黒糸・第10話

 男の足跡を辿る。

 目にも止まらぬ速さで部屋を出て行ったが、埃の上に足跡が残っていたので懐中電灯で照らせば苦労はしなかった。

 丸い光が暗闇で踊る。

「折ってでも離さない方が良かったか!?………うわっ!」

 柔らかい物にぶつかり、壱樹が尻餅をつく。手に持った懐中電灯が転がった。

 ぶつかった相手も尻餅を付き、埃が飛ぶ。壱樹も相手も自分の体の体に着いた埃を叩くので更に舞う。けほ、と湊が咳き込む。

「走るんなら前くらい見て走りなさいよぉ。ちゃんと正面に目ぇついているんですかぁ?ガラス玉でも?義眼ならちゃんと調整してくださいよぉ。」

「うるせぇ!こっちは急いでんだよ!攫われた奴がいたってのに!」

「霧凍、さん。」

 湊の懐中電灯が照らす。

 眼鏡のレンズが光を反射する。

 霧凍が不快な表情を浮かべていた。

「いつまで照らしているんですかぁ?眩しいんですけどぉ。」」

「ごめん、なさい。」

 湊が慌てて灯りを下げる。暗がりの中で霧凍は眼鏡を掛け直す。

「あぁ?何でお前ここにいるんだよ!」

「そっちこそ!きちんと工場のことを調べられているんですよねぇ?」

 湊は霧凍のズボンを引っ張ると屈めというジェスチャーをする。

「ハイハイ、どうしました。湊さん?」

 湊はそっと霧凍の両頰に手を伸ばし、触れる。がしりと人差し指と親指で摘むと、思いっきり横に引っ張った。

「いひゃい!いひゃい!いひゃいひぇう!ひゃめひぇくだひゃい!」

 たまらず霧凍は降参の意味を持つタッチをするが湊の手は緩まない。ぎゅうと伸びるほっぺはこれ以上は伸びないだろう。

 壱樹は唖然と奇行を見守る。

 これ以上は伸びないのを湊は確認するとやっと手を離した。おかしいなというように首を傾けると、今度は霧凍の首筋をペタペタと触ろうとするのを、霧凍は手首を掴んで阻む。

「私が本物じゃないって?疑っているんですかぁ!?馬鹿じゃないですかぁ?私は私。偽物のわけないでしょう!」

 真っ赤になって怒鳴る霧凍に小さくなる湊。

 壱樹はしばらく湊と霧凍の間を行ったり来たり。相当な力で引っ張られたのだろう。霧凍は白い肌だから余計目立つ。しきりにすっかり赤く腫れ上がった患部をさすっている霧凍に我慢できず壱樹は腹を押さえ、大声で笑った。

「………ごめん、なさい。」

 小さくなり謝る湊に、霧凍は溜飲が降りた。眼鏡を掛け直し、鼻を鳴らす。

「全くなんて無駄なことを………!そんな脇目も払わず掛けていてきちんと調査をしているんですかねぇ?」

「いけねぇ!あいつ!早く追いかけねぇと………!」

 壱樹が頭を抱えて叫ぶ。わんわんと工場内で反響した。

「黒い糸に絡まれましたか?」

「いや、体が勝手に動いているように見えたぜ。」

「………僕、見ました。シャツの袖から髪の毛くらいの、長細い何かが蠢くのを。霧凍さんが言っている黒い糸かも………」

 湊が消え入りそうな声を上げる。駆け出していく男のシャツの袖、ズボンの裾からはうぞうぞと髪の毛のような黒い糸が蠢いていた。

「そういうのは早く言え!」

「じゃあ、もう無理です。諦めなさい」

「何でそんなこと言えるんだよ!」

「俺は諦めねぇからな!」と肩を怒らせ、ズンズンと壱樹は足跡を辿り、奥に進む。

 通路の先にあったのは、錆の浮いた鉄の扉であった。開けようとする壱樹を押し退け、くまなく撫でたり、叩いたりした後、ドアノブに指を絡ませ、そっと引いた。金庫のような分厚い鉄の扉なのに、更に2重扉になっている。

 先ほどの隠し扉といい、よっぽどこのこの部屋を隠したかったのだ。

 この先何があるか。

「隠し財産だったらいいのに。」

「それだったらボロ儲けですねぇ。」

 怖さを紛らす壱樹の冗談に霧凍が乗った。壱樹の額から汗が滲む。

「壱樹、さん。」

 湊の言葉に扉の方を見ながら頷く。

 ゆっくりと開けば、扉の奥から甘ったるい香りが漂う。ただ甘ったるい訳ではない。同時に鼻をつくようなアルコールの様な刺激臭も漂う。懐中電灯でそこらを照らしても真っ黒。

 まるで小さな光すら床、壁にくまなく塗られた黒が吸い込んでしまっているかのようだ。

 中に入ろうとした壱樹の肩を掴み、霧凍が止めた。

「どうした。」

「部屋全面です。」

「え?」

「部屋全面にあの液体が塗られています。」

 死体を腐敗させて作られたあの液体。

 何人分だろうか。

 ゾッとするより先に急速に壱樹の頭に血が昇る。

「だからなんだよ。あいつはこの部屋に入ったんだ。だから、助けに行かないと!」

「あいつがどなたか存じ上げませんが、この部屋には生きてる人間もいません。無駄ですよぉ。」

「うるせぇ!俺は行く!」

 壱樹が部屋の中に入る。

 腕で鼻を覆う。それでも鼻がもげそうな臭いだ。

 後から湊も続き、何体かの死体を観察した後、キョロキョロと辺りを見渡す。

 腐汁などで黒ずんだ床を指先で削れば、錆び付いたような赤い色が見える。血だ。近くに置いてあったコンテナに登り、床を見下ろす。

 懐中電灯の灯りが人の成れの果てを男体までも浮かび上がった。

 ひでぇ。

 口中で呟いた。

 中央に仰向けになった人間がなんとなく気になる。

 コンテナから降りると中央の遺体を仰向けにする。眼球があった部分には無数の蛆虫が溢れ、床でのたうち回った。眼球の影も姿もない。体表は黒く変色し、骨が露出する。腐敗した汁が滲み出ている。

 壱樹が口元を押さえる。

 喉元まで込み上げる酸っぱい物を必死で堪えた。

「壱樹さん、これ………あ、壱樹さん手袋。」

 「気休めかも」と湊はいいながら、壱樹に白い手袋を渡す。嵌めると壱樹は湊からカードを受け取った。

「これは………」

 黒い液体に塗れた免許証。

 顔写真半分が汚れているが先ほど部屋を出て行ったあいつだ。

「本当はご遺族の方に、返したい、けど。何かわかるかもしれないから。」

「あぁ、ちゃんと返してやろうな。」

 湊の頭を撫でようとして、今はいけないと指を屈める。汚い手袋ではいけない。

「三十木に連絡して早く外に出るぞ………霧凍。………霧凍?」

 先ほどあれほど騒がしかったのに、静かだ。部屋の隅で膝をつき、壁に向かっている。

「霧凍。」

 霧凍がゆっくりと立ち上がる。片手には銃。銃口は壱樹の方を間違いなく向いていた。

 引き金に指が掛かる。

 銃声が響いた。

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