黒糸・第2話
彼の答えを待つ間に陽は傾き、海の向こうに隠れ、海面に映る夜景は波に揺られて、歪んでいる。今日の海は少々荒れていた。湊はマグカップを包むように持ち、震える指を暖めている。おずおずと男の顔を覗き込む。
「ムト、ウさん?」
湊が自分の口を押さえる。時すでに遅く、紫の目が不快に細められる。薄く青みがかっている瞳が湊を睨む。心臓が跳ねたのを右手で押さえ、荒くなる呼吸を湊は必死に整えた。
顔色が赤くなったり、黒くなったり忙しい少年は自分の本名を知っている。
何故?仕事以外では会ったことがない。
こちらから観察することはあっても、直接接触することはなかった。
「答えなさい。貴方、なんで私の本名を知っているんですか?」
霧凍の問いに湊は塞ぎ込み、視線を合わせない。
開業前の事務所だ。監視の目はない。
隅から隅まで調べた。
煩い上司も帰ってこない。
ならばーーー取れる方法はもう一つ増える。
「放出ーーー
霧凍の指がジグザグに動く。紙に置いたなら雷の形を描いただろう動きはそのまま形を成し、小さい電撃が湊の上に瞬くもなく落ちた。凄まじい痛みが湊の頭から爪先まで湊の体を駆け巡り、たまらず床に倒れた。
離れた所で活躍は聞いていた。しかし目の前の少年は噂の鱗片もない。鈍間で無力な少年を上司は気に掛けろという。理解できなかった。労力と時間の無駄だ。この少年がいる事で報告の無駄が増え、我が社の利益は減る。霧凍にとって無駄を減らすチャンスだった。
「私はもう十分待ちました。これ以上は時間の無駄ですよぉ。それに業界のタブーである他人の本名を口にしました。覚悟はできてますよねぇ?心配しないでください。この東響、環境テロも毎日起こっていますから、被害者の1人くらい増えてもおかしくない。安心してください。葬式くらいは上がりますよぉ。」
命を助けてもらった相手に掌を返され、さぞかし絶望しているだろう。一体どんな顔をしているのやら、と足蹴にして湊を仰向けにし、銃を片手に湊の顔を覗き込む。
ただただ霧凍を見上げていた。感情の波ひとつ起こさず、受け入れる凪いだ瞳。
理解できない。霧凍の眉間に皺が寄る。
「みっともなく泣いて、惨めに命乞いくらいしなさいよ。」
右手に銃を握り、湊に銃口を向けた。
何発かなら撃ち抜いていいだろう。超回復持ちは救命措置が雑でも死なないので、面倒がなくていい。
引き金が指に掛かる。
「やめろおおおおおおっ!!!」
窓を突き破り、乱入者が飛び込んできた。硝子片が飛び散り、霧凍の頬に鋭い熱が走る。構えていた銃を乱入者に向けるが、体当たりのまま突っ込んでくる乱入者を避けるので、手一杯だった。
乱入者は滑りながらも、転がっている湊の襟首を引くと、自分の下に引き寄せた。湊の様子が伝染したかのように自分まで苦悶に歪む瞳に湊の目の内に動揺が波紋のように広がる。
「いつき、さ。」
「喋るな。辛いだろう。」
湊を抱き上げて、壱樹は安心させるため微笑んだ。
「もう大丈夫。俺がいる。傷はないな。どこも撃たれてないな。よし!」
力が入らない湊の体を部屋の端に寝かせ、壱樹はゆっくりと立ち上がった。
「不良ぅ、蛮族ぅ。窓の修理代、きっちりと請求しますからねぇ!きっちりと体で払ってもらいましょうかぁ!切り売りでねぇ!」
「そっちこそ!傷害罪及び略取・誘拐罪できちんとお縄につけ!世のため、人の為ってなァ!」
振り向き様に壱樹が駆け出し、霧凍との距離を詰める。
愚直に一直線に向かってくる壱樹を馬鹿正直に受けるつもりは全くない。
壁が、邪魔だ。
再度霧凍の指が動く。
狙うは事務所の壁の中を這う電気系統。
小さな雷が壁の皹から侵入し、瞬時にケーブルを焼き尽くした。電圧に耐え切れず、たまらず壁は爆発。吹き飛ぶ壁に紛れて、霧凍は外に飛び出す。爆炎の中に無論何度か銃弾をばら撒くのを忘れない。
事務所の要である電力系統はもう自分で改造していた。また自分で直せば良い。
煙の中、自身の片手の中の銃が弾け飛んだ。目線だけで吹き飛んだ銃を追えば、棒状のものが銃身を貫いている。
そればかりに気を取られてはいけない。
地面を擦らんばかりに駆ける壱機の蹴りが瞬発力を伴い、上半身を逸らして躱した霧凍の崩れた前髪を数本千切った。
「短い足で必死に蹴ってぇ!当たらなくて申し訳ないですねぇ!」
「これでも俺は同年代でも身長が高い方だ!無駄に高い身長だな!避けるのもやっとじゃねぇか!」
足の短さを指摘され、激昂する壱樹の回し蹴りを片腕でいなす。
工場跡地である事務所の周りは雑草ばかりだ。湊くらいならすっぽり覆ってしまうが、自身の高身長は隠れるには不利、見渡すには有利。
体の中の能力を取り出すのに集中するため、一旦距離を取ろうとして、後ろに小さく跳ぼうとするが、足を取られ、体制を崩し、尻餅をつく。
右足首が草に絡め取られている!
何重にも巻かれたそれは、強化した体でも引き千切るのは無理と判断。
早々に諦め、術を放った。
放とうとした。
腕にも指も雑草が幾重にも絡みつく。地面に縫い止められ、力を込めても指先すら動かない。
「魔術を使うんだ。卑怯とか言うなよ!」
壱樹の足先が霧凍の鼻先に迫るが、足先より先にさっと青いものが霧凍の鼻先と壱樹の靴の先を遮った。
自身の鼻と靴の先を削った物を目で追う。地面には青く鈍く光る刃が刺さっていた。
投擲された方を見ると、眉をハの字に寄せた湊が左腕を振り抜いていた。
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