年、飛行訓練のエキスパートかつ特異な聴力を持つのは私だけだろう。

こんな才能要らない、と思ったことは無いし、実際役に立つ。少なくとも、どのパイロットも放射性音素計を逐一気にさなくてはいけないこの世界で、私には懸念材料がひとつ少ない。それどころか、安全性の観点から誰も飛んだことの無い高高度航路を飛ぶこともできてしまう。

よく誤解されてしまうが、日常的な意味で耳が良いわけじゃない。3キロ先の話し声が聴こえるわけでもないし、アリの泣き声を聞き取れるわけでもない。ただ、微細な音素レベルの躍動の気配を、動きの濃淡として感じ取れるだけだ。あくまでそれを他人に説明しやすくするために、『音』と呼んでいる。

だから、私はたまに、身体の中で何か得体の知れない細かな球体が砂粒のように転がっている気配を感じることがある。それはもしかしたら、自分の細胞が活動している『音』でも聴いているのかもしれないな、と思っている。


しかし今日は、なにかがおかしかった。突入準備を始めた途端、一瞬何か得体の知れないものが耳を覆った気がした。毛の生えた大柄なクマネズミが耳の穴から顔を出しているよう。不快で、身の毛がよだつ。思わず操縦桿から手を離してしまいそうになった。

こんな音は聞いたことがない。うねる白い竜のような放射性乱流の荒ぶりが、暗い夜の海に浮かんで見える。今回の乱流は今までと比較にならないかもしれない。


そのとき、脳が一回転したような急激なゆらぎと共に、視界がブラックアウトした。冷えた指先の感覚が失われ、どぼんという水音が耳の奥で鳴った。頭が強い重力で押し込められて、息どころか血流さえ押し止められたような感覚が身体中を襲った。

と、思った次の瞬間、世界は何事もなかったかのように元の位置に急浮上して、鼓膜は大気で膨らみ、眼は瞬時に血走った。機体はまだまだスピードを上げて、クラクラする頭をはるか遠くにぶっ飛ばしてしまいそうだ。歯ががちがち鳴って、頬の肉が震えている。

何が起きたのか分からないままだったけれど、油圧計とスピードメータを見ると、もう突入するしかないレベルの加速度だった。設定された外殻限界を破って乱流の内側へいこうと腹を決めた瞬間、研ぎ澄ませたはずの感覚に更に大きな亀裂が入った。


音だ。大気を切り裂くバカでかいエンジン音。


私は咄嗟に、完全に軌道に乗っていた機体にブレーキをかけた。悲鳴を上げた機体は、鼻先を外殻の向こうに突っ込んでしまったが、上手い具合に乱流に弾かれて、下を向いた。ハッチの窓がドンと真紅に染まって視界が奪われたものの、ここはひたすら落ち着いて、下手に慣性を失わないようにスピンしながら高度を下げた。翼を大きく広げて安定させてからバックスコープを除くと、ケイシの機体が私を追い越して飛び上がっていくのがはっきり見えた。あいつの機体の音?

私がさらにスピンして高度を下げている間も、あっという間にケイシの機体は、宙へ向けて駆け上がっていく。

中隊長の咳き込んだ怒声がコクピット内に飛ぶ。


「どういうつもりだっ」


「俺がミクリの代わりに行きます」


ケイシの声は至って冷静だったからこそ、私はなんと答えていいものか決めかねた。ケイシの音声は聴こえない。猛スピードでケイシの機体を追う隊長の音声も途切れたので、私は指示を受けることも出来ずに下がり続けた。2人が高高度で散々飛び回っているうちに、私はいつの間にか規定高度まで落ちていたので、ともかく唖然としている仲間たちの編隊の中にゆっくり紛れ込むことにした。みんな呆気に取られた情けないタラタラ飛行を続けていたが、流石と言うべきなのか、私がシグナルを出すと、牧羊犬に駆り立てられた羊の群れよろしく、のろのろと動いて一機ぶんの完璧な空間を空けてくれた。


5分も経った頃、二機はランデブーでもするように慎重に連なって舞い降りてきた。旋回していた編隊の目と鼻の先に降りた隊長機から、憮然とした声で「そのままの隊形で帰還せよ」と、命令が降りた。


私は燃料が残り少なかったこともあって、しんがりでゆっくり帰ることに決めた。ケイシに聞きたいことは山ほどあったが、中隊全員に接続するチャンネルでしか通信が出来ないので、今は下手なことは質問できない。二人きりで話すべきだった。


今は、そんなことより。

基地から数マイルに近づいた谷付近で無線ランを受信したので、機内スクリーンに『トークシェア』のコメントを表示して、片っ端から見ていった。そうしたら、似たような夢を見た連中のコメントがあるわあるわ、その数といったら、下手に関連ワードを入力すると戦闘機内の計算機が勝手にシャットダウンしてしまうレベルだ。もちろんシャットダウンするのは、戦闘機の他回路の負担を軽減するためのセーフティのせいであって、計算機能の限界というわけではないが、÷0システムを作動せざるを得ないレベルの処理落ちとなると、コメントは相当な数になる。この中隊内でのヒアリング結果と『トークシェア』の利用率割合を考慮すると、この夢を見た実際の人数は、コメントをしている人間の更に25倍以上と見ていいだろう。どうやらこの夢同期騒動は、この中隊基地周辺のから騒ぎ、という訳にはいかなそうだった。

この基地の無骨な人間には迷信じみたバカ騒ぎにしか見えないのだろうが、どう考えたってこれは前代未聞の問題だ。

私はトークシェアをスクロールしながら顎に手を当てる。

なのに、どうして画面を通すとこんなにも都市伝説じみた嘘っぱちにしか見えなくなるんだろう。


ついでに気になることがあるとすれば、一般人が見た夢の内容は、サイトやシンラの観た夢よりも更に解像度が落ちてるものばかりだということ。コメントを見る限りみんな恐ろしく断片的にしか夢を見ていない。プールだと気づいてない人もいたし、僅かに数秒光を見ただけの人もいた。冷たさを感じるどころか、ぼんやりと青っぽい世界を漂っていたこと以上の記憶がほとんどない人も沢山いた。それでもたったひとつ、ほとんどの人間に共通していたのは、誰か見知らぬ女がこちらに向かってきていたのを覚えていることだ。その一点の繋がりが集団夢の信憑性を高め、潮流の拠り所になっている。

偶然にすぎない可能性もあるにはあるが、偶然じゃない可能性が高いならそれに懸けるのが科学というもの。たとえその結果が非科学的だとしても、数百万人が一夜に全く同じ夢を見る事態が、まさか偶然ではありえない。



        ※※※※※※※※※



私は空の滑走路のひとつに着陸して、アンカーを降ろし、格納庫に向かった。

薄汚れたホコリだらけの宇宙のような空間だ。屋根の僅かな鉄骨の隙間から太陽の光が漏れ、ハッチのガラスがきらきらと反射している。もう少しコクピットが広ければ昼寝には最適なのに、と思う。

ぼんやりと宇宙塵のたまったガラスを見ていると、右隅に小さく警告サインが出ていることに気がついた。赤い稲妻が3つ。初めて見る症状で、意味するところは分からない。少なくともいい兆候じゃないのは確かだし、故障だと後々面倒なことになる。修理にでも出されてしばらく臨時機体を使うことになれば、中隊長も高高度を飛ばせてはくれないだろう。


「中佐!」


ため息をついて額を操縦桿に押し付けていた私は、発艦機の陰から現れた中隊長の声を聞いて飛び上がりかけた。実際、思わずアクセルキーを回してしまったせいで、計器が一斉に振動しはじめてしまった。


格納庫にいた全員が一斉に振り向くくらいの爆音が鳴ったのに、中隊長だけは微動だにせず「轢き殺す気か」と答えただけだった。天使の微笑みで、というわけにはいかなかったけど、アイスをねだる子供をたしなめるような、そんな響きがあった。

そういえば、若い頃の中隊長はバチバチ漏電を起こしているアース線を素手で直したことがある、という伝説がまことしやかに囁かれていた。あとは確か、宇宙盗賊の飼ってる虎を手なずけた、とかもあった気がする。

要は、恐ろしい威圧感を持っていると同時に、デタラメな冗談も受け流してくれるくらいに優しい上司。

私はエンジンを落としてそそくさと飛び降りると、軽く敬礼をしてみせた。


「フジタ中佐、A2で帰還いたしました」


「中佐、命令系統を乱し混乱させたことを謝る」


隊長が豊かな白髪を軽く下げたので私は慌てて両手を振る。


「悪いのはケイシ…少佐ですよ。あいつ、後でこう、なにか…」


「あまり、お前からは詮索してやるな。私から必要なことは少佐にきつく伝えておいた」


隊長は歳の割に少ないシワを軽く緩め、優しく微笑んだ。長身で紳士、痩身でいて筋肉質。隊のどの男よりも融通が効いて、話が分かる。屈強な連中の集まるこの隊で、中隊長が一番男らしいと思うのは、私だけじゃないだろう。


「本題は別にある、中佐。あの時、安全ラインの外殻を割って乱流帯に入ったか?」


「少し。放射性音素計は振れてないですが、先端部は乱流に触れた感触がありました」


「コクピットを見るぞ」


中隊長は何気なく言うと、さっと翼に片足をかけて、ハッチを開いて操縦空間に入り込んだ。黒豹のような身のこなし。

というか、よく寝ているあの狭い部屋に中隊長が入っているのはなんだか気恥ずかしい。もちろん見られて困るものもないけど、彼氏に部屋を見られるというのはこんな気持ちなのかもしれない。


「視覚化樹脂の容量が吹き飛んでるな」


狭い空間から顔を出した中隊長が、正面の樹脂窓を指さす。そこには、さっきも見た赤い稲妻が3つ。


「オーバーヒートですか?」


「お前は視覚化樹脂をあまり使わないから知らなかったんだろうが…」

中隊長の抑えた声を聞いていると、知らないのは問題外だと言いたいのがバシバシ伝わってくる。

「高濃度の乱流に触れ続けると、センサと直列で繋がっている樹脂の表示機能も一緒にイカれることがある。今回はそれだ」


「でも、たかが数秒で」


「A2は軽量化目標の新参機体だから窓は特別薄く造ってあるし、お前の場合、ほとんど交換もしてない。日頃のストレスが一気に爆発してお釈迦になった可能性はある。それにしたって、異例だ。余程バカでかい乱流に触れたと考えるしか、他に説明がつかない」


中隊長はすっかり専門家の目で窓を撫で回していたが、突然顔をしかめた。


「お前、勝手に窓削ってるな?だからこういうことになる」


私は曖昧に微笑んでヘルメットを弄んだ。


「重心を少しでも後ろ側にしたいな、と思って」


「ともかく、窓は新品の既製品に交換するよう発注を出せ。それからセラピーは受けろ。こんな大きな乱流は初めてかもしれない」


中隊長は器用に長身をハッチから出して、音もなく床に降りた。


「……データは取れなかったが、中佐、お前の観測はどうだった。その…音は」


「…今思えば、恐ろしく強かったんだと思います。爆音のせいで逆に音が聞こえなくなるみたいな現象が起きてました。耳が…一瞬聞こえなくて、何も分からなかった。何も無くてあのまま飛んでたら、乱流にもみくちゃにされて、足元をすくわれてたかもしれません」


「少佐のバカに感謝だな」と中隊が小さく呟いた。私はなんと言っていいか分からず、謝罪と感謝と気まずさをこめて、軽くお辞儀をした。頭を上げると、中隊長はもう背を向けて歩き去っていた。


「死にかけたんだ」と頭の中で繰り返す。

私はひょっとしたらこの世にいなかったかもしれない。放射性乱流に巻き込まれるどころか、コントロールを失ったマシンと一緒に、地表まで数万フィートを落下して死んでいたかもしれない。もしそんな長い距離を落下するとしたら、一体何回走馬灯を見るのかも分からない。

なのに、深刻にはなれない私がいる。今立っている地面の確かさをありがたく思えない、ふてぶてしい私が。

死ぬのは昔から覚悟してきた。本当は、この地面から離れて、飛行機で空を飛んでいるまま、天国まで登っていきたいと思っている自暴自棄な私がいる。

生きていることに未練がない、のかもしれない。本当に知りたいことが…本当にあるのか?


「他のことに気が取られているのよ」と、心の中で、唱えてみる。

私は今、他のもっと切実な悩みをクラスター爆弾のように頭の中に抱えていて、それがきちんと納得がいく形で収まっているのかどうかが気になってしょうがないのだろう。頭がその悩みでいっぱいで、自分の人生を生きれていない、のかもしれない。


じゃあ、気を取られていることってなに?


同じ夢、のことか。


私は、そう、思う。


父さんが死んでから9年、まだ、自分を見つけられていない?


それって、よくあること?


私にはわからない。誰も知らないだろう。


それでも、気の迷いは減らすべきだ。例え少しくらい無理をしても、私は私のためになることをしよう。


私は駆け出して、シンラを大声でよびつけた。そして、ホワイトカラーチューンされたヘルメットを、空気圧セラピーサウナに入ろうとしていたシンラに向かって放り投げた。

目を丸くしたシンラがぎりぎり左手を伸ばして、伸縮性ゴムをキャッチした。


「頼む、棚に戻しておいて!」


「人使いが荒いぞエリート!」


周りの男たちが力無く笑う声が聞こえた。

私はいちいち答えず、脱兎のごとく更衣室に飛び込んでスーツを脱いだ。

裸一貫になった私は壁一面に貼られた鏡に向かって手を付き、呼吸を整える。

ゆっくり頭を上げて自分の金の短髪を眺め回す。ヘルメットを被って支障のないぎりぎりの長さだ。錆びたピアスを付け直し、耳を数回叩いた。耳骨の周囲で空気が振動する。外殻のガードを破って高層まで侵入しかけた割には調子がいい。


頭は空っぽだ。いいぞ。自分を満たすために必要なことは何か、それだけを考えろ。


「ミクリ、いるか」


そのとき、更衣室の外の伝令管がパカッと開く音がして、整備音に負けないように張り上げたケイシの声が聞こえた。


「いるよ」


鏡の中の私がうっとうしそうに叫んだ。


「じゃ出てってくれ」


「ちょっと待って、チューニングしてる。でも入ってきていいよ」


「そういうわけにもいかない…着てるんだろうな?」


私は慌ててジャンパースカートとニットをひっつかんで身体に被せるように着てから、「入って」と声をかけた。


物々しいドアの二重プロトコルが音を立てて開き、無駄に背の高いケイシを中へ入れたとたん、息付く暇もなくさっさと再施錠した。ボーッという空気を再充填する音が消えると、私たちを取り巻く世界は一気に静けさに包まれた。

ケイシはスペーススーツを着たまま、巻いた茶髪をかきあげ、私の隣に立った。


しばらくは無言のままだった。こちらから話しかけてもらえると思ったら大間違いだ。


「……セラピーは?」


ケイシが拡縮コンタクトレンズをいじりながら小声で尋ねてきた。

私は「後で受ける」とだけ答えた。


大気圏活動を行う戦闘機中隊は、濃度の高い放射性乱流を多く受けるため、活動の後にセラピーを受ける決まりになっている。空気圧セラピーサウナで、一定気圧の空間にしばらく慣らされた後、セラピー検査室で、医師によって身体中の遺伝音素の配列チェックをしてもらう、という二段構えになっている。一応。

私はよくすっぽかしている。というより、ほとんど。


「いつもより素直だね」


ケイシがシェーバーを取り出した。普段は使わないのに。


「あんたに言われたからじゃない。中隊長にそうするよう言ってもらったから」


「…中隊長……そうか。いい人だよな」


「あんたよりね」


ケイシがポンプでせっせと泡を作っていた手が一瞬止まった。そして、クリーム状の泡を頬に塗りたくると、それきり黙り込んだ。誰も話す者がいない、無益な時間が流れはじめる。


「……ねえ、どうして止めに入ったの」


私がしびれを切らして口を開くと、待ってましたとばかりにケイシは喋りだした。それも、目線は鏡に合わせられたままで、シェーバーを持った右手は丁寧に顎のラインをなぞっている。


「今日は特別乱流が強かったし、いつもミクリだけが出動するいわれもない。それに、愚連隊にいる俺だってそこそこの腕はあるから役目は果たせるし、高位置の大気情報を集めてくるのは誰だって構わない。だろ?センサだって、俺の機体のやつの方が高性能だ」


「答えになってない。私は……理由を聞いてる。あなたが飛び出してった理由」


「わかってる。お前のその能力…『音』が分かるっていうのは。でもそれにしたって…」


「そういうこと言ってんじゃない。どうしてケイシが私をかばうのか、ってこと」


ため息をついたケイシは「セラピー行けよ」と最後通告の雰囲気で言いのこし、着替えを手にしたまま更衣室をでていった。


ケイシにはああいうところがある。自分が劣勢になるとすぐに物わかりのいい振りをして立ち去る癖が。それでいて、こちらが根負けするのを狙おうとしてくる。魔性というより、ただの臆病だ。

そして、大概の場合、彼の作戦は成功してしまう。 私が成功させてやっている、のだと思う。

私は優しすぎるのかもしれない。一から十まで甘すぎるんだ。だからあのヘタレがつけあがる。

あの…ヘタレ。少し背が高くて髪がツンツンしてて、こちらを覗き込むような笑顔が少し……腹立つ。


      ※※※※※※※※※※


私は自室に戻ると、固定無線で二箇所に電話をかけた。一箇所はアサクラ留置場の事務所。それと、もう1箇所は、中隊専用のセラピー検査室だ。空気圧セラピーサウナの方は、スルーしても支障ないと思う。三半規管と鼓膜の強さは中隊一だ。ただ、乱流だけはいくらこの耳があってもどうしようもない。


私はシャワーを浴びおわると、酒類の代わりに炭酸を小さな冷蔵庫から取り出して、軽く煽った。

しばらく替えてないシーツに横たわり、私は常夜灯の周りに転がっていたイヤホンをそっと耳に入れる。


スイッチを入れた。


洞窟のように広がった耳の奥に、確かな重低音と合成されたアーティフィシャルな言葉の羅列が聞こえはじめる。無愛想な女性の声だ。


父さんの歌。父さんが作ってくれた、私のための歌だ。


父さんの形見と呼べるものは、この音声データただひとつしかない。写真すら残っていない。でも、この音楽が何よりも父さんの姿を思い出させてくれる。


セラピーなんか、必要ない。本当は、この1曲さえあれば私は大丈夫だ。この曲の慣れ親しんだ電子の旋律が、身体中のすべての遺伝音素を的確に並び替え、私を幼いころのミクリに戻してくれる。分子、いや、文字通り電子レベルで。

それは、センチメンタルな願望なんかじゃなくて、ひとつのパーティクル配列的な事実にすぎなかった。


私は、ミクリ、お父さんの娘で、戦闘機のパイロット。目的を探して今日も飛んでいる。でも、なにかおかしい。今日は何かが…


最終小節のコードを頭の中でなぞる。

同じ夢を見る。SAME DREAM。



      ※※※※※※※※※※



目が覚める。もう、夢は見なかった。どんな夢も。

その代わり、周りのシーツがびっしょり人型に濡れていた。ひどい寝汗だ。

少しうたた寝した程度だと思っていたが、時計を見ると、もう二時間半も経っていた。

もう一度シャワーでも浴びようかと思ったそのとき、壁内蔵アラームが留置場の利用開始時間が迫っていることを知らせてきた。それはそれはやかましい不協和音で。



仕方ない。後回しだ。なにもかも。


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