第31話 黒狼は苦悩する(SIDE ラスムス)

 ラスムスの最愛、リヴシェがノルデンフェルトを去ってから2日後のこと。

 東のヴァラート帝国から、ヴィシェフラドへ使者が発ったと密偵からの報告が上がった。


 東のヴァラート帝国の隆盛ぶりは、ラスムスも耳にしていた。海を隔てた広大な大陸の国々は、今やほぼヴァラートに下っていると。

 いよいよこちらにも食指を伸ばしてきたらしい。

 予想してはいたが……。


(思ったより早かったな)


 ヴィシェフラドに目をつけるのは、攻める側としては当然のことだ。

 まず地理的条件が良い。ヴィシェフラドは東の大陸より最も近く、海岸線の防御が緩い。上陸する際の兵力の損失を、ほとんど計算に入れなくて良いのはありがたいはずだ。

 そしてもう1つ、ヴィシェフラドの精神的影響力の大きさがある。女神ヴィシェフラド末裔の国は、ノルデンフェルト、ハータイネン、セムダールの三国に聖地として崇められている。愚かな先王のせいで衰えた国力も、100余年ぶりの聖女の誕生で回復の兆しを見せ始めている矢先だ。ここを押さえれば、征服後の占領政策はかなり楽になる。


 遠征には時間も金もかかる。多大な労力をかけるからには、必ず結果を出す。

 それがヴァラート皇帝クマール1世だ。

 蛇のようにずる賢い周到な男だという。勝算なしで動くことはまずない。

 こちらに密偵を忍ばせているのは当然として、他にも何か有力なツテを掴んだと考えた方が良い。


 有力なツテ。

 まさかそれが、自分の身内であったとは。

 さすがのラスムスも、それからほどなくして密偵からもたらされた報告に驚き、言葉を失った。





 ラスムスの精鋭騎士が夜陰を抜ける風のように前皇帝を捕らえ、皇宮の地下に押し込めた。

 覚悟していたのか、前皇帝は抵抗しなかったという。


「愚かなことをしましたね」


 その夜、父に相対したラスムスは、自分でも思いがけないほど優しい口調で話しかけた。


「これで俺は、あなたを生かしてはおけなくなった」


「そうするが良い。それが皇帝であるおまえの役目だ」


 急な環境の変化に憔悴した様子もなく、淡々と父は答えた。


「なぜかと、聞いても良いでしょうか」


「お前に奪われた帝位を、また取り戻す手伝いをしてくれるというのでな」


「そんな戯言ざれごとを信じるとでも?」


「帝位にはそれほどの魅力がある。だからお前も、私を追い落としたのだろうに」


「では聞き方を変えましょう。

 あの娘、父上が側室にした女の娘をどこにやりましたか」


 初めて父の表情が動いた。「なにを……」と小さく口にして、首を振った。


「あれは……、私が逃がした。私がこうなっては、私に連なる者に累が及ぶのはわかりきっている。

 母は仕方あるまい。己の意思で私に嫁いだのだからな。

 だがあれは違う。私とは関わりのない娘だ」


 関わりのない娘をそうも心にかけてやるか。

 この父に限ってありえない。母に無関心であった父を、ラスムスはよく知っている。


「つまりあなたは、あの娘に骨抜きにされたということですか。

 俺の側室にと薦めたあの娘にね」


 父の沈黙が、その答えだった。

 老獪な狼皇帝とまで言われた父でも、女に狂えばこのザマか。

 いや、本当に女に狂ったのか。

 魅了の魔力ではないのか。

 浮かんだ考えをとりあえず飲み込んで、父に自裁を勧めた。


「毒が良いでしょう。なるべく苦しまず、安らかにお休みください」


 地下牢を出たラスムスは、最も信頼する側近にだけ言い置いた。


「二日ほど、ヴィシェフラドへ行く。つなぎの密偵を一人つけよ。それ以外は要らぬ」




 黒狼に姿を変えて、ラスムスは国境を抜けた。

 転移魔法も使えるが、ヴァラートの魔導士がヴィシェフラドに潜入しているのは間違いない。ラスムスの強力な魔力を感知されれば、こちらの動きをわざわざ教えてやるようなものだ。

 ここは原始的だが、人力いや狼力で忍び込むのが上策だ。


 ヴァラートの言ってきそうなことは、察しがついている。

 おそらく女神ヴィシェフラドの寵力をもったリヴシェを、取り込むつもりだろう。手っ取り早いのは、嫁にすること。

 そうすれば戦わずして、ヴァラートはヴィシェフラドを手に入れることができる。


(クソ蛇が。この俺のつがいに、指一本でも触れてみろ。ぶつ切りにして串焼きにしてくれる)


 りんごの香りのする姫、愛しいリーヴはラスムスのものだ。それは他の誰に認めてもらう必要もないことで、この世の誰にも動かせない絶対の真理だというのに、彼女の側にはラーシュ・マティアス、今度はヴァラートの皇帝までがわらわらと寄ってくる。

 全く忌々しい。


 愛しい番を護るためなら、ラスムスは自分の命すら惜しいとは思わない。何と引き換えにしてでも必ず護る。

 だから安心して良いのだと、すぐに番のもとへ駆けつけ抱きしめてやりたい。


 けれどラスムスは、ノルデンフェルトの皇帝だ。

 番は何よりも大切なものだが、それはあくまでもラスムスの個人的プライオリティだ。皇帝としてのラスムスには、異なる優先順位がある。

 ヴァラートの大陸侵攻を阻むこと。

 そのために必要とあれば、ノルデンフェルトの正規軍を動かさねばならない。

 ヴィシェフラドに軍を送ることを、おそらく彼の番は良い顔をしないだろう。あの姫のことだ。きっと自分が嫁に行けば丸くおさまるのなら、行っても良いなどと言いだしかねない。

 それでヴァラートがあきらめるはずなどないのに。

 あの姫、ラスムスの最愛のリーヴは、時間稼ぎのためだけに嫁に行って、その時間稼ぎすら無駄であったと後になって思い知る。

 甘いのだ。


 だからラスムスは、どうしても援軍を送ることをリーヴに承知させねばならない。

 本当なら既成事実を先に作って、ヴァラートへ宣戦布告しても良いくらいなのだ。だが皇帝としてのラスムスには、己の番への欲を抑え込まなければならない理由があった。

 

 二コラ・ジェリオ、愛しいリーヴの異母妹だという娘を、好きにさせたのはノルデンフェルトの前皇帝だ。

 二コラに操られた愚かな前皇帝のせいで、大陸全土を巻き込む危機を招き入れたことは、どんなに隠したところでそのうちバレる。

 そうなればラスムスがいかに愛ゆえにリーヴを妻にしたと言い張っても、どの国も信用しないだろう。

 もし平時であれば、誰に信用してもらわずとも良いとラスムスは言い放っただろうが、今は困る。ヴァラートの国力と戦力に向き合うには、どうあってもハータイネンとセムダールの協力が必要なのだ。

 同盟を組むためにも、今は番との結婚を強行すべきではない。


 初めて皇帝の位を邪魔に思った。

 一個人としてのラスムスであれば、即座に愛しい番をものにできるのに。

 

「待て!」


 昔ヴィシェフラドの別荘で、幼いリーヴがラスムスに仕込んだ芸を思い出す。

 待て。

 上手にできたらおやつをくれた。


「えらいわね」


 小さな手で頭を撫でて、抱きしめてほおずりをして。


 今回は「待て」をしなくてはならない。

 上手にできたら、その時は褒美をもらおう。

 極上のおやつ、この世に1つしかない最高のりんごを。

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