うちに帰ろう
門田秋
うちに帰ろう
夕焼けに染まる教室で、彩はひとり画用紙に向かって思案していた。
バケツに筆を浸しては、パレットの上で意味もなくぐるぐると円を描く。
机に広げた画用紙には、背景は森、右側に家、左下に兄妹とおぼしき少年と少女。ふたりはこちらに背を向けて、少年が家を指さしている。
右側の家以外は色が塗られているが、家は鉛筆で簡単に形を書いただけで一切着色できていない。
小学生最後の図工のテーマは<家>。たとえ小さくても家が描かれていれば、あとは自由に描いていいと言われていた。
家、と聞いて彩の頭にぱっと浮かんだのが<お菓子の家>だった。
森の奥深くで、お菓子だけでできた家をヘンゼルとグレーテルの兄妹が発見する場面。構図をすぐに思い浮かべられたところまではよかったのだが、そのあとがなかなか進まない。
図書室でお菓子の本を見たり、ヘンゼルとグレーテルの絵本を読んでみたりもしたけれど、お菓子の家がどうもうまく描けない。
板チョコ、マーブルチョコ、クッキー、グミ、ショートケーキ、キャンディ……。どれをどう組み合わせるかで悩みに悩んで後回しにしていたら、もうほかの部分はできてしまった。
卒業式まであと三週間を切った今、同じクラスの子たちは描き終えているので、彩だけこうして居残りしないと間に合わない。
家の材料を決めかねてひたすらバケツに筆を浸してかき混ぜていると、廊下から声をかけられた。
「あれ、彩ちゃん」
開け放した教室前方の戸から知り合いの顔が覗いた。隣のクラスの子で、今から帰るところのようだ。
「彩ちゃんも居残り?」
「そうだよ、図工のやつ。全然できなくってさ」
「わたしもなかなかできなかったよー。やっと完成したから、今から提出しにいくところ」
持っていた画用紙を広げて見せてくれた。
「彩ちゃん、ほどほどにしときなよ。早く帰らないと、おばさん心配するんじゃない?」
彩は曖昧に笑って、「うん、そうする」とだけ答えた。
隣のクラスの子に手を振ったあとも、唸りながらお菓子家を考えたが、どうにも手が動かない。
今日も何にも思いつけないな。あの子の言うとおり、あんまり遅くなると心配される。あと二、三日くらいなら待ってもらえるし、ここまでにしてまた明日やろう。そう決めて、のろのろと片付けを始めた。
筆とパレット、バケツを持って、廊下の水道で洗う。
頭に母の顔がちらついた。毎朝、母は彩を心配そうな顔で見送る。さっきの子の言うとおり、母はただ彩を心配するだけなのだ。
道具を全て洗い終え、机の横に吊るした雑巾で拭いていく。洗い終えたときは気づかなかったが、パレットの隅に灰色の絵の具がこびりついていた。洗い直そうかなと思いつつ、面倒だったのでそのまま片付けてしまった。
ランドセルを背負って、折り目をつけないように紙を曲げて持つ。
途中までの絵は職員室に預けることになっている。六年生の教室は三階で、一階まで降りて職員室のある隣の校舎へと向かった。
三月に入ってから、母はさらに彩が心配でたまらなくなってしまったように思えた。仕方ないこと、と彩は理解しようとしているが、まだ小学生の彩に、母の態度はかなりの重荷だった。
職員室で描きかけの絵を渡したあと、彩は沈んだ気分を浮き立たせようとお気に入りの絵を見に行くことにした。
彩の通う小学校には、廊下に卒業生の描いた絵が飾ってある。主に来客の多いところに飾られる傾向があるようで、各学年の教室がある第一、第二校舎にはなく、校長室や職員室、会議室、特別教室を擁する第三校舎の廊下によく飾られている。
第三校舎の二階の端、あまり生徒が近づかない会議室横の壁に、彩が入学したときから飾られている絵があった。
暗い森の中に家が一軒描かれている。
童話に出てきそうな板張りの家は斜め向きで、向かって左の面に木の扉、右の面に田の形をした窓、屋根には煙突がある。
季節は冬らしく雪がちらほらと降り、家や周りの木々にうっすらと積もっている。夜なのか雪雲なのか判別はつかないが、木々の合間に覗く空は灰色で塗られていた。
彩は一年生のときからなぜかこの絵に惹かれて、何かにつけてはこうして絵を見に足を運んでいた。見つめていると胸のあたりがほのかに温かくなる心地がして、いつまでも絵を見ていられたのだ。
どのくらいそうしていただろうか。校内の見回りをしている先生がそばを通りかかり、声をかけてきた。
「おーい、もう遅いぞ。早く下校しろよ」
慌てて先生に一礼してそのまま校門へ向かうと、門のそばに人影が見えた。ぎくりと体がこわばる。
人影がこちらに気づいて大きく手を振る。恥ずかしくてやめてほしいが、大声を出したくないので、彩は急いで人影に駆け寄った。
手を振らなくてもいいと文句を言う前に、安堵の声がかかる。
「ああよかった。なかなか帰ってこなくて心配したのよ」
こう言われてしまうと、もう謝罪の言葉を口にするしかない。
「遅くなってごめんなさい」
わざわざ迎えにこなくてもよかったのに、と口にしかけて飲み込んだ。
「心配したのよ」
帰りの遅い娘を、眉を八の字にしてたしなめる母親。まわりから見ればいたって普通の母親に違いない。その母を重荷と感じてしまうことに、どこか後ろめたさがあった。
「ーーお兄ちゃんがいなくなったのも、三月だったから」
母は強引に彩と手をつないだ。六年生にもなって親と手をつないでいるところを同級生に見られたら、と思うと嫌で仕方なかったが、彩は母の手をふりほどけなかった。
彩には十二歳上の兄がいる。彩が生まれて数ヶ月たち、小学校卒業を目前にしたある日、彼は忽然と姿を消した。生徒数の多い学校であるにもかかわらず校内でも校外でも有効な目撃証言はほとんどなく、結局十二年経過した今も見つかっていない。
この地域では数年に一度このような神隠しがあるらしい。近くに住む年上のいとこたちによると、周囲の大人たちの反応は「またか」と、さして驚きもなかったという。
母は近所の年輩者から「もうひとりお子さんがいるんだし、気を落とさないで」と声をかけられたそうだ。精神的に追い詰められた母と生まれて間もない乳児を抱えた父は途方に暮れていた、と親戚の集まりで耳にしたことがある。
今では家で兄の話はほとんどしない。彩が小学校に上がる前まではリビングに写真が飾られていたのだが、いつのまにかなくなっていた。何も知らない小さな頃は兄について無邪気に尋ねられたが、十代を迎える頃には訊くことをためらうようになった。
兄の話になると、父も母も表情が陰る。父はまだやんわりと別の話に持っていこうとしてくれるものの、母は日によっては泣き出して手がつけられなくなってしまう。
こうしてつないだ手を無理にほどこうとすれば、母はきっと膝をついて泣きだしてしまうに違いない。
今度こそ離すまいと握られた母の手は、温かいというより異様なまでに熱く感じられて、一層彩の気分を落ち込ませるのだった。
翌日、朝から降り続く雨で、昼休みは生徒たちの大半が教室で過ごしていた。彩は自由帳を広げてお菓子の家をいくつか描いており、その傍らで、いつも行動を共にする優子と理恵がおしゃべりに花を咲かせていた。
「さっき男子たちが言ってたけど、ノストラダムスの大予言て今年だっけ?」
「そうだよ、一九九九年七の月ってやつ。ま、どうせなんにもないよ。世紀末だとか言ってたけど、世紀末って一九九九年じゃなくて二〇〇〇年だし」
「不思議なことってそうそう起こらないよねー。この学校のカイキゲンショウだって、六年になったら見えるし聞こえるって話だったのに、やっぱり何もないまま卒業しちゃいそうだもんね」
「ああ、あの噂?」
優子と理恵が話すのは、どこの学校にでもありそうな怪談の類だった。この小学校でとりわけ体験者が多いと言われているのが、『廊下に飾られている絵が発光する』、『誰もいない教室でたくさんの子どもの声が聞こえる』というものだった。
「六年になってからちゃんと見るようにしてたんだけど、ぜーんぜん光らなくってさ」
優子は大げさに肩を落としてみせた。
「マユツバってやつだよね。光るのは見間違いの可能性もあるし。声が聞こえるとか言うのだって、校庭とかにいる子たちの声が聞こえたってだけなんじゃないの」
普段から幽霊や怪奇現象なんて嘘っぱちだと言う理恵が一蹴するも、優子はめげずに続ける。
「校庭の声が届かないところだってあるじゃん? そうそう、その声ってさ、今までシッソウした子たちの声なんだって」
声を聞いてしまった子たちはそれに引っ張られてうちに帰れなくなるって聞いたんだ、と優子は一気にまくし立てた。
優子に気圧されながら、失踪、と呟いた理恵がちらりと彩を見やる。優子と理恵の会話が耳に入っていたであろう数人の視線が彩に向けられるのがわかった。彩の兄が行方不明ということを同級生で知らない者はいない。
気まずい沈黙と視線に居心地が悪くなって、彩はノートを机にしまうと席を立った。
「ちょっと、トイレに行ってくるね」
努めて明るい声を出したつもりだったが、優子も理恵も曖昧に返事をしたあと口をつぐんでしまった。謝るのも違うと思ったのか、一緒についてくることはしない。後ろめたさなのか優しさなのかはわからないけれど、変に取り繕わないでいてくれることが、彩にとってはありがたかった。
トイレと言ったものの、彩の足は自然とあの絵に向かっていた。昼休みはまだ長いので、そんなに急がなくてもいい。
会議室前に着くと、変わらず絵が彩を迎えてくれる。六年に上がったばかりの頃、同じクラスの男子が、彩がこの絵を気に入っていると知っていて「気味悪い絵」と言い放った。彩はそんなことないよ、と絵の良さを説きたかったのだが、怒り心頭の優子と理恵が男子に説教を始めてしまった。
どこが気味悪いんだろう。暗い色を使っているだけで、優しい絵なのに、と彩は思う。見つめていると、時間を忘れて見入ってしまう。
「いい絵よね。私もこれが好きなの」
声に驚いて振り向くと、いつの間にか後ろに校長が立っていた。
生徒たちはもう慣れてしまっているが、保護者のなかには校長の容貌に驚く者が多い。
校長の白髪混じりの髪はいつも短く切り揃えられている。優子によると、あの髪型はマッシュルームカットというものらしい。近くで見ると色が複雑に絡んだ縁のある眼鏡をかけて、着ているものはいつも原色の派手な色合いだった。今日も緑色のワンピースに赤色のジャケットを羽織っている。それだけ見ればぎょっとしてしまいそうだが、校長が着ると不思議と馴染んで見えた。
父によると、かなり昔からこの小学校に勤めているそうで、来年定年を迎えるのだという。
「家の絵って心が安らいで、とてもいいと私は思うの。この絵も本当によく描けているわよね」
男子を叱ってくれた優子と理恵でさえも、この絵に関する評価は芳しくなかった。同志を見つけられて、彩は嬉しさのあまり勢いよく首を縦に振って応える。
六年間通っているものの、校長と直接話をする機会はほとんどない。ただ、校長が生徒たちに話しかけているところを目にしたことは何度もある。
「たくさんの家の絵を飾っているけれど、どのおうちも本当に素敵。ーー私も帰りたくなってしまうわ」
彩は首を傾げた。この場合「帰りたい」より「住んでみたい」ではないだろうか。
「昔、戦争で家をなくしてしまってね」
校長が語りだしたのは、五十四年前の戦争の話だった。確か八月の登校日に六年生は戦争の話を聴いた覚えがあるが、その時には話していなかったことのようだ。
校長は戦争で住み慣れた家を失った。戦争のあと、友人たちはみんな家に帰れたのに、校長の住んでいた家だけが焼け出されて、自分だけ帰ることができなかったのだという。ただ、焼け出されたと言っても大人たちがそう言っているだけで、校長自身は実は家はちゃんと残っていたのではないかと思っていたそうだ。
「私の家がなくなるはずがない。みんな嘘をついてるって思っちゃったのね」
当時の校長は小学校に上がる前の幼い子どもであったそうだし、そう思うのも無理はない。
「懐かしくて、今でも帰りたいと思うの。おかしなことに、家の中はきちんと覚えているんだけど、外観ーー外から見た家がどんな家だったか思い出せなくて。
時代も時代だし、写真も何も残っていないのよね。周りの大人で家を覚えていそうな人はほとんど空襲で亡くなってしまったし」
校長は絵を見つめながら、プラスチックの額を撫でた。
「たくさん家を見れば、どんな家か思い出せてあの家に帰れるんじゃないかしらって思ってしまうの」
「それで、六年生が描くテーマが<家>なんですか?」
浮かんだ疑問が口をついて出た。校長は一瞬目をみはったように見えたが、すぐに目を細める。
「そうかもしれないわね。あなたも家の絵を描いているでしょう。進み具合はどう?」
まだ完成していないことを告げて、お菓子の家がなかなか思うように描けない、と言ってみた。言葉がすらすらと出てこなかったけれど、校長は口を挟まず頷きながら最後まで聴いてくれた。聴き終えたあと、少し思案顔をしてから口を開いた。
「あれもこれもと詰め込みすぎちゃってるのかもしれないわね。お菓子の家なら、たとえば屋根と壁は同じお菓子にしてもいいんじゃないかしら」
校長の提案に、そうしてもいいんだ、と彩は目から鱗が落ちる思いだった。誰に何を言われたわけでもなく、とにかくいろんな種類のお菓子を描かなければと思い込んでいたのだ。
「あとは、扉は最後に描くこと。一番目立つ部分になるから、最後に気合を入れて描きましょう。大丈夫、寺島さんならちゃんと描けるわ」
校長に名前を覚えてられていることに驚いた。
彩の小学校は四年生から下は四クラスだが、六年生と五年生は五クラスもある。全校生徒は千人近くいるのだ。
驚いた表情のまま固まっていると、彩の驚きに気がついたのか、校長は微笑む。
「全員覚えているわよ。それに、今までの卒業生も」
え、と間抜けな声しか出なかった。今でも多いのに、彩より十ほど上になると六組や七組まであったそうだから、とんでもない人数になる。長く学校にいるならそういうものなのだろうか。
どうやったらそんなに覚えられるのか訊いてみたかったが、運悪く予鈴が鳴ったので教室に戻るよう促された。
校長に絵のアドバイスの礼を言って、彩は早歩きで教室へと戻った。
放課後、描きかけの画用紙を前にして服の袖をまくった。今日こそ描ききるんだ。
彩は校長のアドバイスを思い出しながら、まず下絵を描き進める。
確かにお菓子の家はたくさんお菓子を描こうとしすぎていたかもしれない。いっそのこと、屋根も壁も窓もクッキーにして、扉だけチョコレートにしよう。屋根はココア味のクッキー、壁はバニラクッキー、窓はココアとバニラで作る市松模様のアイスボックスクッキーを思い出しながら描いた。お菓子の家とわかりにくいかもしれないから、屋根にマーブルチョコレートを散らして、たくさんの色で塗ることにしよう。
アドバイスどおりにしたからか、ほぼ真っ白だった家の下書きがどんどんできていく。今まで延々と悩んでいたのはなんだったのかと思うほどの速さで下書きが終わった。
チューブから必要な色の絵の具をパレットに出し、筆を水に浸して穂先に絵の具をつける。
まず扉の枠だけ先に色を塗る。扉は最後だと言われていたから先に屋根、次に壁、窓、屋根に散らすマーブルチョコレートの順に塗っていくことにした。
屋根を塗り終え、壁を半分ほど塗ったあたりからだろうか。筆を動かすにつれて、頭がぼうっとしてくる。
昨日もぐっすり眠ったし、特に体調が悪いわけでもないのに、まぶたが重い。なんとなく寒気がするから、風邪でもひいたのかな。もしそうなら、早く描き終えてさっさと帰らないといけない。
おそってくる眠気に耐えながら、彩は懸命に筆を動かしていく。強い眠気がきたら、手を止めてぎゅっと目を瞑り、かっと見開く。筆を持つ手や頬をつねったりもしてなんとか耐えようとしていると、遠くの方で誰かが話しているような声がした。
はじめは気のせいかと思ったが、耳を澄ますと確かに聞こえる。彩と同じように居残りをしている子がいるのかもしれないが、それにしては人数が多いようなざわめきだった。
全校集会のときの体育館を思い出す。千人近くいる生徒が体育座りをして、それぞれ何かおしゃべりしているような、たくさんの人ーー子どもの声。
ざわざわしているとわかるだけで、それぞれが何を言っているかはわからない。起きているのに、夢の中にいるような心地がした。
彩は筆を置いて、両手を組んで真上に伸ばした。一瞬だけすっきりするのだが、すぐにまた眠気がやってくる。もう少しで描きあげられそうなのに、どうも集中できない。
まっしろのままなのは屋根に散らしたマーブルチョコレートと扉だけだった。ここまで来たら全て描いてしまいたいとも思ったが、校長が「最後に気合いを入れて描きましょう」と言っていたなと思い出した。
ちょっと気分転換して、あとは一気に描き上げてしまうことにしよう。そう思うと少しだけ眠気が飛んだように感じた。
そうだ。気分を変えるなら、あの絵を見に行こう。
彩は立ち上がり、教室を出た。
どこかふわふわとした心地で廊下を進んで、絵のある校舎へと移動していった。視界もぼんやりする道中、先ほどと同じようにざわざわと人の声がする。校庭にはもう誰もいないはずだし、ほかの場所にいるとしても、こんなにたくさんの声がするほど生徒が残っているんだろうか。
疑問が浮かんだが、ぼうっとする頭のせいで考えが続かない。
この校舎は普段から廊下の電気はついていない。今日は曇りだからか、いつもより薄暗い廊下をふらつく足取りで進んでいく。あの絵が視界に入ると、なぜかほっとした。
六年間見慣れた絵に違和感を覚えたのは、絵まであと四、五メートルほどのところだった。
全体的に灰色をした絵の家の窓に、ぽつんと光が灯ったのだ。
窓は漢字の田の形で、木枠の中は薄い灰色で塗られていたはず。それが、淡いオレンジ色の光を放っている。
ーーどうして。
ざわめきでしかなかった子どもたちの声がはっきりと聞こえた。
振り返り廊下を見渡すと、薄暗いなか、ぽつぽつと小さな光が灯り始めた。
ーー早く帰りたい。
ーーいつになったら帰れるの。
ーーもういやだ、お父さんとお母さんに会いたい。
かたん、と物音がして見慣れた絵に振り向いた。
淡いオレンジ色の窓の中に、人影が映る。とっさに、こちらに背を向けている、と思った。
彩は、なんで、と口にしていた。
声に反応したのか、窓の中の人影がこちらを振り向くのがわかった。
ーー誰かそこにいるの?
振り向いた人影には彩の姿は見えないらしい。声の様子から、どうやら男の子のようだ。
ーーもしかして、生徒の誰か?
問われて答えようとするものの、人影は話せるのが嬉しいのか、彩が質問に答えようとする前に喋り続ける。
ーー今はいつなんだろう。長い時間ここにいるのはわかるんだけど、どれくらいの時間がたったのかさっぱりわからないんだ。
人影は肩を落としてため息をついた。うなだれたように見えたが、何か思いついたのか、ぱっと顔を上げた。
ーーそうだ。君に、みんなに伝えてほしいんだ。六年生は最後の図工で絵を描くと思うんだけど、家の扉は絶対後回しにしちゃだめだ。扉を最後に描いたら、その家に閉じ込められてしまう。僕やほかの子みたいに。
彩はびくりと体を震わせ、先ほど明かりが灯った絵の数々を思い出した。あれら全てに子どもたちが閉じ込められている?
子どもたちの声はずっと続いていて、優子が言っていたことを思い出す。今聞こえる声は、まさか。
ーー早く帰りたい。産まれたばかりの妹がいるんだ。お母さんもお父さんも大変だから、僕が手伝いしなくちゃって思うんだけど。
ここで人影は自分ばかり喋っていることに気がついたらしく、照れくさそうに笑った。
ーー僕ばっかりしゃべってごめんね。僕は六年六組の寺島壮平。君は?
「何してるの?」
背後から声をかけられて彩の背筋が凍った。
おそるおそる声の方を向くと、少し離れたところに校長が立っていた。口もとは笑っているのに、今まで見たことがないくらい鋭い目つきで彩を見ていた。
「早く絵を描かなきゃ。さっき見てきたんだけど、もうすぐじゃない。あとは扉だけね」
口調はにこやかに、でも笑っていない目のまま校長が近づいてくる。絵を背にして、彩は迷った。今ここを離れたら、この人影ともう二度と話せなくなってしまう気がしたのだ。
ーー言うことを聞いちゃだめだ。閉じ込められてしまう。
人影が叫んだ。声が届いていないのか聞こえていないふりなのか、校長は人影には何も言わず彩の腕を強引に引っぱった。
「さあ、行きましょう」
人影に助けを求めてもだめだとわかりながら絵を振り返ると、灯っていた明かりが薄れていくところだった。
だめ、行かないで。
校長に強く腕を引かれるのに抗い、彩は絵に向かって叫んだ。
「お兄ちゃん!」
彩の叫びと同時に明かりが完全に消え、人影も見えなくなった。
急に全身の力が抜けその場にくずおれ、彩の視界は暗転した。
倒れたあと本当にあった出来事なのか夢なのかはわからないが、数人の教師たちが何か言いながらこちらへ向かってくる足音に混じり、校長がぼそりと呟く声が聞こえた。
「ーーもう少しだったのに」
気づくと保健室のベッドの上で、傍らには母がいた。彩の手を握り、目に涙を溜めている。
「よかった」
母にも保健室の先生にも担任にも、どうしてあそこで倒れたのかと質問を受けたけれど、彩には説明のしようがなかった。見聞きしたことを誰かに信じてもらえるとは到底思えなかったのだ。
あれは夢じゃなかった。それなら、私がやるべきことはーー。
母の手を強く握りかえし、彩はひとつ決意をした。
翌日、描きかけだった絵は破いて捨てた。先生には、「色水をぶちまけて駄目にしてしまった」と言って、もう一枚画用紙をもらった。
まっさらの画用紙を前に、彩は昨日見たオレンジ色の明かりを思い出す。あの明かりの中に、確かに兄がいた。
彩は筆をとり、下書きなしに色を塗り始める。構図は以前と同じで、背景は森、右側に家、左側の手前にこちらに背を向けた兄妹。家はお菓子の家ではなく、白壁に赤屋根の簡素なものに変更した。扉は外に向かって開かれて、その前には両手を広げて兄妹の帰りを喜ぶ両親がいる。
子どもはちゃんと家に帰るんだ。
無心で筆を動かし、最後に両親の顔を描いた。
笑顔で兄妹を迎える両親を描き終えたとき、どこかで扉が開くような音が聞こえた気がした。
うちに帰ろう 門田秋 @kadota_aki9
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