17 とことん浄化するの


 船路は順調だった。やがて湖の幅が広がり流れが幾筋にも分かれた。真ん中に幾つもの砂州があって、木や草が生えていて白に黒い模様のある大きな鳥が『クエ―』と鳴きながら飛んで行った。その向こうにあるのが大湖だろうか。海のように広く大きく静まっている。


 途中で出てきた船は4隻、いずれも外輪船でパウリーナの乗っているこの船より少し小さい。船尾に赤白半分で王冠の模様が並んだ旗が掲げられていて、兵士が時々見回りをしている。


「あの旗はアンベルス王国の旗ですか?」

「そうだ。アンベルス王国側の三日月湖はラグーザ修道院に行く船着き場と、パウリーナ嬢のアールクヴィスト侯爵領の港しかない。アレはアールクヴィスト家の船ということになる」

「国の重要拠点ですわね。輸送費やら通行税やらで儲かりますし、輸入品は一手に引き受けて、侯爵家は王国の命運を半分握られていらっしゃるのですか。お相手としては申し分ないですが」

 クレータの分析が出た。

「さあ、俺は彼女の相手ではないな、なったこともない。ナナミが俺のそばにいるから絡みたくなっただけだろう」

「そうなの?」

 人に恋人が出来たら、やたら絡んだり邪魔したりする子っているけど。

「侯爵は大湖を我が物にしたいのだ。大湖は誰のものでもない、いつも不穏で湖賊や軍船はしょっちゅう出て諍いを起こすし、氾濫は起きるし」

「最近はそうでもないと聞いたが、まだ起きるのか?」

 ヨエル様が聞く。

「最近、また起きたようだ、アンベルス王国側ではないが」

「ふむ」


  * * *


 相変わらずのどんよりとした曇り空だ。湖面を見ると水は大湖に向かって流れている筈なのに、大湖の方から何かが流れて来る感じがする。連日の雨の所為か水は茶色に濁っている。その茶色の水の奥の方に何かが揺らめいて、いや蠢いて、ゆっくりと湖を遡っている。胸騒ぎのするような何か、ドキドキではなく不安になるような何かが、表面ではなく、もっと底の方に、澱んだ何かが──。


「それ以上身を乗り出すと落ちる」

 エラルドが腰を掴んで菜々美を引き戻す。

「はぅ!」

 菜々美はハッとして夢から覚めたように引き留めたエラルドを見る。

 ああ、禍々しい何かに魅入られて引きずり込まれる所だった。背筋がゾクリと震えた。



「失礼します、エラルド様。お茶と軽食をお持ちしました」

 そこに、エラルドの知り合いのラーシュがワゴンにポットやらカップを乗せたものを運んで来た。この航海では食事の提供はなくて菜々美の【アイテムボックス】やエラルドのマジックバッグに詰め込んだ食料を食べている。ヨエル様とクレータはお茶だけでよいというのだ。ありがたいことである。


 どうしていきなり、と疑い深くなるのはこのアッシュブラウンの長い髪のラーシュという男がイケメンな所為かもしれないし、今し方引き込まれそうになった湖の底の何かの所為かもしれない。慣れた手つきで船室に運ぶのをじっと見て、並べられたお茶やらケーキをじっと見た。


 ナッツケーキ『食可』

 クッキー『食可』

 お茶『食可・効果(睡眠)』

 ん? なにこれ。


 咎める案件だわね、でも騒がれたくない。騒がれる前に痺れてもらおうか。間違いなら後でいくらでも謝ってあげるから。

「エラルドの知人なのに何でこんなものを、眠らせて何をする気? 巻き込まれ女の怒りを受けてみなさい!」

 指の先から稲妻のようなものが迸ってラーシュの体に命中した。

「うがあ!」

 ピクピクと痺れるラーシュ。

「どうしたんだ、ナナミ」

 驚くエラルドに説明する。


「これ、このお茶に睡眠効果があるの。眠り薬が入っているんだわ」

「まあ」

 クレータが手早くひものようなものを出してラーシュを拘束する。

「うがあーー、ぐっ」

 痺れた上に拘束されて苦しそうに暴れるラーシュをクレータが抑え込む。ヨエル様がラーシュを見て「何やら黒いものが見える」と言った。

「黒いモノ? どうすればいいのですか」

「浄化かのう」

「浄化……」


「余が言う霊気と相反するものを瘴気という。この男は瘴気に犯されておるのじゃ。瘴気に犯された者は己を失いだんだん魔物化していく。浄化しても元に戻るかどうかは分からぬのじゃ」

 浄化は一応覚えてはいるけれど、まだ使ったことも無いし成功するかどうかも分からない。この人フィン村の近くで会った時はまだまともそうに見えたのに、一体どこでこんなことに──って、思い当たるのがアレしかない。チラリとエラルドを見ると苦い顔をしている。知っていそうな雰囲気だ。


「ぐぎゃがっ」

 痺れてピクピクするラーシュ。

「このままでは悪化するだけだろう。やってみてくれ、ナナミ」

 エラルドは沈痛な面持ちで言う。菜々美はコクンと唾を飲み込んで男をじっと見る。頭の中の何処かにある筈だ。きっと脳細胞に絡みついて意志を捻じ曲げているに違いない。この人はエラルドの味方の筈だ。その気持ちを失って欲しくない。


「清く美しき精霊よ、彼のものを救い給え。祓い給え。清め給え。無垢なる身に帰し給え、浄化」


 水で洗う感じをイメージしたいのだけれど、菜々美には水が出せない。テレビのCMによくある繊維に着いた黒い汚れを取るイメージで行く。

 空気がぐるぐると攪拌かくはんされる。特にラーシュの身体の辺りはグルグルが凄い。

(うわ、これ大丈夫だろうか)

「うがあああーー!」

 男は暴れた。暴れて喉を掻きむしろうとしたがクレータが押さえ付けている。やがて、その身体から禍々しい黒い靄が滲み出て来た。部屋の空気に触れると段々と淡くなって霧散する。滲んだ靄がすべて消えてラーシュはぐったりと横たわった。


 死なないよね、まだ息はしているみたいだし。

「うーん、エラルドさん、この浄化で聖水出来ないですかね?」

 菜々美の浄化はかなり酷いというかきつい様な気がする。他の方法があるのならそっちで先にやってみて最終手段にしたい。

「うん? ああ、そうか」

 エラルドは驚きながら器を出して水を入れる。

「浄化してみるか?」

「はい」


 今度はどうしよう、浄水器のイメージでどうだ。フィルターろ過!

「清く美しき精霊よ、彼のものを清め給え、祓い給え──」

 菜々美が祈ると器の水が攪拌ルビを入力…されて澄んだ水になった。作った聖水に浸して絞ったタオルでラーシュの顔を拭き始めるとクレータが代わってくれた。

「私がいたしますわ、お嬢様」

 クレータはきっちり手早くラーシュを拭いて行く。菜々美のおっかなびっくり恐々な手付きと全然違う。出来る侍女なのだ。


 肩でゼイゼイいっていたラーシュの息がだんだんと落ち着いて来た。

「無事でしょうか?」

「うむ、浄化された様じゃ。余も清められたぞ」

 ヨエル様が太鼓判を押す。

「気持ちが良くなりましたわ。この辺りはよくない気配がします」

 クレータが菜々美の先程の胸騒ぎの答えを口にする。よくない気配か。

「俺も何となくすっきりした。しかし、よくない気配とは──」

 エラルドが不審げに聞く。

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