第42話 月は美しくない、いやむしろ気持ち悪い
「聖女殿、いやヴィシェフラドの女王リヴシェ殿、ハータイネンの皆になりかわり、お礼を申し上げる。心よりの感謝いたします」
パーティ会場に着くや否や、リヴシェの元に国王夫妻が近づいて、深々と最敬礼をする。
臣下一同もいっせいに、国王夫妻に倣う。
「もし聖女がおいでにならない世のことであれば、どのようなことになったか。考えるだけで怖ろしい」
柔らかい栗色の髪の王妃が、夫のその言葉を引き継いで続ける。
「我が王子もひどい熱で苦しんでおりましたが、聖女様のおかげで今はすっかり良くなっております。
あの子に何かあればと、わたくしも生きた心地がしませんでした。
お助けくださって、本当にありがとうございます」
王子は15歳だという。ぜひ後でご挨拶をお許しいただきたいと、王妃はとても熱心だった。
ハータイネンの王子はたしか一人だけで、王族というよりは優秀な商人気質の少年だと耳にしたことがある。
ヴィシェフラドの女王として、次期国王との面識はあった方が良い。そうは思うけど、正直なところ王妃の熱心さには別の思惑が感じられて少し引き気味だ。
曖昧に微笑んで、なんとかその場をかわした。
それにしてもハータイネンの王宮は、豪華絢爛でさすが豊かな国の王城だった。
ここまで要るかと思うくらいの間隔で吊り下げられたシャンデリアは、どれもよく磨き上げられたクリスタルガラス製で、暖かい蝋燭の灯りをまばゆく拡散してきらきら輝いている。
床は綺麗なマーブル模様の天然大理石らしい。壁には見るからに年代物のタペストリーと燭台、そのすぐ傍に白いクロスで覆われたテーブルがあって、大きなエビや肉の塊、前世風に言うなら多国籍料理がずらりと並んでいて、白いお仕着せの給仕係もついている。
ホール脇には宮廷楽師。
行き交う人々は皆色とりどりの盛装で、春の庭園に迷いこんだみたいだ。
まだ愛妾にうつつを抜かした国王がヴィシェフラドを治めていた頃には、ヴィシェフラドでもこういう集まりがあったらしい。愛妾の言いなりだった愚かな国王が、国庫の事を全然考えずにやったことで、その当時のツケを今のリヴシェが払っているんだけど。
ハータイネンにはそんな無理をしてます感がない。本当に豊かな国なんだろう。それは城下の人々の暮らしを見てればわかる。羨ましい。
「お金って、やっぱり要るのよね」
小さな声でラーシュに囁くと、「いまさら気づいたの」と即答だった。
「大丈夫、今回のことで聖女のありがたみがよくわかっただろうから。
荘園からの上りは、今まで以上に順調に運ばれてくることになるよ」
財務とか財政とかの基礎は履修したけど、実務経験のほとんどないリヴシェよりラーシュの方がずっと優秀だった。
ラチェスの切り盛りは、事実上彼がしている。父や兄より優秀だかららしいけど、それを許して嫉妬もしない兄もたいした度量だ。
そのおかげでラチェスの財力はどんどん大きくなって、今回の戦の莫大な費用もなんとか捻出してもらえた。
「ラーシュ頼りになる」
いつもありがとうと見上げると、珍しく複雑な
ああ、けっこう根深いな。
例の魅了の件だ。
無理はないと思う。
精神の奥深くに入り込まれて好き放題にされた屈辱を、そう簡単に忘れることなどできない。ましてラーシュは誇り高いラチェスの男だ。身体の傷より心の傷の方が、ひどくて深い。
ダンスのお誘いを適当に間引いて、リヴシェはテラスで一息つくことにした。
もちろんラーシュも共にだ。
踊る気分ではなかったけど、どうしても断れない人もあったからそれだけは義務だと割り切った。
その後は、もう良いだろう。
ヒールの靴って爪先に重心がかかって、2時間が限度。それ以上履いてると、ひざ下の側面が吊る。そろそろ会場に入って1時間が過ぎたから、一度休憩したかった。
ラーシュにこっそり耳打ちしたら、わかったとついてきてくれた。
海からの風が心地よくて、ようやく自然に息ができる。
すぅはぁと深呼吸すると、身体中の血液がフレッシュになったみたい。
もう少しお金に余裕ができたら、海沿いの別荘に手を入れよう。
ささやかな、いや今のヴィシェフラドの財力ではまだ贅沢だけど、とにかく少しだけ未来の夢ができたとふっと笑顔になった瞬間。
さぁっと辺りの風の色が変わった。
白く禍々しい色の風が吹き抜けて。
「ごきげんよう、わが麗しの君。
ますますお美しく愛らしくおいでですね」
ついに来た。
この艶のある優し気な声。
途端、ラーシュの全身に緊張が走る。
「お待ちしておりましたよ。
あなたにお目にかかるこの瞬間を、わたくしがどれほど待ち焦がれたか。
おわかりいただけないでしょうね」
すうと闇に浮かぶ姿は、相変わらず美しく優し気だ。
女性よりも繊細な美貌が、月の光を浴びて白々と浮かび上がる。
「わたくしと共にまいりましょう。
あなたが頷いてくだされば、ヴァラートの船はすべて退かせましょう。
もちろん皇帝になど渡しはいたしませんよ。
だからどうぞ安心して、わたくしの手を……」
「黙れ、
カビーアの言葉をラーシュが遮った。
青の瞳に熾火のような怒りが、ちりちりと音をたてて燻っている。
「おや、あなたは確かラチェスの若君でしたね。
分別をなくされましたか。お気の毒なことですね」
二コラを媒介に魅了をかけた当の本人が、ぬけぬけとよく言う。
けどこれは挑発だ。感情を乱されては、カビーアの術中に落ちる。
平静を保って、なにか返さなければ。
唇にとりあえず慇懃な挨拶の言葉を乗せようとした瞬間、ラーシュの手がリヴシェの左手をきゅっと掴んだ。
「お見舞いいただき恐縮です、月の殿下。
下種の魔力にあてられましたからね。それはそれは酷い有様でしたよ」
「聖女のお力に救われたのですね。それは
ですが、いともたやすく正気を失うとは情けない。
未来の王配は、当然ご辞退なさったのでしょうねぇ」
真珠色の瞳がじっとりとラーシュを睨めつける。底意地の悪い、まるで蛇のような気味の悪い微笑を浮かべて。
この男、気持ち悪い。
顔が良いから、余計にだ。ぞわっと鳥肌が立った。
「念のため伺いますけど、水疱瘡をばらまいたのはあなた?
精神干渉の魔術もそうよね。
悍ましいと、吐き捨てるように言ってやる。
なのにうっとりするほど
「ありませんよ。わたくしはどんなことでもいたします。
ほしいものをこの手にするためならば、喜んで」
すぅと音もなく近づいた彼は、手を伸ばせば届く距離で膝をついた。
「あなたがやめろとおっしゃるのなら、二度といたしません。
あなたがわたくしのものになってくださるのなら、他の事はすべてどうでも良いことなのです。
どうかわたくしを選んで……。お願いですから、わたくしを受け容れて。
どうか……。わたくしのリヴシェ」
絶世の美貌って、男にも使うんだろうか。
とにかくこの男が、とびきり美しく色っぽいことは確かだ。けど、だけど。絶対に無理だ。
異性に免疫のないリヴシェにもわかる。
これ、絶対にヤバいヤツだと。
リヴシェとラーシュの周囲に張った結界は最強のものだから、カビーアが何かしかけてきても弾き返してくれる。
けど心理戦になったら、話は別だ。
魔術を使わずとも、人の心を傷つけることはできる。特にラーシュのように一度心に傷を受けた人が、まだじくじくと痛む傷口を広げられれば。
先ほどからのカビーアの言葉は、ラーシュの傷を抉っているようにしか聞こえない。
人に対してできるだけ「好き」か「嫌い」かの2進数的発想はしないように、リヴシェは努めてきた。それは前世で学んだ対人関係の極意で、できるだけ「好きでも嫌いでもない」ゾーンに入れる人を増やした方が生きやすいからだけど、今回は「嫌い」のビットがびしっと立った。
こいつ、ほんと嫌い。サイテーだわ。
そのサイテー男に口説かれて、その気になるわけがない。
「お断りいたします!」
すぱっと、きっぱりNoと言った。
ホントはもっと汚い言葉を、たくさん混ぜてやりたかったのだけど。
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