背く境界

浅倉 山義

第1話

「あの。そこ、どいて貰えませんか?」

キリンはここ最近で一番気分が悪かった。

「休憩だよ。ちょっとだけならいいだろ?」

全身黒ずくめでどこが目なのかわからない鳥のせいである。

「その柵にいられると、お客さんの視界にあなたが入ってしまうんですよ。」

「まあまあ、そんな細かいことはいいじゃない。」

カラスが足でぼりぼりと頬を掻く。黒い羽毛から白い埃が舞った。それを見たキリンの眉は、無意識のうちに中央に寄っていく。

カラスはひとつあくびをして、ガアガア喋り出した。

「あんたらも大変だねぇ。あっちの方にいたクマなんて、人間のそばでわざわざ飯食ってたし。山に住んでる奴らとは月とすっぽんだ。あんなに愛想がいい奴なんて探したっていねえさ。笑っちまったよ。」

「ここは動物園ですよ?山ではありませんから。」

「あぁそうだ、一番酷えのはサルだね。あいつら動物園の門が閉まれば取っ組み合ってるくせに、ちまちま毛繕いなんかしちゃってさ。あれが本当の姿だと思ってる人間が気の毒だ。ありゃあ、さすがに笑えねえな。」

と言いつつ、カラスはケラケラ笑っている。

「どうでもいいですけど、あなたのようにふらふら生きているのとは違うんです。お客さんに楽しんで貰うのは私たちの使命なんですから。」

キリンは苛立ちを隠せない。そうやって園の仲間をからかって回っているに違いない。夏場、古くなった水飲み場の水のような性根。同じ鳥なのにハトやスズメとは大違いだ。

「む?」カラスは首を傾げた。「俺に比べりゃ自分らの方がよっぽどいいってか?」

「当然ですよ。」

キリンはずい、と一歩前に出る。カラスの黒い顔が近くなった。

「私たちの姿を見てお客さんは喜んでくれるんですから、こんなに嬉しいことはないですよ。」

キリンから出ていく言葉は強かった。

強いのだが、なぜか身が入らないような、おかしな気分になる。

それでもキリンは口を止めない。止めてはいけないと思った。だから詰まりそうになる言葉を必死に叩き出した。

「だから、みんな一生懸命良く見せようと努力しているんじゃないですか。あなたと私たち、どちらが善い生き方をしているか?そんなのは一目瞭然じゃありませんか。わざわざ言うまでもないと思いますがね!」

ひゅうっ、とぬるい風が柵の隙間を抜けた。

するとカラスはゲラゲラと笑い出した。更には反り返って柵から落ちかけている始末である。

「な、何がそんなにおかしいのです!?」

「いや、すごいなぁと。」

羽を雑に動かして、カラスは体勢を整える。

「何かおかしいとでも!?」

「ん~?そうじゃねえけどよ~。」

妙に含みのある言い方だ。

「だったら、何なんです。意地汚いあなたにも誇れるところはあると?」

「うーん…別にそんなものはねえなぁ。」

「ふーん?残念ですね。是非とも聞いてみたいものでしたけど。」

どうせろくでもないような話しか出来ないのだろうけど。キリンはそう思った。

自分の言葉に、カラスは己の愚かさを自覚せざるを得なかった。だから笑うしかなかったのだ。愚かさを嘲笑ったのだ。

今日の空も青い。キリンを見て喜ぶ子どもたちの姿が見えた。

このカラスが柵にいたところで、大した問題ではない気がしてきた。何を躍起になっていたのだろう。自分は自分の役目を果たすだけだ。

キリンは子どもたちのいる方に移動しようと、足を動かす。

「仕事かい?キリンさん。」

カラスの呑気な声がそれを止めた。

「ええ。あなたも、さっさと今日の分の食事でも漁ってきてはどうですか?」

「ははっ、そうだな。今日はまだ何も食ってねえんだった。」

動物園なら食事には困らないのに。キリンはすんっと鼻を鳴らした。

「毎日、あなたも大変ですね。」

キリンの言葉に、カラスはケラケラと笑う。まるで他人事だった。

折角優しい言葉をかけてやったのに、とキリンの神経はまたカリカリと音を立てた。

「あなたは本当によく笑いますね。今度は何なんです?」

「ん?俺は別に大変じゃねえのに、お前さんがやけに同情してくれるもんだから。そんなに大変そうに見えんのかなぁって思っただけ。」

カラスはくねくねと体を動かす。意外にもしなやかで、朗らかだった。

キリンは返す言葉を探して、喉を詰まらせていた。

「あの東の山あるだろ。あそこを越えると、人間がわんさかいる街があるんだぜ。いつも、飯のときはそこに行くんだ。」

そんなキリンをよそに、自分の話を始めるカラス。

「はぁ…そうですか。」

不思議と相槌を打つ言葉は簡単に出る。つかえが取れたかのように。

「気に入ってるエサ場があんだよ。いつも決まった袋を破るんだ。それ、ある夫婦の家から出るゴミなんだけど、旨いもんばっか食ってんだぜ。それがもう最高なのよ。」

カラスの表情はやはり見えなかった。

「旦那の方が糖尿病であんまり食っちゃいけないらしいんだけど、結局夜中に隠れていいもん食ってんだよね。そのおこぼれがいいんだよなぁ!」

「とうにょうびょう?」

キリンは宇宙から来た単語かと思って聞き返した。

「あぁ、人間の病気だよ。旨いもんばっか食ってる代償なんだろうよ。」

一々嫌味ったらしい言い方である。気に食わない。

おこぼれを漁って生きることが大変じゃないなんて、やっぱり気が触れている。

キリンは視線を落とした。群がっていた子どもたちが、走り去っていく。

「じゃ、俺は行くよ。腹が減ってきた。」

カラスはキリンに背を向けながら言った。

「そうですか、もうお客さんの邪魔はしないで下さいね。」

二度とここへ来て欲しくないという思いを込めて、キリンは刺々しくそう言い放った。

「ははっ、安心しな。俺は飯食ったら海の方へ行くんだ。多分、もう戻って来られねえさ。」

「それはそれは。まぁどこへでも行ったらいいじゃないですか。」

ぬるまったい風の流れが一瞬だけ変わる。

カラスは羽を広げ、痩せた体を浮かせていた。

黒い羽が長い首の影に浸潤するように落ちた。

「俺には翼があるからな、あばよ。」

浸潤する黒い羽に、キリンが気付くことはなかった。

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背く境界 浅倉 山義 @asakurayamagi

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